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第113話 古い文字だけが読める

 クララが読解試験を止めた後、研究室の空気は変わった。


 最初は、分類する側と分類される側だった。


 研究校の白い部屋。


 魔法板を持つ研究員。


 番号と分類名。


 欠陥。


 非標準。


 観測対象。


 そういう言葉が、俺たちの周りに置かれていた。


 でも、クララが青い栞を掲げて停止した瞬間、少しだけ逆になった。


 研究員たちが、クララを見ている。


 ただの落ちこぼれとしてではない。


 読めない現代魔法式の前で止まった生徒としてでもない。


 読める古代術式を、読まない判断ができる相手として。


 それは、研究校にとって予想外だったらしい。


「読めるのに停止する」


 ディオン・アルグレイ主任は、何度目かわからない言葉を呟いた。


「面白い」


「それ、また言いました」


 リリィがすぐ指摘する。


「失礼。重要です」


「それも嫌です」


「では、価値があります」


「もっと駄目です」


 ディオン主任は本気で困った顔をした。


 悪い人ではない。


 たぶん。


 ただ、何でも研究の棚に置く癖が強い。


 リリィがその棚を蹴り続けている。


 ありがたいような、危ないような。


 クララは椅子に座り、青い栞を膝の上に置いていた。


 さっきまで少し青かった顔色は、戻りつつある。


 ミラが隣に立っている。


 ガレスは水を置いている。


 ノルは部誌を開いているが、半分眠っている。


 でも、重要な言葉が出ると、眠そうな目だけ動く。


「クララさん」


 ディオン主任が声を整えた。


「先ほどの比較板は、こちらの不手際でした。旧代表候補選抜戦関連術式に類似する可能性がある要素を含んでいたなら、試験素材として不適切です」


「故意ではなかったんですか」


 アルフが聞く。


「故意ではありません」


 主任は即答した。


「ただし、完全に偶然とも言い切れません。当校の教材は、連盟標準術式資料を基にしています。その資料自体に古代旗術式の残響が混じっていた可能性があります」


 残響。


 クララが顔を上げる。


「残響、ですか」


「研究校で使う仮称です。古い術式構文が、現代魔法式の中に意味を失った形で残っている場合があります」


「意味を失った」


 クララの声が少し硬くなる。


 ディオン主任は板に図を出した。


 いくつかの線。


 現代魔法式の直線的な構造。


 その下に、かすれた曲線。


「現代式に再編される過程で、古代構文の役割は消えたと考えられています。残っているのは形だけです」


 クララはその図を見る。


 そして、すぐに青い栞へ触れた。


 読む前手順。


 まだ読まない。


 ただ、見る。


「形だけとは限りません」


 クララが言った。


 研究員たちが反応する。


 ディオン主任の目が少し細くなる。


「根拠は?」


「今は仮説です」


「聞かせてください」


 クララは俺たちを見る。


 俺は頷く。


 ノルは部誌を開いたまま。


 閉じていない。


 今は話していい。


「これまでの遠征で、競技旗は単なる道具ではありませんでした」


 クララはゆっくり話し始めた。


「軍事校の鉄旗は、命令系統に反応しました。貴族校の白旗は、礼節と名誉に反応しました。山岳校の崖旗は、背負う者に反応しました。クレストフォールの綿羽旗フィーニスは、未登録の弱い召喚痕跡に反応しました。リブランの灰栞旗セリオは、忘れられた名前に反応しました」


 一つずつ、旗が並ぶ。


 旅で出会った旗たち。


 勝った旗。


 勝てなかった旗。


 触れた旗。


 触れなかった旗。


 それらが、クララの言葉の中で研究資料ではなく、記憶として立ち上がる。


「それぞれの反応は、現代競技規則だけでは説明しきれません。古代の土地契約、記憶保持、名の保護、地域魔法の残響。そうしたものが、旗の動きとして残っています」


 ディオン主任は黙って聞いている。


 研究員たちも、板に記録している。


「つまり、現代魔法式の中に残る古代構文も、形だけとは限りません」


 クララは言った。


「意味が消えたのではなく、読める人が減っただけかもしれません」


 部屋が静かになった。


 その静けさは、さっきまでの観測の静けさとは違った。


 研究校の人たちが、少し本気で考えている静けさだった。


 ディオン主任は、板に表示した図を見る。


「読める人が減っただけ」


「はい」


「現代魔法教育では、古代構文を雑音として扱います」


「雑音」


 クララが少し眉を寄せる。


「ノイズです。解析に不要な揺らぎ」


「不要かどうかは、読み方によります」


 クララの声が、さっきより少し強くなった。


「私は現代式を読めません。だから、標準授業では落ちこぼれです。でも、古代構文が雑音ではなく意味を持つなら、私が読めるものは欠陥ではなく、別の読み方です」


 自分で言った後、クララは少し驚いた顔をした。


 きっと、言うつもりのなかった言葉だったのだろう。


 でも、出た。


 別の読み方。


 欠陥ではなく。


 非実用ではなく。


 現代標準ではなく。


 別の読み方。


 ネルが小さく笑った。


「いいじゃない」


 ロイも頷く。


「すごくいいです」


 リリィが腕を組む。


「分類名を変えましょう。古代限定読解者。いや、硬いですね。古い文字だけ読める女」


「それは雑です」


 レイナが言う。


「でも、欠陥よりは良いです」


 クララは困ったように笑った。


「分類名は後でいいです」


「後で変えましょう」


 リリィは諦めていない。


 ディオン主任は、そのやり取りを少し不思議そうに見ていた。


 研究室の中で、分類名を冗談混じりに取り返す。


 研究校ではあまりない光景なのかもしれない。


「クララさん」


 主任が言った。


「正式な検証を行いませんか」


 空気が少し張る。


「検証」


 クララが繰り返す。


「はい。あなたが古代構文をどの程度意味として読めるのか。当校の資料で確認したい」


「対象は?」


「古代旗術式の模写資料です。個人記録は含みません。連盟公開範囲内のものです」


 クララはすぐに答えない。


 青い栞に触れる。


 俺たちは待つ。


 待つことが、少しずつうまくなっている。


「読む前手順を使います」


 クララが言った。


「承認します」


 主任は答えた。


 少し早い。


 彼も、この手順に慣れ始めているのかもしれない。


 研究員たちが、別室へ移動の準備を始めた。


 俺たちは研究室の奥へ案内される。


 そこは、読解室と呼ばれていた。


 白い部屋ではなく、薄い灰色の部屋。


 壁の魔法式は少ない。


 中央に、大きな透明板が一枚。


 その奥に、黒い布で覆われた資料台。


 黒い布を見ると、リブランの記録を思い出す。


 伝えるな。


 伝えれば、重くなる。


 俺は水筒に触れた。


 ディオン主任がそれに気づく。


「水ですか」


「待つ合図です」


「興味深い」


「主任」


 リリィが睨む。


「重要です」


「それも」


「便利な表現がありませんね」


 主任は少し困ったように笑った。


 資料台の前で、クララが立つ。


 青い栞を手に持つ。


 ノルが部誌を開く。


「読む前手順」


 ノルが言った。


 クララは頷く。


「読みます」


 声は、さっきより安定していた。


「対象は、アストラム高等魔法理論学院所蔵、連盟公開範囲内の古代旗術式模写資料。許可者はディオン・アルグレイ主任。読解範囲は、一枚目の表示部分のみ。個人記録、旧代表候補選抜戦関連、ルカさんまたはエレナ・フォルティスさんに関わる可能性を感じた場合、停止します。読解結果は仮説として扱います」


 ディオン主任が頷く。


「承認します」


 黒い布が外される。


 透明板に、古い術式が映し出された。


 線はかすれている。


 文字は曲がっている。


 現代魔法式の直線的な美しさとは違う。


 少し不揃いで、土地の形や風の流れや人の声をそのまま線にしたような術式。


 俺には読めない。


 ただ、見ていると少し胸の奥がざわつく。


 旗の気配に似ている。


 クララは透明板を見た。


 その瞬間、彼女の顔から迷いが消えた。


 読める。


 本当に読める。


 研究員たちも、それに気づいた。


 クララはゆっくり口を開く。


「基礎構文は、所有ではありません」


 ディオン主任がすぐ記録する。


「所有ではない?」


「はい。これは旗を所有する術式ではありません。旗を場所に結ぶ術式でもない。人と旗と場の間に、通行権のようなものを作る構文です」


 通行権。


 アルフが少し反応する。


 境界に関わる言葉だからだろう。


「旗は、奪われるものではなく、通るものとして扱われています」


 クララは続ける。


「競技旗の原型かもしれません。旗を捕まえるのではなく、旗の通る道を一時的に共有する」


「共有」


 ディオン主任の声が少し熱を持つ。


「現代競技の捕獲概念とは違いますね」


「はい。捕獲は後からの翻訳だと思います」


 研究員たちがざわめく。


 捕獲は後からの翻訳。


 それは大きい。


 魔法競技は、旗を捕まえる競技だ。


 でも、古代の術式では、旗は捕まえるものではなく、通る道を共有するものだった。


 もしそうなら、俺たちが旅で感じてきた違和感にも説明がつく。


 旗はただ逃げるだけではない。


 旗は、その場所の記憶や契約や名前を持って動く。


 捕まえれば終わりではない。


 触れ方が問われる。


「次の行」


 クララは目を細める。


「名の記入があります。ただし、個人名ではありません。役割名でもない。参加する者の呼吸、足跡、声を一時的に旗の道へ登録する」


 ロイが小さく息を吸う。


 声。


 彼の魔法に関わる。


 ミラは自分の足元を見る。


 足跡。


 ネルは手を握る。


 呼吸。


 それぞれの欠陥が、古い術式の中で別の意味を持ち始める。


「これ、現代式では何と翻訳されていますか」


 クララが聞く。


 ディオン主任が板を見る。


「競技者魔力署名欄、です」


 クララは首を横に振る。


「狭いです」


「狭い」


「魔力だけではありません。声、足跡、失敗、ためらい、重さ。そういうものも道に入っています」


 レイナが息を止めた。


 失敗。


 古代術式の中に、その言葉がある。


 彼女の失敗魔法が、ただの失敗ではないかもしれない。


 ディオン主任は、初めて少し混乱したように見えた。


「失敗が、登録要素?」


「はい。正確には、未完了の試行痕跡です」


「未完了の試行痕跡」


 主任が繰り返す。


 研究員たちの板に、一斉に文字が走る。


 レイナが小さく呟いた。


「私の失敗、痕跡なんですね」


「たぶん」


 クララは言った。


「仮説です。でも、ここでは失敗は消すものではありません。道に残るものです」


 レイナは目を伏せた。


 泣くわけではない。


 でも、少しだけ救われたような顔をした。


 クララはさらに読む。


「旗は、強い魔法だけを認識しません。むしろ、場に残った小さい痕跡を拾う。声の震え、足の遅れ、魔力の途切れ、召喚の迷い」


 リリィがグレイを見る。


「迷い」


 グレイは震えた。


「あなた、術式的に正しかった可能性があります」


 グレイはさらに震えた。


「褒めています」


 それでも震える。


 クララの読解は続く。


 研究員たちの顔が、だんだん変わっていく。


 最初の興味。


 次の驚き。


 そして、少しの焦り。


 自分たちが雑音として扱ってきた線に、意味がある。


 現代式では削られたものが、古代式には残っている。


 それを、現代魔法式が読めない落ちこぼれのクララが読んでいる。


 アストラムの分類が、目の前で揺らいでいた。


「ここ」


 クララの声が、少し低くなった。


 彼女の指が青い栞へ近づく。


 俺は水筒を持つ。


 ノルが部誌を見つめる。


「契約に似た構文があります」


 部屋の空気が止まる。


「ただし、所有契約ではありません。勝敗契約でもありません。忘れないための……いえ」


 クララは止まった。


 青い栞を掲げる。


「停止します」


 ディオン主任が一歩前へ出かけて、止まった。


 今度は、彼も止まれた。


「理由は?」


「ルカさんとエレナ・フォルティスさんに関わる可能性を感じました」


 俺の胸が重くなる。


 忘れないための。


 その後に続く言葉。


 聞きたい。


 とても。


 でも、クララは止まった。


 俺のために。


 エレナのために。


 自分のために。


 読めるものを、読めるだけ読まないために。


 俺は水を飲んだ。


 冷たい。


 喉を通る。


 待てる。


「停止を承認します」


 ディオン主任が言った。


 声が、さっきより慎重だった。


 クララは栞を下げる。


 少し息が荒い。


 でも、倒れない。


 ミラがすぐ横にいる。


「読解結果をまとめます」


 クララは言った。


「古代旗術式では、旗は捕獲対象ではなく、場と人の間に通行権を作る媒体として扱われている可能性があります。参加者の登録要素は魔力署名だけではなく、声、足跡、失敗、迷い、重さなどを含む可能性があります。欠陥魔法と呼ばれる特性は、現代標準式では扱いにくい一方、古代旗術式上では意味のある痕跡として機能する可能性があります」


 仮説。


 可能性。


 可能性。


 可能性。


 歯切れは悪い。


 でも、今はそれがいい。


 断定しない。


 閉じない。


 それでも、見えたものをなかったことにはしない。


 ディオン主任は、しばらく何も言わなかった。


 研究員たちも黙っている。


 やがて主任は、深く息を吐いた。


「当校の分類体系では、そこまで拾えていません」


 正直な言葉だった。


「欠陥魔法は、現代標準式に対する偏差として扱われています。古代旗術式上の機能としては、ほとんど評価されていない」


「だから分類ミスですか」


 レイナが聞いた。


 主任は少し考えた。


「分類ミス、というより、分類範囲の不足です」


「同じようなものでは?」


 ネルが言う。


「研究者としては違います」


「当事者としては近いわ」


 ネルの言葉に、主任は黙った。


 怒らない。


 反論もしない。


 考えている。


 それは少しだけ信頼できる沈黙だった。


「記録を修正します」


 主任は言った。


「クララ・ヴェルムさんの分類について。現代標準式読解不能。古代旗術式読解高適性。欠陥魔法分類については、古代術式環境における機能評価が必要」


 壁に文字が表示される。


 古代旗術式読解高適性。


 クララが、その文字を見た。


 現代魔法式ではなく、普通の文字。


 読める文字。


 そこに、自分の欠陥が少し違う形で置かれている。


「高適性」


 ロイが嬉しそうに呟く。


「いい響きです」


「まだ仮です」


 クララが言う。


「仮でもいいじゃない」


 ネルが返す。


「落ちこぼれより、ずっと」


 クララは少し黙り、それから頷いた。


「はい」


 その「はい」は、とても小さかった。


 でも、研究室の白い壁にちゃんと届いた。


 ディオン主任は、透明板の資料を保存状態に戻す。


「本日の読解はここまでにしましょう。これ以上は、旧代表候補選抜戦関連および旗契約類似反応に触れる可能性があります」


「主任が止めるんですね」


 リリィが言った。


「学習しました」


 主任は真面目に答えた。


「研究には停止も必要です」


 リリィは少しだけ目を細める。


「今のは、ちょっと良いです」


「ありがとうございます」


 研究者がリリィに評価されている。


 奇妙な光景だった。


 読解室を出る時、クララは青い栞を本に戻した。


 ぱたん。


 本を閉じる音。


 終わりではなく、また開くための音。


「クララ」


 俺は声をかけた。


「はい」


「さっきの読解、すごかった」


 クララは少し困った顔をした。


「すごいと言われると、落ち着きません」


「じゃあ、助かった」


 彼女は少し考えた。


「それなら、受け取れます」


「助かった」


「はい」


 クララは頷いた。


 読めることは、彼女の欲でもある。


 でも、今日それは俺たちを助けた。


 欠陥魔法が分類ミスではなく、古い術式の残響かもしれない。


 その可能性を、クララが開いた。


 読み切らずに。


 閉じずに。


 必要なところで止まって。


 研究校の廊下へ戻ると、遠くの競技場の上で黒い旗が飛んでいた。


 字喰旗グラマ。


 文字を食べる旗。


 光の文字が、また黒い影に吸い込まれて消える。


 クララはそれを見上げる。


 今度は、少しだけ違う目だった。


 怯えだけではない。


 読みたいだけでもない。


 どう読むかを考える目。


「あの旗」


 クララが言った。


「作戦書を食べるなら、文字だけでは勝てません」


「じゃあ、どうする?」


 俺が聞くと、クララは少し考えた。


「文字になる前のものを使います」


「声とか、足跡とか、失敗とか?」


「はい」


 それは、さっき読んだ古代術式の要素だった。


 旗が拾う、小さい痕跡。


 現代式では雑音にされるもの。


 第七部が、ずっと抱えてきたもの。


「次の試合、作戦書を食べられる前提で考える必要があります」


 クララは言った。


「でも、全部食べられるわけではありません」


「何が残る?」


「読まれないもの。書かれないもの。まだ文字になっていない判断」


 クララは青い栞を軽く握る。


「それを、私が読める古代魔法の方から組み直します」


 研究校の白い廊下で、クララはそう言った。


 現代魔法式が読めない落ちこぼれ。


 古代文字しか読めない欠陥。


 そう分類されていた彼女が、文字を食べる旗との試合の前に、初めて自分の読めるものを武器として見た。


 ノルが部誌に書く。


 古い文字だけが読める。


 だから、古い道が見える。


 クララはそれを見て、少しだけ笑った。


「その記録も、残してください」


「残す」


 ノルは眠そうに頷いた。


 字喰旗グラマが、遠くでまた一つ、光の文字を食べた。


 でも、その文字の消え方が、もうただの脅威には見えなかった。


 食べられるなら、食べられないものを探す。


 読めないなら、読める場所から入る。


 クララの章は、静かに熱を持ち始めていた。


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