第115話 白銀の星を閉じない
エレナ・フォルティスの名前は、アストラムにもあった。
それは当然かもしれない。
王立レガリア魔法学院の代表候補。
無敗記録。
完璧な旗守備。
白銀の星。
新聞だけではなく、研究校の掲示板にも、彼女の名前は大きく表示されていた。
アストラム中央棟の一階。
研究発表用の広いホール。
壁一面の魔法板に、最新の競技解析資料が並んでいる。
その中に、エレナの試合解析があった。
王立代表候補リーグ、防衛成功率最高値更新。
旗守備における虚偽情報攪乱耐性。
嘘性魔法反応と観客認識保持の相関。
見出しだけで、少し息が詰まる。
エレナの写真もある。
まっすぐな姿勢。
銀の髪。
揺れない目。
周囲の文字が、彼女を強く照らしている。
リブランの新聞より、さらに研究的だった。
褒め言葉というより、解析対象。
でも、それでも彼女の名前は濃い。
エレナ・フォルティス。
白銀の星。
無敗。
完璧。
どの言葉も、彼女を人から遠ざけるほど強い。
「濃い」
ノルが隣で呟いた。
リブランでも同じことを言っていた。
濃すぎる名前。
本人の居場所が薄くなるほどの名前。
「これ、公開掲示なんですね」
レイナが言う。
「はい」
案内役のディオン・アルグレイ主任が答えた。
「代表候補リーグの公開解析です。個人情報ではなく、公式競技記録に基づくものです」
「公式なら全部出していい、というわけではないと思います」
レイナの声は柔らかい。
でも、芯がある。
主任は魔法板を見る。
「この資料は、連盟公開基準を満たしています」
「基準の話ではなく、見え方の話です」
リリィが言った。
「白銀の星、無敗、完璧。人間じゃなくて飾りみたいです」
「称号表現です」
「称号は便利ですね。本人の苦情が見えなくなる」
ディオン主任は黙った。
リリィの言い方は鋭い。
でも、外れてはいない。
エレナは誰からも忘れられない。
でも、本当の自分を誰にも認識されない。
その欠陥を知っていると、この掲示は少し怖い。
彼女を忘れないように見せながら、彼女本人をさらに隠しているかもしれない。
「ルカさん」
クララが小さく声をかけた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫、とは言い切れない」
俺は答えた。
最近、この言い方が増えた気がする。
でも、無理に大丈夫と言うよりはいい。
俺は水筒に触れる。
飲む。
エレナの写真を見る。
記憶は戻らない。
胸の奥がざわつくだけだ。
彼女を忘れないと言ったらしい俺。
今の俺は、彼女を覚えていない。
それでも、彼女の名前が濃く印刷されるたびに、俺の欠けた部分が少し痛む。
「本日の確認は、ここからです」
ディオン主任が言った。
俺たちはホール奥の小さな解析室へ案内された。
そこには、エレナの公開試合記録がいくつか並んでいた。
本人不在。
個別同意なし。
だから扱えるのは公開範囲だけ。
その条件は、入る前にクララが何度も確認した。
ディオン主任も、もう慣れたように条件を復唱した。
「対象は、連盟公開済みの代表候補リーグ試合記録。エレナ・フォルティスさん本人の非公開個人記録には踏み込まない。ルカ・ヴァレンさんおよび旧代表候補選抜戦との個別照合は行わない。クララさんが停止を宣言した場合、即時停止」
「加えて」
クララが言う。
「エレナさん本人の内面を断定しません」
ディオン主任が板へ入力する。
「本人の内面を断定しない」
「はい」
「研究記録としては珍しい条件です」
「必要です」
クララの声は、はっきりしていた。
昨日までなら、研究校の珍しいという言葉に少し揺れたかもしれない。
でも、今は違う。
読めることと、読んでいいことは別。
その手順が、彼女の足元になっている。
ノルが部誌を開く。
「エレナの中身、勝手に書かない」
「言い方」
ネルが苦笑する。
「でも合ってる」
俺は頷いた。
エレナ本人はいない。
本人がいない場所で、彼女の本当を決めるのは違う。
俺は彼女を覚えていない。
だからこそ、彼女のことを勝手に決めてはいけない。
「始めます」
クララが青い栞を持った。
「読みます」
解析室の壁に、エレナの公開試合記録が映し出される。
動画ではない。
魔力反応の図。
観客認識の変化。
旗守備時の嘘性魔法波形。
俺にはほとんど読めない。
ただ、白銀色の線がとても強く見えた。
まるで、周囲の視線を全部吸い上げて、彼女の名前へ固定しているような線。
ディオン主任が説明する。
「エレナ・フォルティスさんの魔法は、虚偽発話や誤認誘導に対して強い反応を示します。通称として嘘魔法と呼ばれていますが、正確には嘘により周囲認識を安定させる魔法です」
「嘘で安定させる」
ロイが少し困った顔をする。
「難しいですね」
「非常に高度です。通常、嘘は認識を乱します。しかし彼女の場合、嘘を含む状況ほど、周囲の認識が彼女へ集約される」
「つまり、嘘をつくほど忘れられなくなる?」
リリィが聞く。
「大雑把に言えば」
主任は頷く。
俺の胸の奥が少し冷える。
嘘をつくほど忘れられなくなる。
エレナの欠陥。
誰からも忘れられない。
でも、本当の自分を誰にも認識されない。
その仕組みに近い。
「クララ」
俺は声をかけた。
「無理はしなくていい」
「はい」
クララは壁の図を見つめたまま返事をした。
「今のところ、公開範囲内です」
彼女の視線が、現代式の下へ沈む。
古い線を見る目。
研究校の人たちが雑音として扱ってきた残響。
クララにだけ読める可能性があるもの。
「白銀の線の下に、古代構文があります」
クララが言った。
ディオン主任がすぐ記録する。
「種類は?」
「保持系です」
「記憶保持?」
「似ています。でも、人の記憶を守るというより、周囲の認識を一点へ留める構文です」
周囲の認識を一点へ留める。
エレナへ。
白銀の星へ。
完璧な代表候補へ。
「保持線が強すぎます」
クララの声が少し重くなる。
「強すぎると、どうなる」
アルフが聞いた。
「認識が一点に固定されます。周囲は、その人を忘れません。でも、固定された像以外を見にくくなる」
固定された像。
白銀の星。
無敗。
完璧。
それ以外のエレナが見えなくなる。
それは、彼女の欠陥そのものに近い。
でも、近いだけだ。
断定してはいけない。
「エレナさんの欠陥に関わる可能性があります」
クララは言った。
「ただし、本人不在のため、ここから先は断定できません」
ディオン主任が頷く。
「公開試合記録上の傾向として記録します」
「お願いします」
クララは続ける。
「嘘魔法は、単に嘘を強くする魔法ではないと思います。嘘を中心に周囲の認識を固定する。嘘が強いほど、固定像が濃くなる」
「白銀の星という称号も、固定像を補強している可能性がありますね」
ディオン主任が言った。
クララはすぐに青い栞を少し上げる。
「可能性です」
「はい。可能性です」
主任もすぐ言い直す。
リリィが小さく呟いた。
「主任、だんだん調教されてますね」
「リリィ」
レイナがたしなめる。
「教育と言い換えます」
「それもどうでしょう」
少しだけ空気が緩む。
でも、壁の白銀色の線は強いままだ。
エレナの周囲に集まる認識。
その線を見るだけで、胸が圧迫される。
彼女は、これをずっと浴びているのか。
期待。
称号。
嘘。
忘れられない像。
その中央で、本当の自分を見てもらえない。
俺は彼女のことを知らない。
覚えていない。
でも、今の線は苦しそうに見えた。
「苦しそう、って言っていいのか」
思わず呟いた。
クララが俺を見る。
ノルも顔を上げる。
ディオン主任は板へ書きかけて、止まった。
「本人の内面は断定しない」
ノルが言う。
「そうだな」
俺は息を吐いた。
「じゃあ、俺の感想として。俺には苦しそうに見える」
ノルが部誌に書く。
ルカの感想。
苦しそうに見える。
エレナ本人の内面とは断定しない。
そこまで書く。
面倒だ。
でも、この面倒さが必要だ。
エレナを守るためにも。
俺が勝手に彼女を閉じないためにも。
「クララ、続けられるか」
「はい。ただし、次の線で止まるかもしれません」
「わかった」
クララは白銀の線の下を読む。
ゆっくり。
青い栞をいつでも上げられる位置で。
「保持系の下に、反転構文があります」
「反転」
ディオン主任が繰り返す。
「はい。認識を固定する一方で、固定像に合わないものを外へ逃がす構文です」
「外へ逃がす?」
「見えなくする、ではありません。見えても、本人とは結びつかないようにする」
部屋が静かになった。
本当の自分を誰にも認識されない。
その欠陥に、あまりにも近い。
エレナは見えている。
誰からも見られている。
でも、固定像に合わない本当の部分は、彼女本人と結びつかない。
白銀の星から外れた言葉。
弱さ。
本音。
迷い。
そういうものが、本人として認識されない。
クララの手が震えた。
青い栞が上がる。
「停止します」
誰も反対しなかった。
ディオン主任も、すぐに壁の表示を薄くした。
白銀色の線が消える。
部屋の圧が少し軽くなる。
俺は、知らないうちに息を止めていた。
水を飲む。
飲んでも、まだ喉が少し乾いている。
「読解結果」
クララは座らず、立ったまま言った。
「エレナ・フォルティスさんの公開試合記録には、古代保持系構文に類似する反応が見られます。嘘魔法は、嘘を中心に周囲認識を固定する可能性があります。固定像に合わない認識を本人から外す反転構文の可能性もあります。ただし、本人不在のため、欠陥の原因や内面状態は断定しません」
ディオン主任が記録する。
「見出しは?」
ノルが部誌を見て、少し考える。
「白銀の星を閉じない」
俺はその言葉を見る。
白銀の星。
エレナを飾る称号。
でも、閉じない。
その称号で彼女を終わらせない。
「いいと思う」
俺は言った。
クララも頷く。
「はい。称号を否定するのではなく、称号だけで閉じない」
ディオン主任が見出しを書き込む。
白銀の星を閉じない。
アストラムの研究記録に、少し変な見出しが入った。
研究校らしくない。
でも、第七部らしい。
「この記録は、エレナ本人に伝えるべきですか」
ロイが小さく聞いた。
誰もすぐには答えなかった。
伝えたい。
伝えた方がいい気がする。
でも、本人不在で読んだものだ。
それを突然渡せば、重くなる。
ノルが部誌を閉じかける。
迷っている。
「今は伝えない」
俺は言った。
自分で言って、少し胸が痛む。
「伝えないんですか」
ロイが聞く。
「今は」
俺は言い直す。
「本人に会って、必要になった時に、本人の同意を取ってからだ」
クララが頷く。
「私も同じ意見です」
ノルが部誌を開き直す。
「今は伝えない。閉じないため」
それは少し矛盾して聞こえる。
でも、リブランを経た俺たちにはわかる。
何でもすぐに渡すことが、開くことではない。
相手が持てる形にするまで、待つこともある。
旗は人の重さを測らない。
記録係が測る。
そして、今は第七部全員で測る。
「研究校側の記録公開範囲は?」
アルフが聞いた。
ディオン主任は板を確認する。
「この読解結果は、本人不在のため非公開扱いにします。公開試合記録から得た傾向ではありますが、個人欠陥に関わる可能性が高い」
「それでお願いします」
俺は言った。
主任は頷く。
「ただし、連盟内部研究資料として提出する場合は、匿名化した構文分析として」
「匿名化しても推定できる場合があります」
クララがすぐ言う。
主任は苦笑した。
「昨日指摘された点ですね。では、構文分析のみ、個人事例との接続なしで扱います」
「記録してください」
「記録します」
少しずつ、手順ができている。
研究校の中で、第七部の手順が通る。
それは小さくない。
解析室を出た後、俺たちはホールの掲示板の前でもう一度立ち止まった。
エレナの写真。
白銀の星。
完璧な旗守備。
無敗記録。
その文字は、さっきと同じように強い。
でも、俺の見方は少し変わっていた。
これは称号だ。
記録だ。
評価だ。
そして、固定像かもしれない。
エレナ本人ではない。
「エレナ・フォルティス」
俺は小さく名前を言った。
記憶は戻らない。
でも、名前を読む。
白銀の星ではなく、名前として。
「俺は、まだあなたを知らない」
口に出すつもりはなかった。
でも、出た。
みんなが黙っている。
「だから、白銀の星だけで終わらせない」
ノルが部誌に書く音がした。
止めない。
今のは、書いていい。
俺の言葉だから。
エレナの内面を決める言葉ではないから。
クララが隣に立つ。
「ルカさん」
「何だ?」
「今日、私は読まない部分を増やしました」
「うん」
「でも、それは知らないふりではありません」
「わかってる」
「よかった」
クララは少しだけ安心したように息を吐いた。
読めるのに読まない。
伝えられるのに今は伝えない。
それは逃げではない。
閉じないための保留だ。
エレナの写真の周りで、白銀色の文字が静かに流れている。
嘘魔法。
保持系構文。
反転構文。
白銀の星。
それらは全部、彼女の周囲にある。
でも、彼女そのものではない。
俺はそれを、今日の記録として持つ。
勝手に救うためではなく。
勝手に理解したふりをするためでもなく。
いつか本人に会った時、白銀の星以外の彼女を見落とさないために。
ホールを出る時、リリィが小声で言った。
「称号って、便利だけど危ないですね」
「そうだな」
俺は答える。
「リリィも称号がほしいですか」
ロイが聞く。
「いりません。どうせ『迷惑召喚の星』とかになります」
「星は嫌なんですか」
「星に謝ってください」
少し笑いが起きる。
重い解析の後で、その笑いはありがたかった。
クララも小さく笑っている。
ノルは眠そうに部誌を閉じた。
「白銀の星を閉じない」
彼女は呟く。
「第七部も、欠陥で閉じない」
その言葉に、みんなが少しだけ黙った。
欠陥で閉じない。
分類で閉じない。
称号で閉じない。
忘却契約の痕跡でも閉じない。
アストラムでやっていることは、全部そこにつながっているのかもしれない。
研究校の白い廊下の向こうで、字喰旗グラマがまた光の文字を食べた。
文字は消えた。
でも、消えた文字の形が、一瞬だけ空中に残った。
痕跡。
俺たちはそれを見る。
読めるもの。
読めないもの。
読んではいけないもの。
今は読まないもの。
その全部を抱えたまま、クララの章は次のページへ進んでいく。




