第118話 作戦書が食べられた日
公式戦の朝、クララは作戦書を三枚持っていた。
一枚目は、普通の作戦書。
二枚目は、空欄の多い作戦書。
三枚目は、何も書いていない白紙。
それを見たリリィが、朝食の席で言った。
「今日の作戦、食事みたいですね」
「食事?」
ロイが聞く。
「一枚目が主菜。二枚目が骨付き。三枚目が皿」
「皿を食べるんですか」
「グラマなら食べかねません」
リリィは真顔だった。
実際、笑い事でもない。
字喰旗グラマ。
文字を食べる旗。
伏せ字を食べる旗。
抜去空白に反応する旗。
昨日の事前観察で、俺たちはそれを見た。
今日の公式戦では、間違いなく俺たちの作戦書も狙われる。
だからクララは、あえて三種類の作戦書を用意した。
食べられるもの。
食べられた反応を見るもの。
そして、食べられないもの。
「白紙も食べられる可能性はあります」
クララが言う。
「でも、白紙には確定がありません。未記入です。抜去空白とは違います」
「グラマがその違いを見るかどうか」
アルフが言った。
「はい」
クララは青い栞を作戦書の間に挟む。
「今日は、作戦書を守る試合ではありません。作戦書が食べられた後に、何が残るかを見る試合です」
その言い方は、少し怖い。
でも、今の第七部には合っていた。
俺たちはこの旅で、何かを失ってから戦うことに慣れてきた。
予定通りにいかない。
欠陥が出る。
旗が逃げる。
記録が欠ける。
名前が薄くなる。
そのたびに、残ったものを見てきた。
今日も同じだ。
作戦書が食べられる。
それでも残るものがある。
公式戦の競技場には、研究校の観客が多く集まっていた。
リブランの観客は記録帳を持っていた。
アストラムの観客は魔法板を持っている。
それぞれの板に、試合前予測、魔力反応、選手分類、旗行動モデルが表示されている。
俺たちの名前の横にも、分類が並んでいた。
ただし、以前より少し変わっている。
クララ・ヴェルム。
現代標準式読解不能。
古代旗術式読解高適性。
ルカ・ヴァレン。
風属性反応薄化。
名の反射回避および旗道預託に類似する痕跡あり。
長い。
とても長い。
でも、短く「欠陥」と書かれるよりずっといい。
リリィが掲示を見上げる。
「私のところ、『低予測性召喚の戦術利用例あり』になってます」
「よかったじゃないか」
ジャックが言う。
「硬いです」
「迷惑召喚よりいいだろ」
「それはそうです」
グレイがリリィの鞄から顔を出し、観客の魔法板を見て震えた。
「あなたも載ってますよ」
リリィが小声で言う。
グレイはさらに震えた。
「褒められてます」
震えは止まらない。
競技場中央では、アストラム側の選手が準備をしていた。
白い競技服。
手元の魔法板。
腰には小さな投射器。
彼らは作戦を文字にし、式にし、グラマへ食べさせることで逃走経路を誘導する。
文字を失うことに慣れている相手だ。
こちらは、慣れていない。
だからこそ、先に失う前提で立つ。
ディオン主任が審判補助席にいる。
今日は中立の観測員という立場らしい。
少し不安だが、昨日までよりは信用できる。
少なくとも、止まることを覚えた人だ。
審判が中央へ出る。
「本試合は通常旗取り規則に基づく。字喰旗グラマへの接触で捕獲判定。競技中の作戦書、魔法文字、投射式は旗の摂取対象となる。個人記録に関わる未承認投射は禁止」
未承認投射。
アストラムらしい注意だ。
リブランでの個人記録誘導のようなことを防ぐためだろう。
俺は水筒に触れた。
飲まない。
触れる。
クララは三枚の作戦書を持って、競技区域の端へ立つ。
青い栞は胸元。
「読みます」
彼女は小さく言った。
「対象は試合中のグラマの外層反応。読解範囲は競技上必要な部分のみ。個人記録、カルミア空白、ルカさんとエレナさんの契約痕跡に関わる場合は停止。読解結果は仮説として扱います」
「承認」
俺が言う。
ノルが部誌を開く。
「第七部、承認」
ディオン主任も補助席から頷いた。
グラマが上空を旋回する。
黒い布が、朝の光の中で薄く光った。
審判が手を上げる。
「始め」
試合開始の合図と同時に、アストラム側が動いた。
速い。
人が速いというより、文字が速い。
相手の主将らしい男子生徒が魔法板を振る。
空中に光の文字が投射される。
初期誘導。
右上逃走。
追跡妨害。
三つの文字列がグラマへ向かう。
グラマが食べる。
黒い布が文字を飲み込み、軌道が右上へ跳ねた。
わかっていても速い。
「右上」
ネルが言いかけて、少し止める。
リブランの癖が残っている。
断定しない。
ただ、今回は断定そのものが問題ではない。
問題は、文字化されることだ。
「声だけでいい」
クララが言う。
「右上、可能性。ネル、瞬間だけ」
「了解」
ネルが消える。
一瞬だけ、右上の逃走線の横へ。
触れない。
グラマの軌道が少し変わる。
そこへアストラム側が次の文字を投げた。
接近者、ネル。
瞬間移動、持続不能。
グラマがそれを食べる。
ネルの目の前で、逃走線がばらけた。
「うわ、嫌」
ネルが着地して舌打ちする。
「私の分類を食べた」
分類を食べる。
それはつまり、相手がこちらの欠陥分類を文字にしてグラマへ渡したということだ。
禁止ではない。
公開分類の範囲だから。
でも、嫌だ。
「分類を餌にしてる」
ノルが書く。
ロイが口を結ぶ。
「僕のも来ますか」
「来る」
アルフが短く言った。
「全員分来る前提で」
俺たちは動く。
作戦書の一枚目を、クララが競技区域の端に置いた。
普通の作戦書。
そこには、初期誘導、非接触接近、音声合図、足跡誘導、作戦書消失後の即興判断まで書かれている。
つまり、食べられるための主菜だ。
グラマが反応した。
黒い布が急降下する。
クララは逃げない。
作戦書から一歩下がる。
「食べさせます」
グラマが作戦書に触れた。
文字が消える。
紙そのものは残る。
でも、そこにあった作戦の言葉だけが吸われるように消えていく。
初期誘導。
非接触接近。
音声合図。
足跡誘導。
全部。
ロイが思わず声を上げる。
「本当に食べた」
「食べるって言ったでしょ」
リリィが言う。
「見ても驚くものは驚きます」
グラマは作戦書を食べた後、急に軌道を変えた。
こちらの作戦を読んだ。
いや、食べた。
食べて道にした。
グラマは、俺たちが考えていた非接触接近の逆を取るように、競技場の外周へ逃げた。
アストラム側が拍手に近い指の音を鳴らす。
観客席の魔法板に、文字が走る。
カルミア作戦書、初期摂取。
グラマ逃走経路、予測優位。
「予想通り、予想外ですね」
リリィが言った。
「どっちだ」
ジャックが聞く。
「作戦書を食べられるのは予想通り。食べられると腹が立つのは予想外」
「それは予想しとけ」
腹は立つ。
俺も立つ。
作戦を文字にして、ちゃんと準備して、それを目の前で食べられる。
努力を消されたように見える。
でも、クララは首を横に振った。
「消えていません」
彼女は言った。
「作戦は、グラマの道になりました」
「それ、相手に利用されてるってことじゃないの?」
ネルが言う。
「はい。でも、道になったなら読めます」
クララの目が、グラマの黒い軌跡を追う。
作戦書を食べた後の軌道。
そこに、俺たちの作戦の痕跡がある。
クララは読めない現代式ではなく、グラマが作った古い道を見る。
「非接触接近の文字が、外周の逃走路に変換されています。ネルさんの瞬間移動は警戒された。音声合図は、まだ食べられていません」
「つまり、声は使える?」
ロイが聞く。
「使えます。ただし、魔法文字に変換されたら食べられます」
「じゃあ、生音で」
ロイは指を構える。
とん。
一つだけ。
魔法式にしない。
ただの小さな音。
グラマは反応しない。
でも、第七部は反応する。
ロイの音は合図だ。
ミラが足場を踏む。
ガレスが周囲を見て、水筒を置く。
レイナが前へ出る。
「私が失敗を置きます」
彼女は言った。
相手がすぐに文字を投げる。
レイナ。
成功前失敗強制型。
グラマが食べる。
レイナの分類を餌にした逃走線が生まれる。
彼女が何かをしようとすれば、失敗する。
なら、その失敗を読んで逃げる。
そういう誘導だ。
レイナは一瞬だけ顔を歪めた。
でも、止まらない。
「一回目、ここで失敗します」
彼女は足元の銀線へ小さな魔法を置いた。
狙いはグラマではない。
逃走線でもない。
作戦書の二枚目。
空欄の多い作戦書。
そこへ、レイナの魔法は届く前に失敗した。
光がずれて、作戦書の横に落ちる。
失敗。
でも、そこに痕跡が残った。
未完了の試行痕跡。
クララが昨日読んだ古代術式の言葉。
グラマが反応する。
分類文字ではなく、失敗の痕跡に。
黒い布が、作戦書ではなく、失敗が落ちた場所へ向かう。
「来た」
クララが言う。
「失敗は文字じゃない。でも、道になる」
レイナの顔が少しだけ明るくなる。
「失敗、置けました」
「置けた」
俺は答える。
グラマが失敗痕跡を口に含む。
食べたのか、読んだのか。
どちらでもあるのかもしれない。
その瞬間、アストラム側の予測式が少し乱れた。
研究校の選手たちが慌てて文字を投げる。
失敗痕跡。
予測外。
再計算。
グラマがそれを食べる。
食べすぎだ。
黒い布が一瞬、大きく膨らんだ。
「食べ過ぎてます?」
リリィが言う。
「たぶん」
クララが頷く。
「文字が多すぎると、道が増えすぎる」
「なら、もっと食べさせる?」
ジャックが聞く。
「危険です。暴走するかもしれません」
「壊すのは?」
「駄目です」
「言う前に言うな」
「言いそうでした」
ジャックは舌打ちしかけて、止めた。
ロイが二つ目の音を鳴らす。
とん。
グラマは音を食べない。
第七部だけが動く。
リリィが鞄を開いた。
「グレイ、匂い追い。ただし文字じゃない匂い」
グレイが出る。
震えている。
でも、鼻を動かす。
グラマが食べた作戦書の道。
レイナの失敗痕跡。
それらに残る、文字ではない匂いを追う。
グレイは一歩進む。
止まる。
二歩進む。
止まる。
相変わらず弱い。
でも、追い詰めない。
グラマは逃げない。
むしろ、少しだけグレイの方へ下りてくる。
アストラム側がすぐに文字を投げた。
低予測性召喚。
追跡精度低。
グラマが食べる。
しかし、グレイはそもそも低い。
分類を食べても、あまり変わらない。
リリィが胸を張る。
「低いが強い」
「その言い方はどうなの」
ネルが言う。
「今だけ採用します」
クララはグレイの動きを見る。
「グレイは文字にされても、文字通りになりません」
「どういう意味ですか」
ロイが聞く。
「低予測性召喚、と書かれても、低予測性そのものは食べ切れない。分類が実体に追いついていません」
「分類が負けてる」
ノルが書く。
いい言葉だ。
分類が負けている。
欠陥魔法と呼ばれた俺たちは、ずっと分類に負けてきた。
でも、今日は少し違う。
分類された言葉をグラマが食べる。
その後に残る実体が、分類よりも複雑なら、相手の誘導はずれる。
「全員、分類より複雑に動く」
俺は言った。
自分で言って、少し笑いそうになる。
当たり前のことだ。
人は分類より複雑だ。
でも、研究校ではそれを試合中に証明しなければならない。
ネルは持続不能と書かれても、一瞬を連続ではなく配置として使う。
ロイは音声依存と書かれても、魔法文字ではない生音を使う。
レイナは失敗強制と書かれても、失敗を置く。
リリィは低予測性と書かれても、その低さでグラマを追い詰めない。
ガレスは破壊特化と書かれても、周りを持つ。
ミラは硬直と書かれても、止まる場所を支える。
アルフは一方向と書かれても、その一方向を道の片側に置く。
ジャックは過剰攻撃と書かれても、壊す前で止める。
コレットは敗北未来限定と書かれても、負け方が変わる瞬間を見る。
ノルは睡眠記録と書かれても、今は起きて記録する。
クララは現代式読解不能と書かれても、古代の道を読む。
そして俺は、存在認識欠落と書かれても、戻り言葉でここにいる。
「ルカ」
コレットが呼んだ。
ちょうどいいタイミングだった。
俺は戻る。
「いる」
「外周の逃走線、少し戻る」
「わかった」
グラマの軌道が変わる。
作戦書を食べた道。
失敗を食べた道。
分類を食べた道。
それらが重なって、外周から中央へ戻りかけている。
アストラム側はまだ文字を投げる。
修正。
再誘導。
捕獲阻止。
グラマは食べる。
食べるたびに道が増える。
増えすぎた道が、逆に読みづらくなっている。
クララは青い栞を握る。
「ここからは、現代式では追えません」
「じゃあ?」
俺が聞く。
「古い道を読みます」
クララは一歩前に出た。
グラマの黒い布が、彼女の方へ少し傾く。
まるで、読めるなら読んでみろと言っているように。
クララは栞を胸元に当てる。
「読める範囲だけ」
自分に言う。
俺たちにも言う。
旗にも言う。
そして、グラマが食べた文字の道を読んだ。
「作戦書の初期誘導は、外周へ変換。レイナさんの失敗痕跡で中央へ戻る道が開いた。グレイの低予測性で道が細くなった。ロイさんの生音は食べられていない。次、音で区切れば、グラマは食べた文字の道と食べていない音の間で迷います」
「ロイ」
俺が呼ぶ。
「はい」
「三つ目」
ロイが指を動かす。
とん。
三つ目の音。
グラマが止まる。
いや、止まったように見える。
食べる文字がない。
でも、道はある。
音は食べられない。
しかし、音で第七部が動く。
そこへミラが床を踏んだ。
筋力強化。
浅く。
止まる前提で。
床に重心が生まれる。
足跡。
文字ではない痕跡。
グラマがその重さに反応する。
黒い布が下がる。
アストラム側が慌てて文字を投げる。
筋力強化後硬直。
重心固定。
捕獲危険。
グラマが食べる。
ミラは笑った。
「硬直、来るよ」
彼女の体が止まる。
でも、倒れない。
止まる場所は自分で作った。
その重心に、ガレスが周囲を持つ。
水筒。
椅子ではない。
今回は、床に置いた小さな金属片。
破壊魔法で壊すのではなく、周囲の線を少し緩める。
グラマの通る道が、ミラの重心の周りで曲がった。
「ガレス」
俺が言う。
「壊してない」
ガレスは短く答えた。
「周りを持った」
「助かる」
アストラム側の文字が乱れる。
グラマは食べる。
食べる。
食べる。
しかし、食べる文字が多すぎる。
その中に、第七部の文字ではない痕跡が混じる。
音。
足跡。
失敗。
迷い。
重さ。
グラマは、どちらを道にするか迷っている。
「今、捕まえられる?」
ネルが聞く。
クララは即答しない。
グラマを見る。
栞を見る。
道を見る。
「まだ」
「まだ?」
「捕まえると、文字の道だけで終わります。古い道がまだ開いていない」
「難しいわね」
「難しいです」
その時、アストラム側の主将が大きな文字列を投げた。
第七部即興戦術、崩壊予測。
ロイ、音声合図依存。
クララ、現代式読解不能。
ルカ、存在認識欠落。
まとめて食べさせる気だ。
分類を束にして、グラマへ投げる。
それを食べれば、グラマは俺たちの弱点をまとめた道へ逃げる。
嫌な手だ。
でも、研究校らしい。
分類して、束ねて、処理する。
俺は走り出しかけた。
その前に、クララが白紙を投げた。
三枚目。
何も書いていない作戦書。
白紙が、分類の文字列とグラマの間に滑り込む。
グラマが反応した。
文字列を食べる前に、白紙へ触れる。
未記入。
抜去ではない。
伏せ字でもない。
まだ何も書かれていない場所。
グラマの黒い布が、一瞬だけ広がる。
白紙は食べられなかった。
でも、分類の文字列が白紙にぶつかり、少し散った。
ルカ、存在認識欠落。
その文字だけが、白紙の上で薄くなる。
クララが叫ぶ。
「ルカさん、今です。文字になる前に」
文字になる前に。
分類される前に。
俺は風を使わない。
足で行く。
ロイが四つ目の音を鳴らす。
とん。
コレットが呼ぶ。
「ルカ」
戻り言葉。
俺はここにいる。
白紙の横を抜ける。
グラマは俺を見ているのか、文字を見ているのか、わからない。
黒い布が揺れる。
作戦書を食べた道。
分類を食べた道。
白紙で止まった道。
その隙間。
俺は手を伸ばす。
届く。
しかし、グラマはすっと上へ逃げた。
触れなかった。
観客席がどよめく。
俺は空振りし、床に手をつく。
捕まえられなかった。
でも、グラマは完全には逃げていない。
黒い布の端から、白い欠片が落ちる。
クララがそれを読む。
「文字になる前のもの、近い」
彼女は言った。
「でも、まだ道が足りない」
審判が時間を告げる。
試合は続く。
作戦書は食べられた。
初期作戦は消えた。
分類は餌にされた。
白紙で一度、グラマを止めた。
でも、まだ捕獲には届かない。
「次で決める?」
ジャックが聞いた。
俺は首を横に振る。
「次で、道を作る」
捕まえるのは、その後だ。
クララが頷く。
「読める古代魔法で、勝ち筋を作ります」
彼女の声は震えていなかった。
作戦書が食べられて、即興戦になった。
でも、第七部は崩れていない。
文字がなくなって、ようやく見えるものがある。
グラマが上空で旋回する。
黒い旗が、食べた文字の痕跡をまとっている。
試合はまだ終わらない。
むしろ、ここからがクララの本当の読解だった。




