第110話 忘れたものも、なかったことにはしない
リブランを発つ日の朝、街には霧が出ていた。
白ではない。
少し灰色の霧。
運河の水面と本棚の影と古い石畳が、全部うすく混ざっている。
灰栞旗セリオの色に似ている、と俺は思った。
忘れられた名前を隠す色ではなく、閉じないために少しだけ包む色。
宿舎の食堂で、ノルは珍しく起きていた。
正確には、座っていた。
起きているかどうかは、まだ少し怪しい。
机の上には部誌が開かれている。
その横に、焼き菓子。
水。
リブランから受け取った補足記録の写し。
そして、セリオが残した灰色の線。
朝食のパンより記録の方が多い。
「食べないと倒れるわよ」
ネルが言う。
ノルはパンを見る。
部誌を見る。
パンを見る。
部誌を見る。
「どっちも大事」
「そうね。でもパンは今食べないと乾く」
「部誌も今書かないと乾く」
「インクは乾いていいのよ」
ネルが呆れる。
リリィが横からパンを半分に割った。
「では、ノルさんを二分割しましょう。右半分が食べて、左半分が書く」
「やめろ」
ジャックが低く言う。
「冗談です。第七部の記録係を割ると、たぶん呪われます」
「呪いじゃない」
ノルが小さく反論した。
「眠くなるだけ」
「十分な呪いですね」
リリィはそう言って、半分のパンをノルの前に置いた。
ノルは少し考えてから、パンを食べた。
食べながら、部誌に目を落としている。
器用だ。
危ないとも言う。
俺は向かいに座り、水を飲んだ。
リブランに来てから、水を飲む回数が増えた気がする。
ガレスの影響もある。
でも、それだけではない。
水を飲むことが、待つ合図になったからだ。
重い記録の前で、すぐに答えを出さない。
そのための小さな動作。
「今日の列車は昼前ですよね」
ロイが確認する。
「ええ」
コレットが答える。
「その前に、リブラン側から最終記録の確認があります」
「まだあるんですか」
リリィがうんざりした顔をする。
「記録の街なので」
クララが言う。
「記録の街、手強いですね」
「でも、必要な確認です」
レイナは補足記録の写しを見ていた。
「昨日の内容を、どう残すか。ここで決めないと、後で別の形で使われるかもしれません」
別の形で使われる。
当時注目されていた風使い。
有望選手。
忘れた選手。
短い言葉は便利だ。
便利な分、人を削る。
それを知った後だと、最終確認を面倒とは言い切れない。
「ノル、今日の部誌は?」
俺が聞くと、ノルはペンを止めた。
「章の終わり」
「章?」
「リブラン編」
ノルは当然のように言った。
俺たちの旅を、ノルは部誌の中で章にしているらしい。
確かに、軍事校も、貴族校も、山岳校も、クレストフォールも、それぞれ一つの塊だった。
そしてリブランは、ノルの章だった。
眠い記録係が、自分の眠さと、記録の重さと、旗の記憶に向き合う章。
「どう締める?」
ノルは少し考えた。
「まだ」
「まだ?」
「締めるけど、閉じない」
リブランらしい答えだ。
ロイが感心したように頷く。
「章は締めるけど、記録は閉じない」
「そう」
「難しいです」
「難しい」
ノルは認めた。
認めたうえで、またペンを動かす。
俺たちは朝食を終え、リブラン中央記録館へ向かった。
霧の街を歩く。
橋を渡るたび、欄干の栞飾りが小さく揺れる。
昨日までならただの飾りに見えたかもしれない。
今は、少し違う。
栞は、本を閉じるためだけのものではない。
どこまで読んだかを残すものだ。
また戻る場所を忘れないためのものだ。
リブランの街が栞だらけなのは、たぶんそういうことなのだろう。
すべてを読み切るためではなく、途中を途中のまま持つために。
中央記録館の補足記録室では、エリオとサリナが待っていた。
机の上には三枚の紙が並んでいる。
一枚目は公式試合結果。
二枚目は補足記録。
三枚目は閲覧制限付きの関連記録目録。
三枚目には、黒い布がかけられていた。
それだけで、少し緊張する。
黒い布の記録。
ノルの夢に出てきたもの。
伝えるな。
伝えれば、重くなる。
俺は水筒に触れた。
まだ飲まない。
でも、触れる。
エリオが頭を下げる。
「本日は最終確認です。リブラン側の記録として、昨日の照合結果を以下の形で残します」
彼は一枚目を読む。
「公式戦結果。カルミア魔法学園第七魔法競技部、灰栞旗セリオへの接触により勝利。接触者、ルカ・ヴァレン。競技中、ノル・フェインによる睡眠状態での逃走意図読解が戦術判断に使用された」
ロイが小さく震えた。
嬉しいのを堪えている。
ノルは表情を変えない。
でも、部誌を抱える手が少しだけ強くなった。
エリオは二枚目へ進む。
「補足記録。試合中に使用された『エレナ・フォルティスを忘れた選手』という表現は、競技上の誘導であり、ルカ・ヴァレン本人の総体を示すものではない。本人の現在の所属、自己確認、欠落記憶、旧記録に残る痕跡は、それぞれ区別して扱う」
俺は頷く。
短い言葉を、長くほどいてくれている。
それは面倒だ。
でも、ありがたい面倒さだ。
「さらに、旧代表候補選抜戦関連記録において、ルカ・ヴァレンとエレナ・フォルティスの間に旗契約に類似する反応が存在する可能性が示された。ただし、契約成立、記憶欠落の原因、エレナ・フォルティスの自己認識への影響については、同一性未確定とする」
可能性。
類似。
ただし。
未確定。
歯切れは悪い。
でも、今はその悪さが必要だ。
強い言葉で閉じないために、弱い言葉を積む。
エリオは読み終え、俺たちを見る。
「この形で問題ありませんか」
全員が俺を見るわけではなかった。
それがよかった。
俺だけの問題ではない。
でも、俺を無視して決めることでもない。
俺はノルを見た。
ノルは部誌を開いている。
止める時は閉じる。
今は開いている。
俺は水を一口飲んだ。
待つ。
胸の奥に、いくつかの言葉が沈む。
旗契約。
エレナ。
欠落。
類似。
未確定。
それらは全部、俺の中でまだ形にならない。
形にならないまま、でも、なかったことにはできない。
「問題ありません」
俺は言った。
「ただ、一つだけ」
エリオがペンを構える。
「はい」
「俺が同意したのは、この時点での記録です。後で俺が違う感じ方をしたら、それも補足できるようにしてほしい」
サリナの表情が少し柔らかくなった。
「もちろんです。リブランの補足記録は、追加できます」
「消すんじゃなくて?」
「はい。消さずに、追加します」
俺は頷いた。
それならいい。
今の俺が頷いた記録を、未来の俺が苦しく思うかもしれない。
その時、今の俺を否定して消すのではなく、未来の俺を横に置く。
それがリブランで学んだことだ。
「ノルさんは?」
エリオが聞く。
ノルは眠そうにペンを持ち直した。
「第七部側記録、読みます」
全員が少し驚いた。
ノルが自分から読み上げるのは珍しい。
彼女は部誌を膝の上に置く。
声は小さい。
でも、部屋にはよく届いた。
「リブラン遠征記録。灰栞旗セリオは、忘れられた名前を返さない。勝手に終わらせない。役割語にされた名前を守り、断定を避け、余白を残す」
ペン先で、部誌の行をなぞる。
「第七部は、試合でセリオに勝った。勝因は、全員が完結させないことを少しずつ覚えたこと」
ロイが泣きそうな顔をしている。
まだ早い。
でも、わかる。
ノルの読み上げる記録には、俺たち全員がいる。
「レイナは失敗を置いた。ネルは触れずに動いた。ロイは五つ目を待った。ガレスは水と周りを持った。ミラは止まる場所を作った。リリィとグレイは追い詰めない追跡をした。クララは読めるところで止まった。アルフは閉じない境界を置いた。ジャックは壊す前で止めた。コレットは負け方が変わるのを見た。ルカは、触る前に終わらせないと言った」
名前が一人ずつ置かれる。
役割ではなく。
評価ではなく。
昨日そこにいた人として。
ノルは少し息を吸った。
「記録係は、旗の記憶をそのまま人へ渡してはならない。旗は人の重さを測らない。記録係が測る」
セリス・フェインの言葉。
そこから、ノルは自分の言葉へ進む。
「でも、記録係は一人で測らなくていい。第七部は、重い記録の持ち方を一緒に決める。止める合図を決める。水を飲む。部誌を閉じる。焼き菓子を残す」
最後だけ少し変だ。
でも、ノルにとっては大事なのだろう。
誰も笑わない。
ノルは最後の行を読む。
「忘れたものも、なかったことにはしない」
部屋の空気が止まった。
とても短い一文。
でも、短くても人を閉じない言葉だった。
俺の胸の奥に、静かに落ちる。
忘れたものも、なかったことにはしない。
俺はエレナを覚えていない。
旧代表候補選抜戦の俺を覚えていない。
俺が何を約束したのかも、まだわからない。
でも、忘れたからなかったことにするわけではない。
記憶がないことは、言葉が嘘だった証拠ではない。
第103話でノルが書いたあの言葉と、今の言葉がつながる。
忘れたものも、なかったことにはしない。
それは、俺を過去へ引きずり戻す言葉ではない。
今の俺を消す言葉でもない。
ただ、欠けた場所に栞を挟む言葉だ。
また戻れるように。
でも、今は次へ進めるように。
エリオが静かに頭を下げた。
「記録します」
サリナも頷く。
「リブランの補足記録にも、引用許可をいただけますか」
ノルは俺を見た。
俺は頷く。
ノルも頷く。
「いい」
サリナは丁寧に書き取った。
忘れたものも、なかったことにはしない。
その一文が、リブランの記録に入る。
俺たちの部誌だけではなく、この街の棚にも置かれる。
少し怖い。
でも、少し安心する。
記録室を出る前に、クララが黒い布のかかった三枚目を見た。
「その関連記録目録は、今後閲覧申請できますか」
エリオは頷く。
「可能です。ただし、古代旗術式の読解資格が必要になります。リブラン単独ではなく、研究校または連盟古代術式部門の許可が必要です」
「研究校」
クララの目が少しだけ変わった。
次の遠征先。
研究校。
古代術式。
文字を食べる旗。
まだ俺たちは知らない。
でも、クララはもう、その方向を見ている。
「読めるかもしれません」
クララが小さく言う。
リリィがすぐに指を立てた。
「読めることと読んでいいことは別、ですよ」
クララは少し驚き、それから笑った。
「はい。私が言う前に言われました」
「成長しましたので」
「リリィさんが?」
「クララさんが」
「そちらですか」
空気が少し緩む。
でも、伏線はそこに置かれた。
古代旗術式。
黒い布の記録。
研究校の許可。
クララの読解。
リブラン編は終わる。
でも、記録は次の章へつながっている。
列車の時間が近づき、俺たちは中央記録館を出た。
エリオとサリナが見送ってくれる。
街の霧は少し晴れていた。
完全には晴れない。
でも、橋の向こうが見えるくらいには薄くなっている。
「良い未確定を」
サリナが言った。
リリィが今度は少しだけ慣れた顔で返す。
「良い余白を」
サリナは笑った。
「それも良い挨拶です」
ノルは眠そうに手を振る。
「また」
「また」
エリオが返す。
その「また」は、社交辞令ではなく、記録上の余白に聞こえた。
また来るかもしれない。
また申請するかもしれない。
また、閉じなかった記録を開くかもしれない。
列車に乗ると、ノルはすぐ窓際に座った。
部誌を膝に置き、焼き菓子を半分残す。
「また残すの?」
ネルが聞く。
「未来のため」
「便利な言葉ね」
「便利」
ノルは認めた。
列車が動き出す。
リブランの本棚の塔が、窓の外で少しずつ遠ざかる。
灰色の霧。
運河。
栞飾り。
記録の街。
俺は窓に映る自分の顔を見た。
ルカ・ヴァレン。
今の俺。
昔の俺を全部は知らない。
エレナとのことも、まだわからない。
でも、昨日よりは少しだけ、自分の欠けた場所を怖がらずに見られる気がした。
欠けた場所は、空っぽではない。
誰かがいた形をしている。
そこに栞を挟む。
勝手に埋めない。
勝手に終わらせない。
「ルカ」
コレットが向かいから呼ぶ。
「何だ?」
「次、少し文字が多い」
「リブランより?」
「違う文字」
クララが顔を上げる。
コレットは窓の外を見ながら言う。
「読まれることを嫌がるんじゃなくて、読んだものを食べる感じ」
クララの表情が真剣になった。
「研究校の旗ですね」
「たぶん」
たぶん。
リブランで覚えた言葉が、次の章にもついてくる。
俺は少し笑った。
「じゃあ、次はクララの番か」
クララは手帳を閉じた。
ぱたん。
ノルの部誌とは違う音。
でも、同じように、また開くための音だった。
「はい」
クララは静かに言った。
「読めることと、読んでいいことを、もう一度考えます」
列車がリブランを離れる。
ノルは窓にもたれ、目を閉じた。
「寝る?」
俺が聞くと、ノルは小さく頷いた。
「今度は普通に寝る」
「夢は?」
「見たら、あとで測る」
そう言って、ノルは眠った。
部誌は膝の上。
灰色の線は、朝の光の中でほとんど見えない。
でも、消えたわけではない。
見えにくいだけで、そこにある。
忘れたものも、なかったことにはしない。
リブランで得たその一文を持って、俺たちは次の街へ向かった。
まだ閉じないページを、閉じないまま。




