第117話 字喰旗グラマ
アストラムの競技場は、紙がなかった。
リブランの競技場には、本があった。
書架があり、栞があり、紙の匂いがあった。
記録の街らしく、すべてが残ることを前提にしていた。
アストラムの競技場には、それがない。
白い床。
銀色の線。
透明な観測塔。
空中に浮かぶ魔法板。
文字はある。
ただし、紙には書かれていない。
光として浮かび、線として流れ、式として組み替わり、必要がなくなれば消える。
残すための文字ではなく、処理するための文字。
そういう場所だった。
その中央上空に、黒い旗が飛んでいる。
字喰旗グラマ。
研究校の競技旗。
見た目は、旗というより黒い鳥に近い。
細長い布が、翼のように左右へ裂けている。
端には白い文字の欠片がちらついている。
けれど、その文字はすぐに黒へ沈む。
グラマの周囲には、研究校側が投射した光の文字が流れていた。
基礎式。
追跡式。
捕獲予測式。
座標。
速度。
反応角度。
それらがグラマへ近づく。
そして、触れた瞬間に消える。
食べられる。
そうとしか見えなかった。
「嫌な旗ですね」
リリィが素直に言った。
最近、リリィの最初の感想はだいたい正しい。
「言い方」
レイナが注意する。
「では、非常に不穏な旗です」
「丁寧になっただけね」
ネルが腕を組む。
視線はグラマから外さない。
「あれ、瞬間移動の予測式も食べるのかしら」
「条件が合えば」
案内役のディオン・アルグレイ主任が答えた。
今日は研究服ではなく、競技場用の白い外套を着ている。
それでも手元の魔法板は離さない。
「字喰旗グラマは、競技中に発生した魔法文字、作戦記述、投射式、予測式を摂取します。摂取した文字量に応じて逃走経路を変化させます」
「つまり、作戦を立てるほど逃げる?」
俺が聞くと、主任は頷いた。
「大雑把に言えば」
「最悪ですね」
リリィが二回目の感想を言った。
やっぱり正しい。
ロイが目を輝かせている。
「文字を食べるって、音はどうなんですか」
「音声指示は直接摂取しません。ただし、音声が魔法式へ変換された場合は食べます」
「じゃあ、僕の音は?」
「魔法文字化しなければ、食べられない可能性があります」
「可能性」
ノルが部誌に書く。
眠そうだが、今日は目を開けている。
グラマが文字を食べるたび、ノルの目が少し動く。
文字が消えるのが気になるのだろう。
記録係にとって、文字を食べる旗は天敵に近い。
「ノル、大丈夫か」
俺が聞くと、ノルは頷いた。
「嫌」
「大丈夫かって聞いたんだけど」
「嫌は大丈夫の前」
「そうか」
よくわからないが、ノルなりの状態確認らしい。
ガレスが水を渡す。
「水だ」
「ありがとう」
ノルは受け取り、飲まずに横に置く。
水があるだけでいい時もある。
クララは競技場の縁に立ち、グラマを見上げていた。
青い栞を手に持っている。
読む前手順。
今日は、旗そのものを読むかもしれない。
「クララ」
俺が声をかける。
「今、読んでるか?」
「いいえ」
クララはすぐ答えた。
「まだ見ています」
「読めそう?」
「読めそうです」
「読みたい?」
少し意地悪な質問だったかもしれない。
でも、クララは正直に頷いた。
「読みたいです」
「じゃあ、手順だな」
「はい」
クララは青い栞を胸の前に持つ。
ノルが部誌を開く。
ディオン主任も板を構えた。
クララは息を整える。
「読みます」
競技場の光が、少しだけ揺れた。
グラマが反応したように見える。
「対象は、字喰旗グラマの公開観察範囲内の旗術式。許可者は、アストラム高等魔法理論学院、ディオン・アルグレイ主任。ただし、旗本人の反応も確認します」
主任はもう「旗本人」という言い方に驚かなかった。
少し慣れてしまっている。
「読解範囲は、外層術式のみ。個人記録、カルミア空白、旧代表候補選抜戦、ルカさんまたはエレナさんの契約痕跡に関わる可能性を感じた場合、停止します。読解結果は仮説として扱います」
「承認します」
ディオン主任が言う。
クララはグラマへ向けて、青い栞を少し掲げた。
「グラマ。外側だけ、読んでもいいですか」
研究校側の選手たちが、少しざわついた。
旗に許可を取る。
まだ彼らには慣れない光景なのだろう。
グラマは空中で一度だけ旋回した。
周囲に流れていた光の文字を、ぱくりと食べる。
そして、黒い布の端から白い欠片を一つ落とした。
欠片は床に触れる前に、短い文字になった。
読めない。
でも、クララには読めたらしい。
「一口だけ、という意味に見えます」
「一口」
リリィが呟く。
「旗の返事としては、かわいいんだか怖いんだか」
「一口だけ読む」
ノルが書く。
クララは頷き、グラマを見る。
彼女の目が変わる。
現代魔法式ではなく、古い線を追う目。
「外層は、摂取構文です」
クララが言った。
「文字を食べるための?」
ロイが聞く。
「はい。ただし、食べるという表現は半分だけ正しいです。正確には、文字に込められた確定を解体しています」
「確定を解体」
ディオン主任がすぐ記録する。
研究者の目だ。
でも、今はちゃんと許可の範囲にいる。
「作戦書に書かれた『右へ動く』『捕獲する』『速度を落とす』といった確定文を取り込み、分解し、逃走経路へ変換する。だから、文字が多いほど逃げ道が増えます」
「じゃあ、曖昧に書けばいいの?」
ネルが聞いた。
クララは少し考える。
「曖昧な文字も食べます。ただ、食べた後の動きが不安定になると思います」
「それはそれで厄介」
「はい」
グラマがまた光の文字を食べた。
今度は、観測塔が投射した追跡式。
食べた瞬間、グラマの軌道が三つに分かれたように見えた。
本体は一つ。
でも、予測線が三つ。
研究校の選手がすぐに記録する。
慣れている。
彼らは、食べさせることで逃走経路を操作しているのかもしれない。
「文字を食べるのに、文字を投げるんですね」
レイナが言う。
ディオン主任が頷く。
「グラマは文字を食べますが、食べた文字の種類で行動が変化します。研究校側は、それを利用して旗の逃走経路を誘導します」
「餌付け」
ノルが呟いた。
「競技的には、誘導です」
主任が言う。
「餌付け」
ノルは譲らない。
主任は少し考え、板に「文字誘導」と書いた。
ノルは部誌に「餌付け」と書いた。
どちらも記録される。
「クララ、空白は?」
俺は聞いた。
昨日のカルミア資料。
白い空白。
黒い伏せ字。
クララは、グラマが空白にも反応するかもしれないと言っていた。
ディオン主任も、その点を確認するために今日の事前観察を組んだ。
「試します」
主任が合図する。
競技場の中央に、三枚の光板が浮かんだ。
一枚目には文字が書かれている。
右へ逃走。
二枚目には黒い伏せ字がある。
■■■■へ逃走。
三枚目には白い空白。
__へ逃走。
嫌な実験だ。
でも、必要でもある。
グラマが一枚目へ向かう。
右へ逃走。
黒い布が光板に触れる。
文字が消える。
グラマは右へ動いた。
わかりやすい。
「確定文の摂取。右方向へ変換」
研究員が読み上げる。
次に、二枚目。
黒い伏せ字。
■■■■へ逃走。
グラマは少し速度を落とした。
黒い伏せ字の周りを一周する。
食べる。
文字ではなく、黒い帯を噛むように。
光板の黒い部分が欠けた。
グラマの軌道が、急に沈む。
右でも左でもない。
下へ。
観測塔の影へ。
「伏せ字を食べた」
ロイが言う。
「隠された確定として扱ったのか」
アルフが呟く。
クララは頷く。
「黒い伏せ字は、隠した文字です。グラマは、隠された確定も食べる」
ノルが部誌に書く。
黒は隠した跡。
グラマ、食べる。
そして三枚目。
白い空白。
__へ逃走。
競技場の空気が少し変わった。
グラマが近づかない。
遠巻きに飛ぶ。
黒い布の端に、白い文字の欠片がざわざわと浮かぶ。
食べたいのか。
食べたくないのか。
わからない。
ただ、反応はしている。
「空白にも反応しています」
ディオン主任が言った。
声が少し硬い。
「でも、食べない」
ミラが言う。
「近づいて、離れてる」
クララは白い空白を見ている。
青い栞を握る手に力が入る。
「空白は、文字ではありません」
「当然ですね」
リリィが言う。
「でも、グラマにとっては、文字のない場所ではないんです」
クララは続ける。
「文字が抜かれた場所。まだ確定していない場所。食べると、そこに何かがあったことを認めてしまう」
「だから迷ってる?」
俺が聞く。
「たぶん」
グラマが白い空白へ近づく。
黒い布の端が、光板に触れそうになる。
その瞬間、白い空白の周りに薄い線が浮かんだ。
カルミア資料で見た白い空白を思い出す。
抜かれた跡。
最初からなかったのではない。
あったものが、抜かれた跡。
グラマは、そこへ触れた。
食べた。
いや、食べたというより、空白を口に含んで吐き出した。
光板の白い空白が、少しだけ形を変える。
__へ逃走。
その下に、一瞬だけ小さな文字が浮かんだ。
未記入ではない。
抜去。
すぐに消えた。
「見たか」
ジャックが低く言う。
「見た」
俺は答える。
未記入ではない。
抜去。
グラマは、空白を食べることで、それが空欄ではなく抜かれた跡だと暴いた。
ノルの目が完全に開いている。
「白は抜いた跡」
彼女が言う。
「グラマも、そう言った」
クララは青い栞を掲げた。
「停止します」
ディオン主任がすぐ合図する。
実験光板が消える。
グラマは中央上空へ戻った。
黒い旗がゆっくり旋回する。
文字を食べる旗。
伏せ字を食べる旗。
空白を口に含み、それが抜かれた跡だと暴く旗。
これは、ただ作戦書を消すだけの旗ではない。
カルミアの空白にも、反応する可能性がある。
公式戦で、何が起きるかわからない。
「今の結果」
ディオン主任が慎重に言った。
「非常に重要です」
リリィが睨む。
「表現」
「すみません。第七部側にとって、重い結果です」
「まあ、それなら」
主任は学んでいる。
少しずつ。
「グラマは、文字だけでなく伏せ字や抜去空白にも反応します。作戦書が食べられることは想定内でしたが、空白の種類を露出する反応は、当校でも記録が少ない」
「記録が少ない?」
クララが聞く。
「はい。通常、競技場で抜去空白を扱うことはありません。今回、カルミア資料の空白を見た後なので、検証しました」
「検証してよかった」
ロイが言った。
「怖かったですけど」
「怖かった」
ノルが珍しく同意した。
それだけで、どれほど嫌だったかがわかる。
「公式戦では」
アルフが競技場を見る。
「こちらの作戦書は食べられる前提で考えるべきですね」
「はい」
クララが頷く。
「しかも、空白を作戦に入れると、グラマが反応します」
「作戦書に空欄を作るのは危ない?」
レイナが聞く。
「危ないです。ただし、使い方によっては、グラマの反応を読めるかもしれません」
クララの目が、少しだけ鋭くなる。
読めない現代魔法ではなく。
読める古代魔法で。
彼女が勝ち筋を探し始めている。
「作戦書は食べられる」
俺は言った。
「じゃあ、作戦書がなくなっても残るものを使う」
「声、足跡、失敗、迷い、重さ」
クララが続ける。
昨日読んだ古代旗術式の要素。
「それから、空白の見分け方」
ノルが言う。
「黒は隠した跡。白は抜いた跡。未記入は、まだ書いてない場所」
「グラマは、それを食べ分ける可能性がある」
アルフがまとめる。
「なら、試合中にグラマが何を食べるかで、相手の誘導や資料の空白の種類を読めるかもしれない」
「研究校相手に、旗で研究するってことですか」
リリィが言う。
「仕返しみたいで少し良いですね」
「仕返しではありません」
レイナが言う。
「でも、少しだけ気持ちはわかります」
グラマが上空で旋回する。
その黒い布から、白い文字の欠片が落ちた。
今度は床に触れる前に消えなかった。
クララが読もうとして、止まる。
青い栞を少し上げる。
「今のは、読んでいいですか」
ディオン主任がグラマを見る。
「外層反応です。許可範囲内だと思います」
「グラマ」
クララは旗へ声をかけた。
「読んでもいいですか」
グラマは、黒い布を一度だけ折りたたむように揺らした。
白い欠片が、少しだけ光る。
クララは目を細めた。
「食べた文字は、消えない」
彼女は読んだ。
「形を変えて、道になる」
部屋が静かになる。
食べた文字は、消えない。
形を変えて、道になる。
リブランの記録と似ている。
消えたように見えるもの。
欠けた名前。
空白。
食べられた文字。
それらは、なかったことではない。
形を変えて、どこかの道になる。
「良い旗かもしれません」
ロイが言った。
「文字を食べるのに?」
ネルが聞く。
「はい。食べるけど、消してるわけじゃないなら」
ノルが部誌に書く。
グラマ、文字を消さない。
形を変えて、道にする。
「まだ信用しすぎない」
アルフが言った。
「公式戦では、こちらの作戦書を食べる相手です」
「そうですね」
ロイは頷く。
「でも、嫌いではなくなりました」
俺も同じだった。
字喰旗グラマ。
最初は、ただ嫌な旗に見えた。
記録を食べる。
作戦を消す。
空白を暴く。
でも、今は少し違う。
食べた文字は、消えない。
形を変えて、道になる。
それなら、グラマとの試合は、作戦を失う試合ではない。
作戦が別の形になる試合だ。
それを読めるかどうか。
クララの出番だ。
「クララ」
俺は言った。
「明日の公式戦、中心はクララだ」
クララは少し困った顔をする。
「最近、そればかり言われています」
「クララの章だから」
ノルが眠そうに言う。
「章という言い方は、まだ慣れません」
「慣れる」
「慣れるんですか」
クララは青い栞を見る。
それから、グラマを見上げた。
「作戦書が食べられるなら、作戦を文字だけにしない」
彼女は言った。
「読めない現代式ではなく、読める古代式で考えます。旗が何を食べ、何を道にするのか。それを試合中に読みます」
「読みすぎないで」
リリィが言う。
「はい」
クララは頷く。
「栞を持ちます」
事前観察が終わる頃、アストラムの競技場には夕方の光が差していた。
白い床が少し金色になる。
グラマの黒い布は、その中でさらに黒く見えた。
でも、怖いだけの黒ではない。
文字を食べ、伏せ字を噛み、空白を口に含み、道へ変える黒。
公式戦では、俺たちの作戦書も食べられる。
たぶん、最初の方で。
作戦通りにいかなくなる。
でも、それで終わりではない。
作戦書が消えた後に残るもの。
声。
足跡。
失敗。
迷い。
重さ。
戻り言葉。
部誌。
栞。
そういうものを、クララが古い文字の側から読む。
研究校の旗を前に、俺たちは初めて、作戦書を閉じた。
閉じたというより、文字だけに頼るのをやめた。
ノルが部誌に最後の一行を書く。
文字は食べられる。
でも、全部が文字ではない。
クララはそれを見て、静かに頷いた。
「明日は、それで行きます」
字喰旗グラマが、上空で黒い布をひるがえした。
それは挑発のようにも、許可のようにも見えた。
どちらかは、まだ読まない。
明日の試合で、読む。




