第114話 忘却契約の痕跡
研究校での二日目は、朝から白かった。
空も、校舎も、廊下も、研究服も、全部白い。
リブランの灰色は、余白を包む色だった。
アストラムの白は、余白を消す色に見える。
もちろん、ただの印象だ。
でも、印象は時々、言葉より先に正しい場所へ行く。
俺たちは朝食後、アストラムの第二観測室へ向かった。
昨日の古代旗術式読解を受けて、ディオン・アルグレイ主任が追加確認を提案したからだ。
提案。
という形を取っていた。
ただ、研究校側の目は明らかに前のめりだった。
クララが読んだ。
古代旗術式では、旗は捕獲対象ではなく通行権の媒体だった可能性がある。
欠陥魔法と呼ばれる特性は、古い術式上では意味のある痕跡として機能する可能性がある。
その二つの仮説は、研究校の分類体系を揺らした。
そして、揺らしたものを研究者は追いたがる。
追いたがる気持ちはわかる。
でも、追われる側としては少し怖い。
「今日は何を調べるんですか」
ロイが小声で聞いた。
「ルカさんの欠陥反応と、古代式の照合」
クララが答える。
声は落ち着いている。
でも、青い栞を持つ指に力が入っていた。
「照合って、具体的には?」
ネルが聞く。
「ルカさんの風属性反応薄化、存在認識の揺らぎ、旧代表候補選抜戦記録の欠落。それらが、古代旗術式のどの構文と似ているかを確認します」
「怖いですね」
リリィが素直に言った。
いつもなら毒を足すところだが、今日はあまり足さない。
それだけで、場の重さがわかる。
俺は水筒に触れた。
第二観測室に入る前に、ガレスが別の水筒も差し出す。
「予備だ」
「ありがとう」
「多い方がいい」
「そうだな」
水筒が二本。
少し大げさに見えるかもしれない。
でも、今日は大げさでいい。
ノルは部誌を抱えている。
昨日より眠そうだ。
重い記録が来る時、ノルは眠くなる。
眠くなることで、少し柔らかく持つ。
「ノル、大丈夫か」
「眠い」
「それは」
「大丈夫の種類」
ノルはそう言った。
大丈夫の種類。
妙な表現だ。
でも、ノルには合っている。
第二観測室は、昨日の読解室より広かった。
中央に、円形の床。
床には薄い銀の線が幾何学的に走っている。
現代魔法式。
その下に、クララなら読める古い線があるのかもしれない。
壁には観測板が並び、天井から透明な測定環が吊るされている。
人を測るための部屋。
そう感じた瞬間、少し息が詰まる。
ディオン主任が待っていた。
白い研究服。
魔法板。
今日は、昨日より少し慎重な顔をしている。
学習したのかもしれない。
少なくとも、最初の一言は慎重だった。
「本日は、ルカ・ヴァレンさん本人の同意がある範囲でのみ照合を行います」
「範囲を先に確認します」
クララがすぐ言った。
青い栞を持つ。
読む前手順。
彼女はもう、研究校の空気に押されていない。
緊張はしている。
でも、立っている。
「確認しましょう」
主任は頷く。
「対象は、ルカさんの現在の魔力反応と、連盟公開範囲内の古代忘却系構文の照合資料です。旧代表候補選抜戦の個別記録そのものは使用しません」
忘却系。
その言葉だけで、胸の奥が重くなる。
忘却。
忘れること。
俺の欠けた記憶。
エレナとの何か。
俺は水を飲んだ。
まだ始まっていないのに。
でも、飲む。
待つ。
「忘却系構文とは、どういうものですか」
アルフが聞く。
ディオン主任は壁に説明図を出した。
簡略化された古代式。
現代語の注釈。
「古代の契約術式には、記憶を消すための構文だけでなく、記憶を隔離する構文、名を一時的に隠す構文、誓約の破損を防ぐために認識をずらす構文があります。当校では、それらを便宜上、忘却系と呼んでいます」
「便宜上」
クララが繰り返す。
「はい。正確な分類名ではありません」
「消す、隔離する、隠す、ずらす。それぞれ違います」
「その通りです」
主任は素直に認める。
昨日より、クララへの返答が少し丁寧だ。
「本日は、消去構文か隔離構文か、あるいは別系統かを確認します」
「確認というより、類似を探す、ですね」
クララが言う。
主任は一瞬止まり、頷いた。
「類似を探す、です」
言い直した。
研究校側も少しずつ、断定の強さを調整している。
それは悪くない。
でも、今日の内容が軽くなるわけではない。
「ルカさん」
クララがこちらを向く。
「同意範囲を確認します」
「ああ」
「現在の魔力反応を測定することに同意しますか」
「同意する」
「風属性反応の薄化を見ることに同意しますか」
「同意する」
「存在認識の揺らぎを見ることに同意しますか」
少し詰まる。
存在認識。
俺が薄くなること。
人に忘れられやすくなること。
それを測定される。
嫌だ。
でも、知らないままでいるのも嫌だ。
「同意する。ただし、測定結果はこの場の参加者だけ」
ディオン主任がすぐ板へ入力する。
「記録しました」
クララが頷く。
「旧代表候補選抜戦の個別記録に踏み込まないことに同意しますか」
「同意する」
「エレナ・フォルティスさんに関わる可能性を感じた場合、停止します」
「頼む」
「はい」
クララは青い栞を胸元に当てた。
そして言った。
「読みます」
第二観測室の空気が、少しだけ震えた。
俺は円形の床の中央に立つ。
測定環がゆっくり下がってくる。
頭上、肩、胸、手首、足元。
透明な輪が、俺の周囲に浮かぶ。
縛られてはいない。
でも、囲まれている。
アルフが壁際から境界を見ている。
ジャックは腕を組んでいる。
壊す気配はない。
ただ、俺に何かあれば動く顔だ。
ガレスは水筒を持っている。
ノルは部誌を開いている。
コレットは目を細めて、未来の負け方を見ているのかもしれない。
「測定開始」
ディオン主任が言う。
測定環が淡く光る。
風属性反応。
俺の周りに、うすい風が出た。
自分で出したわけではない。
測定に反応して、少しだけ動いただけ。
風は弱い。
昔の俺なら、もっとはっきり動いたのだろうか。
それはわからない。
今の俺は、このくらいの風しか持っていない。
「風属性反応、低密度。周辺認識補助式への干渉あり」
研究員が読み上げる。
言葉が壁に表示される。
低密度。
干渉あり。
また分類される。
でも、今日はそれだけではない。
クララが壁の下部を見ている。
現代式の測定結果ではなく、その下に出る古い線。
研究校側が「残響」と呼ぶもの。
クララはそこを読む。
「風ではありません」
彼女が言った。
ディオン主任が顔を上げる。
「何がですか」
「薄いのは風属性だけではありません。風の線の下に、名の反射を避ける構文があります」
名の反射。
また、聞いただけではわからない言葉。
でも、胸の奥が反応する。
「説明できますか」
主任が問う。
クララは青い栞に触れたまま続ける。
「誰かが名前を呼んだ時、その名が本人へ戻る前に、少し横へ逃げる構文です。完全に消えるのではありません。届く前に薄くなる」
ノルがペンを止めた。
「存在感が薄い」
「はい。現代式では存在認識の揺らぎとして見えます。でも古代式では、名の戻り道がずれているように見えます」
名の戻り道。
俺は自分の名前を思う。
ルカ・ヴァレン。
呼ばれれば返事はできる。
でも、人の記憶に残りにくい。
昔の記録では名前が欠けている。
名前が戻る道が、ずれている。
そう言われると、少しわかる気がしてしまう。
怖い。
「消去構文ではない?」
ディオン主任が聞く。
「違うと思います。仮説です」
クララはすぐ補足する。
「消えているなら、名前そのものが反応しません。でも、ルカさんの現在名は反応しています。部員も認識しています。記録にも補足できました」
「隔離構文は?」
「一部は似ています。でも、隔離というより、名の一部が別の旗道に預けられているように見えます」
旗道。
昨日、クララが古代術式から読んだ言葉。
旗が通る道。
人と場と旗の間に作られる通行権。
俺の名前の一部が、そこに預けられている。
それは、どういうことだ。
「忘却契約」
ディオン主任が呟いた。
その瞬間、クララが青い栞を少し上げた。
警告。
主任は口を閉じる。
学習している。
「失礼。忘却契約に類似する反応、と言い換えます」
クララは栞を下げない。
「さらに限定してください」
「古代忘却系構文のうち、名の反射回避および旗道預託に類似する反応」
「それなら」
クララは栞を少し下げた。
長い。
とても長い。
でも、短くすると危ない。
忘却契約。
その一言で閉じてしまえば、俺の欠陥も、エレナとの記憶も、全部一つの箱に入れられる。
今はまだ、その箱に鍵をかけてはいけない。
「ルカさん」
クララが俺を見る。
「続けてもいいですか」
俺は水を飲んだ。
喉が冷える。
手が少し震えている。
でも、立っている。
「続けていい。ただし、エレナに触れそうなら止めてくれ」
「はい」
測定環がさらに光る。
壁に、俺の周りの魔力線が表示される。
現代式の図は、ほとんど読めない。
いや、俺は元から魔法式を読むのが得意ではない。
でも、その図の中に一箇所、なぜか目が引かれる場所があった。
薄い線。
途切れたような線。
風の軌道から少し外れ、どこかへ伸びている。
「そこ」
俺は思わず言った。
クララが反応する。
「見えますか」
「見えるというか、気になる」
ディオン主任が驚いた顔をした。
「本人感応ですか」
「分類しない」
ノルが眠そうに言う。
主任は口を閉じた。
今のノルは強い。
クララがその線を見る。
「これは、戻り言葉に関係しているかもしれません」
「戻り言葉」
ロイが呟く。
ルカ。
俺の戻り言葉。
俺が薄くなりそうな時、みんなが呼ぶ名前。
ルカ。
その一言で、俺は戻る。
戻る。
名の反射がずれているのに、戻れる。
「戻り言葉は、契約の上書きではありません」
クララが言った。
「道を戻すための目印です。たぶん」
「目印」
俺は繰り返す。
「はい。ルカさんの名前そのものが消えているのではなく、戻り道がずれている。だから、現在の仲間が呼ぶ『ルカ』が、目印になっている」
胸の奥が、少し熱くなる。
戻り言葉。
みんなが俺を呼ぶ声。
それは気休めではなかったのかもしれない。
古代術式の理屈でも、何か意味があるのかもしれない。
「よかったですね」
ロイが小さく言った。
「まだ仮説だ」
俺は言う。
「でも、よかった可能性があります」
ロイが言い直す。
セリオなら逃げなさそうな言い方だった。
俺は少し笑った。
「そうだな。よかった可能性がある」
測定は続く。
壁の線が少し変わる。
クララの表情が、また硬くなった。
青い栞へ指が伸びる。
「ここから先は、危ないです」
ディオン主任がすぐに聞く。
「エレナ・フォルティスさんに関わりますか」
「可能性があります」
「どの程度」
「ルカさんの名の戻り道とは別に、外部から強い認識保持線がかかっています」
外部から強い認識保持線。
エレナ。
誰からも忘れられない。
本当の自分を誰にも認識されない。
彼女の欠陥が頭をよぎる。
俺の名の戻り道がずれている。
彼女には強い認識保持線がかかっている。
逆。
ノルが夢で見た通り。
エレナは名前が濃すぎる。
俺は昔の名前が薄い。
「停止します」
クララが言った。
青い栞を掲げる。
俺は反射的に「待って」と言いそうになった。
言わなかった。
言ってしまえば、クララを読ませることになる。
俺のために。
俺の知りたい気持ちのために。
それは違う。
喉の奥で言葉を止める。
水を飲む。
止まる。
ノルが部誌を閉じる。
ぱたん。
「第七部側、停止」
ノルが言う。
「理由。エレナ・フォルティスに関わる可能性」
ディオン主任は、今回はすぐに測定環を止めた。
光が消える。
俺の周りの透明な輪がゆっくり上がっていく。
囲まれていた感覚が消える。
俺は一歩下がり、少しふらついた。
ミラが近づく前に、ガレスが肩ではなく椅子を引いた。
「座れ」
直接持たない。
周りを持つ。
俺は椅子に座った。
「ありがとう」
「水」
「飲む」
予備の水筒まで使った。
大げさではなかった。
クララも椅子に座る。
青い栞を握ったまま、息を整えている。
「読めました」
彼女は言った。
「でも、読まなかった」
俺は返す。
クララは頷く。
「読みたいです」
「うん」
「でも、今は読まない方がいい」
「うん」
「ルカさん」
「何だ?」
「苦しいですか」
正直な質問だった。
俺は少し考えた。
苦しい。
でも、ただ苦しいだけではない。
名の戻り道。
戻り言葉。
旗道預託。
エレナにつながるかもしれない線。
全部が重い。
でも、全部を知らないまま暗闇にいるよりは、少しだけ場所がわかった。
「苦しい。でも、床がある」
クララが瞬きをする。
「床」
「踏める場所が少しできた感じ」
ミラが頷いた。
「床は大事」
「ミラが言うと重いな」
「筋力で床を信じてるから」
リリィが小さく笑った。
少しだけ空気が緩む。
ディオン主任は、板にまとめを書いている。
「本日の照合結果」
彼は読み上げた。
「ルカ・ヴァレンさんの欠陥反応には、古代忘却系構文のうち、名の反射回避および旗道預託に類似する痕跡が認められる可能性あり。消去構文とは断定できず、隔離構文とも完全一致しない。戻り言葉『ルカ』は、現在名への復帰目印として機能している可能性あり。外部認識保持線については、エレナ・フォルティスさんに関わる可能性があるため、読解停止」
長い。
本当に長い。
でも、それでいい。
短くしてはいけない。
「忘却契約、とは書かないでください」
クララが言った。
主任は頷く。
「書きません。見出しにはどうしますか」
ノルが部誌を開いた。
「忘却契約の痕跡」
俺は少し驚く。
「ノル、それはいいのか」
「痕跡」
ノルは言う。
「契約じゃない。痕跡」
クララが考える。
そして頷いた。
「見出しとしてなら、許容できると思います。本文で限定します」
ディオン主任も頷く。
「では、見出しは『忘却契約の痕跡』。本文では類似反応に限定します」
忘却契約の痕跡。
その言葉が、俺の前に置かれる。
怖い。
でも、契約と断定されるよりはいい。
忘却とだけ言われるよりもいい。
痕跡。
何かがあった形。
でも、その全部ではない。
リブランで覚えた。
欠落名は空白ではなく、当時存在した選手の痕跡として扱う。
今度は、俺の中にある欠陥も痕跡として扱われる。
それは少しだけ、耐えられる形だった。
「ルカ」
コレットが呼んだ。
短く。
戻り言葉として。
俺は顔を上げる。
「いる」
「うん。今、少し薄かった」
「そうか」
「でも、戻った」
コレットはそう言った。
たぶん未来ではなく、今を見て。
俺は自分の手を見た。
ちゃんとある。
みんなの声も聞こえる。
クララの青い栞も見える。
ディオン主任が、俺の様子を観測しようとして、少し迷い、板を下げた。
その迷いに、俺は気づいた。
「記録しないんですか」
俺が聞くと、主任は少し困った顔をした。
「今のは、観測より先に確認が必要だと思いました」
「学習しましたね」
リリィが言う。
「はい」
主任は真面目に頷いた。
研究校側も、少しずつ変わっている。
もちろん、これで全部信頼できるわけではない。
でも、止まれる相手にはなってきた。
「記録していいです」
俺は言った。
「ただし、コレットが呼んで戻ったことも一緒に」
主任は頷く。
「承知しました」
ノルも部誌に書く。
ルカ、少し薄い。
コレットが呼ぶ。
戻る。
戻り言葉、今も有効。
ノルの字は眠そうだった。
でも、その眠そうな字が、今は一番信頼できる記録に見えた。
第二観測室を出る頃には、外の光が少し傾いていた。
白い廊下に、長い影ができている。
研究校にも影はある。
当たり前だ。
白いものばかり見ていると、忘れそうになる。
「クララ」
俺は廊下で立ち止まった。
「はい」
「今日、読んだこと。怖かったか」
クララは少し考えた。
「怖かったです」
「でも、読んだ」
「はい」
「止まった」
「はい」
「助かった」
クララは、昨日と同じように少し困った顔をした。
でも、今日はすぐに頷いた。
「受け取ります」
その返事に、俺は笑った。
彼女も少しだけ笑った。
アストラムの白い廊下の向こうで、字喰旗グラマが競技場の上を飛んでいる。
光の文字を食べながら。
俺たちの作戦書も、たぶん食べる。
古代式の意味も、現代式の分類も、全部飲み込んで逃げる旗。
でも、今日わかったことがある。
文字になる前のもの。
声。
足跡。
失敗。
迷い。
重さ。
戻り言葉。
そういうものは、まだ俺たちの手元にある。
俺は小さく息を吸った。
「ルカ」
今度はクララが呼んだ。
珍しい。
俺は少し驚いて彼女を見る。
「何だ?」
「戻り言葉が有効かどうか、確認です」
「研究校っぽくなってきたな」
クララは少しだけ笑った。
「仮説なので」
その笑いは、白い廊下の中で小さく温かかった。
忘却契約の痕跡。
それは今日、俺の中に見つかった。
でも、それだけでは終わらない。
俺には戻り言葉がある。
呼ぶ人がいる。
記録する人がいる。
止まれる人がいる。
だから、まだ読まない線があっても、歩ける。
今は、そこまでで十分だった。




