第116話 カルミアの空白
カルミア魔法学園は、昔は強かった。
それは、何度も聞いてきた。
古い部室。
埃をかぶった優勝旗。
読めない戦術資料。
誰も使わなくなった練習場。
忘れられかけた第七魔法競技部。
俺たちが最初にいた場所は、そういう過去の残り物でできていた。
でも、残り物があるということは、残った理由がある。
逆に言えば、失われた理由もある。
カルミアは、どうして没落したのか。
俺たちは今まで、その答えを深く掘ってこなかった。
目の前の試合で手いっぱいだった。
欠陥魔法と呼ばれる自分たちの力を扱うだけで、精一杯だった。
でも、アストラムの研究校では、避けていたものが向こうから棚を開けてくる。
第三資料室。
連盟標準資料保管庫。
そこに、カルミアの名前があった。
「本来は閲覧予定にありませんでした」
ディオン・アルグレイ主任が言った。
彼の声は、昨日までより低い。
楽しそうではない。
面白がってもいない。
少し困っている。
それだけで、嫌な予感がした。
「昨日のエレナ・フォルティスさんの公開記録照合後、関連する古代保持系構文を検索しました。その過程で、カルミア魔法学園の旧資料が引っかかりました」
「カルミアの?」
ロイが驚く。
「はい。正確には、カルミア魔法学園競技旗運用改革記録。約二十年前の連盟標準化事業に関する資料です」
二十年前。
俺たちが生まれる前。
カルミアが今のように落ち込む前か、落ち込み始めた頃か。
俺はノルを見る。
ノルはすでに部誌を開いていた。
眠そうだ。
とても眠そうだ。
重い記録の気配がある時の眠さだ。
「読む前手順、使いますか」
クララが聞く。
「使う」
俺はすぐ答えた。
カルミアの資料。
俺個人ではなく、学校全体の話かもしれない。
でも、第七部に関わる可能性が高い。
俺たちの欠陥魔法分類にもつながるかもしれない。
なら、手順が必要だ。
第三資料室は、アストラムらしく整然としていた。
白い棚。
透明な保管箱。
番号順に並ぶ連盟資料。
リブランの書庫が記憶を眠らせる場所なら、ここは資料を凍らせる場所だった。
温度も低い。
音も少ない。
紙ではなく、薄い魔法板に保存された記録が多い。
ディオン主任が一つの保管箱を机に置いた。
箱にはこう書かれている。
連盟標準化事業。
地方校競技旗運用統一計画。
カルミア魔法学園関連。
閲覧制限、部分解除済。
「部分解除済」
アルフが言う。
「はい。全体は連盟上位権限が必要ですが、研究校の教育資料として一部が公開されています」
「一部」
リリィが嫌そうに言う。
「一部って、だいたい都合のいい一部ですよね」
ディオン主任は否定しなかった。
「その可能性はあります」
「否定しないんですね」
「昨日までの流れを考えると、否定しない方が正確です」
主任も少しずつ変わっている。
正確さの方向が、人に近づいている気がする。
クララは青い栞を持つ。
「読みます」
声は静か。
「対象は、連盟標準化事業、地方校競技旗運用統一計画、カルミア魔法学園関連資料。許可者はディオン・アルグレイ主任。読解範囲は、部分解除済の一枚目から三枚目まで。個人記録、旧代表候補選抜戦、ルカさんとエレナさんの直接照合に関わる場合は停止します。カルミア学院全体に関わる重い内容が出た場合、第七部で共有範囲を確認します。読解結果は仮説として扱います」
ディオン主任が頷く。
「承認します」
ノルが部誌に書く。
読む前手順。
カルミア版。
ガレスが机の端に水を置く。
レイナが椅子を一つ余分に引く。
誰かが座れるように。
ミラが入口の近くに立つ。
人が倒れそうになったら支えられる位置。
ジャックは壁際に立つ。
何も壊さない。
ただ、逃げ道を塞がない場所にいる。
コレットは資料ではなく、俺たちを見ている。
負け方を見ているのかもしれない。
ディオン主任が一枚目を表示した。
古い連盟資料。
文字は整っている。
題名。
地方校競技旗運用統一計画、第一次実施案。
内容は、地方ごとに違っていた競技旗運用を、連盟標準規則へ統一する計画だった。
目的。
安全性の向上。
競技公平性の確保。
旗暴走事故の減少。
教育課程の統一。
どれも正しい言葉に見える。
正しい言葉ほど、少し怖い。
「カルミアは、地方校の中でも古代旗術式の残存率が高かったようです」
ディオン主任が説明する。
「当時の連盟は、それを事故要因と見なした」
「事故はあったんですか」
レイナが聞く。
主任は資料を確認する。
「記録上は、あります。ただし詳細は伏せられています」
「伏せられている」
クララが繰り返す。
青い栞へ指が近づく。
「一枚目は、まだ大丈夫です」
彼女は言った。
「現代語の資料です。下に古い線がありますが、薄い」
「薄い線?」
ロイが聞く。
「古代旗術式を標準式へ変換した跡です。旗道を狭くして、魔力署名だけを通すようにした構文に見えます」
旗道を狭くする。
昨日の読解とつながる。
古代旗術式では、声、足跡、失敗、迷い、重さまで旗道に入る。
現代標準式では、それを魔力署名へ狭める。
それが公平性のためだったとしても、何かが削られる。
「カルミアの欠陥魔法が増えた時期は?」
アルフが聞いた。
ディオン主任が別の板を開く。
「標準化事業後、十年以内に、カルミアの競技成績は大きく低下しています。欠陥魔法判定を受ける生徒の比率も上昇」
「標準化で、欠陥扱いが増えた?」
ネルの声が鋭くなる。
「相関はあります。ただし、因果は」
「断定しない」
クララが言う。
「はい。断定しません」
でも、部屋の空気は重くなる。
標準化。
公平性。
安全性。
その結果、カルミアの古い旗道が狭められた。
声や足跡や失敗や迷いを拾う術式が、魔力署名だけを通す形へ変えられた。
その後、カルミアは弱くなった。
欠陥魔法判定が増えた。
因果は断定できない。
でも、関係がないとも言えない。
「二枚目、表示します」
ディオン主任が言った。
二枚目には、カルミア魔法学園の内部報告の抜粋があった。
読める部分は少ない。
多くが黒い帯で伏せられている。
伏せ字。
空白。
リブランで見た欠落名とは違う。
こちらの空白は、誰かが意図的に塗った空白だった。
ノルが眉を寄せる。
「黒い」
「閲覧制限です」
ディオン主任が言う。
「知ってる。黒い」
ノルは譲らない。
リリィが小さく言った。
「ノルさんが不機嫌です」
確かに、目を閉じる手前の圧がある。
黒い帯の間に、読める文章がいくつかあった。
カルミア旧競技旗群、標準化への抵抗反応。
第七運用班、旧旗との接触継続を主張。
地方術式保持派と連盟標準化派の対立。
生徒への影響は限定的と判断。
俺はそこで止まった。
第七運用班。
第七。
第七魔法競技部と関係があるのか。
「第七運用班って何ですか」
俺が聞く。
ディオン主任は資料を検索する。
「カルミア内の旧競技旗管理部門のようです。現在の第七魔法競技部の前身か、関連組織の可能性があります」
「可能性」
ノルが書く。
「第七運用班。第七部の前身かもしれない」
クララは黒い帯の下を見る。
現代語の伏せ字ではなく、その下に残る古代術式の跡。
「第七運用班の行、下に古い構文があります」
「読めますか」
ディオン主任が聞く。
クララは青い栞へ触れる。
「範囲内です。読みます」
彼女は少し目を細めた。
「旗道を閉じるな」
部屋が静かになる。
「それが、書いてあるのか」
ジャックが聞く。
「文字としては残っていません。下の構文です。第七運用班が残した主張か、旗側の反応かは未確定です」
旗道を閉じるな。
それは、リブランのセリオが言った「名を閉じるな」に似ている。
クララが読んだ古代術式ともつながる。
旗は捕獲対象ではなく、通行権の媒体。
その道を、連盟標準化が狭めた。
第七運用班は、閉じるなと主張した。
あるいは、旗がそう反応した。
「三枚目」
ディオン主任の声が慎重になる。
「ここから、欠落が多いです」
三枚目が表示された。
ほとんど黒い。
文章の形はある。
でも、読めない。
ところどころに単語だけが残っている。
カルミア。
第七。
旗道閉鎖。
欠陥判定基準。
生徒保護。
事故防止。
連盟承認。
そして、一箇所だけ、黒い帯ではなく白い空白があった。
塗りつぶされたのではない。
最初からそこだけ抜けているような白い空白。
ノルが身を乗り出す。
「白い」
「伏せ字では?」
ロイが聞く。
「違う」
ノルの声が低い。
「黒は隠した跡。白は、抜いた跡」
リブランの記録係の感覚。
空白の違い。
欠けた名前を見てきたノルが言うと、重い。
クララも白い空白を見る。
「ここ、古代構文が途切れています」
「何があった」
俺は聞いた。
クララはすぐ答えない。
青い栞を上げかける。
でも、まだ止まらない。
「読めるのは周辺だけです。中心はありません」
「周辺でいい」
俺が言うと、クララは俺を見る。
「重いかもしれません」
「水はある」
ガレスが言う。
「椅子も」
レイナが言う。
「止める合図も」
ノルが部誌を少し持ち上げる。
クララは頷いた。
「読みます。周辺だけ」
彼女は白い空白の周りを見る。
「旗道閉鎖に反対した記録があります。第七運用班は、欠陥判定を受ける生徒たちが、古代旗道では正常に機能する可能性を主張しています」
欠陥判定を受ける生徒たち。
俺たちのような。
いや、昔の第七部のような。
「連盟標準化派は、それを例外として扱った」
クララの声が少し震える。
「例外」
レイナが呟く。
研究校でも、何度も聞いた言葉。
特殊環境下の例外。
非標準。
欠陥。
例外として扱われると、分類の中心は変わらない。
その人たちの方が、外に置かれる。
「白い空白の前に、こうあります」
クララが続ける。
「第七運用班、旧旗群との共同試験を申請。参加予定生徒、複数名。欠陥判定保留を要請」
「保留」
俺たちは同時に反応した。
リブランで覚えた言葉。
保留。
すぐに欠陥と決めない。
閉じない。
昔のカルミアにも、それを求めた人たちがいた。
「その後は?」
アルフが聞く。
クララは白い空白を見る。
「抜けています」
「結果がない?」
「はい。共同試験の結果、参加生徒の名前、旗反応、連盟判断。その中心が抜かれています」
ノルが部誌を閉じた。
ぱたん。
停止の合図。
クララも青い栞を上げる。
「停止します」
誰も反対しない。
ディオン主任も、すぐ資料表示を薄くした。
白い空白が消える。
でも、消えた後も目に残る。
カルミアの空白。
第七運用班。
旧旗群との共同試験。
欠陥判定保留。
その結果が抜けている。
「これは」
ディオン主任が低く言った。
「研究校の教育資料としては、不自然です」
「どういう意味ですか」
ロイが聞く。
「標準化事業の正当性を示す資料なら、反対派の主張を載せることはあります。反論付きで。しかし、共同試験の結果だけを完全に抜くのは、資料として不自然です」
「結果が都合悪かった可能性」
リリィが言う。
ディオン主任はすぐには答えない。
でも、否定もしない。
「可能性はあります」
主任は言った。
「第七運用班の主張が、何らかの形で正しかった。欠陥判定を保留すべき結果が出た。しかし、連盟標準化の流れでは採用されなかった」
「だから抜いた?」
ネルの声が冷たい。
「断定はできません」
主任は言う。
「ただ、調査すべき欠落です」
調査すべき欠落。
カルミアの没落に関する空白。
俺たちは、ようやくその輪郭に触れた。
カルミアが弱くなったのは、ただ生徒が弱かったからではないかもしれない。
第七部が忘れられたのは、ただ人気がなくなったからではないかもしれない。
欠陥魔法が欠陥と呼ばれたのは、ただ使いにくかったからではないかもしれない。
古い旗道を閉じたから。
その道でなら機能したはずの力を、標準式で測ったから。
そして、その反証になるかもしれない記録が抜かれたから。
まだ可能性だ。
でも、可能性だけで十分に重い。
「ノル」
俺は声をかけた。
ノルは部誌を閉じたまま、目を細めている。
「書けるか?」
「書く」
ノルは部誌を開いた。
眠そうな手で、でも丁寧に書く。
カルミアの空白。
第七運用班。
旗道を閉じるな。
欠陥判定保留。
共同試験結果、抜けている。
調査すべき欠落。
書き終えた後、ノルは一行を足した。
欠けた記録は、なかったことの証拠ではない。
リブランの言葉が、ここにも来る。
俺はその行を見て、胸の奥が少し熱くなった。
「これ、学院に戻ったら先生に見せるべきですね」
レイナが言った。
「誰に?」
リリィが聞く。
「校長先生か、競技部顧問か、古い資料を扱える人」
「カルミアに扱える人、いますかね」
「探します」
レイナの声は強かった。
カルミアは没落した。
でも、全部なくなったわけではない。
古い部室が残っていた。
練習旗が残っていた。
第七部が残っていた。
なら、誰かの記録もどこかに残っているかもしれない。
「ディオン主任」
アルフが言う。
「この資料の上位閲覧権限を申請できますか」
「できます。ただし、連盟承認が必要です」
「通る可能性は?」
主任は少し渋い顔をした。
「低いでしょう。特に、カルミア側からでは」
「研究校からなら?」
「少し上がります」
「申請してください」
アルフの声は静かだが、強い。
ディオン主任は彼を見た。
「当校が関わる理由が必要です」
「欠陥魔法分類の見直し」
クララが言った。
「古代旗術式上の機能評価が必要です。カルミアの標準化事業資料は、その根拠になります」
ディオン主任は少し笑った。
今度の笑いは、研究者の興奮だけではなかった。
「良い理由です」
「研究校っぽいですね」
リリィが言う。
「研究校なので」
主任は板を操作する。
「上位閲覧申請を準備します。ただし、結果はすぐには出ません」
「それでいい」
俺は言った。
「閉じないことが大事だから」
主任は頷く。
「閉じない。リブラン的な言い方ですね」
「第七部的でもあります」
クララが言った。
その言葉に、俺たちは少しだけ笑った。
第三資料室を出る頃、外は夕方だった。
アストラムの白い塔が、夕陽で薄い金色に染まっている。
白一色だと思っていた街にも、色はあった。
光の角度が変われば、見えるものも変わる。
カルミアも、そうかもしれない。
没落した学校。
古いだけの部室。
欠陥の受け皿。
そう見えていたものの下に、別の線がある。
旗道を閉じるな。
欠陥判定保留。
第七運用班。
白い空白。
俺たちは、それを見つけた。
まだ読めない。
まだ証明できない。
でも、なかったことにはしない。
「ルカ」
コレットが呼んだ。
「何だ?」
「未来が少し、戻った」
「戻った?」
「うん。勝ち方じゃなくて、帰る場所の形」
わかるような、わからないような言葉だった。
でも、カルミアに戻る理由が一つ増えたのは確かだ。
俺たちは外へ出る。
遠くで、字喰旗グラマが黒い影として飛んでいる。
光の文字を食べている。
文字は消える。
でも、食べられた後に、短い痕跡が残る。
「あの旗との試合」
クララが言った。
「作戦書を食べられるだけでは済まないかもしれません」
「どういうこと?」
ネルが聞く。
「文字を食べるなら、空白にも反応すると思います」
クララは第三資料室の方を振り返った。
「カルミアの空白を見た後だと、そう思います」
字喰旗グラマ。
文字を食べる旗。
そして、空白に反応するかもしれない旗。
公式戦はまだ先だ。
でも、もう始まっている気がした。
ノルが部誌を閉じる。
ぱたん。
「カルミアの空白、持ち帰る」
眠そうな声。
でも、強い記録。
俺は頷いた。
「持ち帰ろう」
カルミアの没落は、まだ解けない。
でも、初めて空白の形が見えた。
俺たちはそれを、欠けたまま、閉じないまま、第七部の記録に挟んだ。




