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第109話 閉じない記録

 リブラン戦の翌朝、ノルは寝坊した。


 いつものことだ。


 だから誰も驚かなかった。


 驚かなかったが、少し困った。


 今日の午前中に、リブランの補足記録室で試合記録の確認がある。


 昨日の灰栞旗セリオとの試合。


 俺への要約発言。


 ノルの睡眠中の発言。


 セリオが部誌へ残した灰色の線。


 どれも、ただの試合結果として片づけるには少し重い。


 そして、重い記録の前に、記録係本人が起きない。


「起こす?」


 ネルが腕を組む。


「起こしたら、たぶん不機嫌になります」


 リリィが言う。


「ノルさんが不機嫌になると、具体的には?」


 ロイが小声で聞いた。


「目を閉じます」


「寝ているのと同じでは?」


「起きているのに目を閉じます。あれは圧があります」


 よくわからないが、たぶん本当だ。


 ノルは怒鳴らない。


 急がない。


 ただ、目を閉じる。


 それでこちらが勝手に反省する。


 強い。


 ガレスが水筒を持つ。


「水で起きるか」


「ノルは水では起きないと思う」


 俺が言うと、ガレスは少し考えた。


「焼き菓子」


「それは起きそう」


 ミラが頷く。


「半分残してたし」


 結局、リリィが宿舎の食堂から小さな焼き菓子を持ってきた。


 部屋の扉を開ける前に、レイナが念のため確認する。


「入っていいか、声をかけましょう」


「ノルさん、入りますよ。焼き菓子があります」


 リリィが言う。


 数秒後、部屋の中から小さな声がした。


「入って」


 焼き菓子は強い。


 ノルは寝台の上に座っていた。


 髪は少し跳ねている。


 部誌を抱えている。


 寝ている間も離さなかったらしい。


 部誌の表紙には、昨日セリオが残した灰色の線が薄く光っていた。


 朝の光に当たると、その線は文字のようにも、ただの汚れのようにも見える。


 読もうとすると、目が滑る。


 セリオらしい。


「おはよう」


 俺が言うと、ノルは頷く。


「朝」


「朝だ」


「勝った?」


「昨日勝った」


「知ってる」


「知ってるのか」


「たぶん」


 ノルは焼き菓子を受け取り、少しだけかじった。


 それから部誌を開く。


 昨日の最後の記録。


 忘れたものも、なかったことにはしない。


 嫌だった言葉も、消すだけではなく、違うと書ける。


 今日、寝て勝った。


 その横に、セリオの灰色の線がある。


 ノルはその線を指でなぞらない。


 触らない。


 昨日の俺と同じように、近くに置くだけ。


「夢の続き、見た」


 ノルが言った。


 部屋の空気が、少しだけ変わる。


 ロイが姿勢を正す。


 リリィは焼き菓子の袋を閉じる。


 ガレスは水筒を置く。


 誰も急かさない。


 ノルが話す時は、急かすと大事なところが紙の間に落ちる。


「セリオがいた」


 ノルは言う。


「灰色の栞。リブランの書架。旧代表候補選抜戦の記録。黒い布の記録。白い旗。銀の旗。あと、エレナ」


 エレナ。


 その名前が出ると、俺の胸の奥が反応する。


 痛いほどではない。


 でも、無視できない。


「エレナが何か言った?」


 聞いた後で、少し早かったと思った。


 ノルが俺を見る。


 眠そうな目。


 でも、その奥で重さを測っている。


 伝えるか。


 どこまで伝えるか。


 それを、今測っている。


「言葉じゃない」


 ノルは答えた。


「記録」


「記録?」


「エレナの周りに、名前がいっぱいあった。濃い名前。称号。評価。白銀の星。無敗。完璧。レガリアの代表候補」


 新聞の見出し。


 俺は昨日の紙面を思い出す。


 濃すぎる名前。


 周囲が彼女を大きく印刷している。


「でも、真ん中が見えなかった」


 ノルは焼き菓子を膝に置く。


「名前がいっぱいあるのに、本人の居場所が薄い」


 誰からも忘れられない。


 でも、本当の自分を誰にも認識されない。


 エレナの欠陥。


 それが、夢の中ではそう見えたのだろう。


 濃い名前の中央に、薄い本人。


「ルカは逆」


 ノルが続ける。


「今の名前はある。第七部にいる。でも、昔の記録のところが薄い」


 俺は頷く。


 言われるまでもなく、そうだ。


 でも、ノルの言い方だと、それが並べて見える。


 エレナは濃すぎる名前に本人が隠れる。


 俺は欠けた記録に昔の自分が隠れる。


 逆のようで、どこか似ている。


「夢のセリオ、二つを並べてた」


「俺とエレナを?」


「たぶん」


 たぶん。


 大事なところで、ノルは断定しない。


 昨日の試合で、それがただの口癖ではないとわかった。


 断定しないことは、逃げではない。


 閉じないための技術だ。


「並べると、灰色の線が出た」


 ノルは部誌の灰色の線を見る。


「これと同じ線」


 クララが身を乗り出す。


「見てもいいですか」


「いい」


 ノルは部誌を差し出した。


 クララはすぐに読もうとしない。


 まず、線の周囲を見る。


 紙のへこみ。


 インクのにじみ。


 魔力の残り。


 それから小さく言う。


「古代旗の契約線に似ています」


 契約。


 その言葉で、全員が黙った。


 俺の喉が細くなる。


 エレナとの欠落。


 俺の消えた記憶。


 旗が名前を覚えること。


 昨日のセリオの反応。


 それらが、契約という言葉で一瞬だけつながりそうになる。


 つながりそうになるから、怖い。


「似ている、です」


 クララがすぐに言い直した。


「同じとは言いません」


「違いは?」


 アルフが聞く。


「通常の契約線は、当事者と旗の間に一本ずつ走ります。でも、これは途中で切れて、別の線と重なっているように見えます」


「切れている?」


「はい。閉じていない。だから契約完了ではない。契約未満、あるいは契約の残り香」


 リリィが顔をしかめる。


「契約の残り香。嫌な匂いみたいですね」


「匂いではありません」


「グレイなら追えますか」


 グレイは鞄の中から顔だけ出して、すぐ引っ込んだ。


 追いたくないらしい。


「無理そうです」


 リリィが真顔で言った。


 少しだけ空気が緩む。


 助かった。


 こういう時、リリィの毒舌や召喚獣の情けなさは、重い記録を少しだけ人間の部屋へ戻してくれる。


「旧代表候補選抜戦の時」


 レイナが慎重に言う。


「ルカさんとエレナさんの間に、何か旗契約に近いものが発生した可能性がある、ということですか」


 クララはすぐ答えない。


 ノルも答えない。


 俺も答えられない。


 可能性。


 その言葉なら、セリオは逃げないだろう。


 でも、人の心は旗より単純ではない。


 可能性だけでも、十分に重い。


「可能性はあります」


 クララが言った。


「ただし、契約という言葉をここで強く置くのは危険です。契約だと決めると、ルカさんの記憶喪失も、エレナさんの欠陥も、すべて一つの原因に閉じてしまう」


「閉じてしまう」


 ノルが繰り返す。


「それは駄目」


「はい」


 クララは頷いた。


「だから、今は『旗契約に類似した反応』くらいが安全です」


「長い」


 ネルが言う。


「でも、その長さが必要なのよね」


 ネルはため息をついた。


「短く言いたい時ほど、短くすると危ない」


「昨日の試合みたいだな」


 ジャックが言った。


 忘れた選手。


 短くて、強くて、危ない言葉。


 俺はあの言葉を思い出し、息を整える。


 もう大丈夫。


 いや、大丈夫と断定するのは早い。


 でも、今は部屋に仲間がいる。


 水がある。


 部誌がある。


 焼き菓子もある。


 少し変な安心の仕方だが、安心はしている。


「補足記録室、行ける?」


 ノルが俺に聞いた。


「行ける」


「水」


「持つ」


「止まる合図」


「俺が水を飲む。ノルが部誌を閉じる」


 ノルは頷いた。


 伝達手順は、昨日より少し自然に体に入っている。


 重い記録へ行く前に、持ち方を決める。


 それだけで違う。


 リブラン補足記録室は、昨日の競技場よりさらに静かだった。


 部屋は円形。


 壁の本棚には、試合記録だけが並んでいる。


 中央の机には、昨日の公式戦記録、審判記録、リブラン側記録、第七部側の提出用記録が置かれていた。


 サリナとエリオが待っている。


 二人とも立ち上がり、頭を下げた。


「昨日はありがとうございました」


 サリナが言う。


「こちらこそ」


 俺は答えた。


 勝った相手に礼を言われるのは、少し不思議だ。


 でも、リブランでは勝敗だけが記録ではない。


 むしろ、勝敗以外のものをどれだけ閉じずに残せるかを見ている。


「本日は三点確認します」


 エリオが紙を並べる。


「一つ、試合中の要約発言『エレナ・フォルティスを忘れた選手』の補足」


 俺は頷く。


「二つ、灰栞旗セリオがノルさんの部誌へ残した灰線」


 ノルが部誌を抱える。


「三つ、旧代表候補選抜戦記録との照合」


 三つ目で、空気が少し重くなる。


 ガレスが水筒を机の端に置いた。


 誰でも取れる位置。


 その置き方が、妙に頼もしい。


 サリナがまず一枚目を読む。


「昨日の誘導発言について。リブラン側記録では、競技上の心理誘導として発話したものの、人物総体を示す表現ではないと補足します。また、当該表現は短縮により本人の現在および過去の複数性を損なう可能性があるため、今後の公式記録には採用しません」


 複数性。


 また難しい言葉が出てきた。


 でも、言いたいことはわかる。


 俺は忘れた選手だけではない。


 今の俺もいる。


 昔の俺も、欠けたままある。


 エレナとの記録もある。


 第七部の俺もある。


 それを一つの短い言葉で閉じるな、ということだ。


「それでお願いします」


 俺は言った。


 サリナは頷く。


「二つ目。灰線について」


 エリオが、ノルの部誌と保存紙を見比べる。


「セリオの直接反応であることは確定できます。ただし、意味は未確定です」


 未確定。


 リブランでは、その言葉がただの保留ではなく、正式な棚に置かれる。


「過去の記録に似た反応は?」


 クララが聞いた。


 エリオは一冊の薄い記録を開いた。


「四十年前、セリス・フェインが記録した旗記憶干渉記録に、類似線があります」


 ノルの肩が少し動いた。


 セリス・フェイン。


 巡業リーグ記録官。


 旗は試合を覚える。


 旗が覚えるものは、人間の記録と一致しない。


 旗は勝敗よりも、触れた名、こぼれた誓い、忘れられかけた声を長く保持することがある。


 記録係は、旗の記憶をそのまま人へ渡してはならない。


 旗は人の重さを測らない。


 記録係が測る。


 その記録を書いた人。


 ノルと同じように眠かったかもしれない人。


 エリオは保存紙をこちらへ向けた。


 そこには、灰色の細い線の写しがある。


 ノルの部誌の線と、確かに似ている。


 でも、完全には同じではない。


 セリスの記録の線は、二本が交差している。


 ノルの線は、一本が途中で薄くなり、横に余白を残している。


「この記録には、どういう説明が?」


 俺が聞く。


 エリオは少し躊躇した。


 その躊躇で、俺は水筒を手に取った。


 飲む。


 待つ。


 ノルも部誌の表紙に手を置く。


 閉じる準備。


 エリオはそれを見て、言葉を選んだ。


「全文ではありません。一部だけ読みます」


 それでいい。


 俺は頷いた。


 エリオは読み上げる。


「二名の競技者が旗を介し、互いの名を保持する誓約に近い反応を示した。ただし、当事者の一方は後に当該記憶を欠き、もう一方は名前の過剰保持により自己認識の揺らぎを示した」


 部屋が静かになる。


 水を飲んだのに、喉が乾く。


 二名の競技者。


 互いの名を保持する誓約。


 一方は記憶を欠く。


 もう一方は名前の過剰保持により自己認識の揺らぎ。


 それは、俺とエレナに似すぎている。


 似すぎているから、怖い。


 でも、同じとはまだ言えない。


 言ってはいけない。


「それは」


 ロイが小さく言いかけて、止まった。


 五つ目を鳴らさない時と同じ顔だ。


 最後まで言うと、何かを閉じてしまう。


 だから止めた。


 ノルが部誌を閉じた。


 ぱたん。


 停止の合図。


 エリオはすぐに口を閉じる。


 誰も続きを求めない。


 ノルは目を閉じる。


 起きている。


 でも、目を閉じる。


 圧がある。


 リリィが言っていた通りだった。


 しばらくして、ノルは目を開けた。


「今の記録、重い」


「はい」


 エリオが頷く。


「全部は渡さない」


「承知しました」


 ノルは俺を見る。


「ルカ、今ので十分?」


 十分かどうか。


 足りない気もする。


 もっと聞きたい気もする。


 でも、聞けば戻るわけではない。


 むしろ、言葉だけが先に進んで、俺の中身を置いていくかもしれない。


 俺は深呼吸した。


「今は十分」


 ノルは頷く。


「今は」


 今は。


 その二文字が、余白になる。


 サリナが静かに言う。


「第三点の照合については、現時点では『類似反応あり、同一性未確定』と記録します」


「お願いします」


 クララが言った。


「加えて、古代旗術式の観点では『旗契約に類似するが、契約成立の証拠なし』と補足したいです」


 エリオが書き取る。


 リブランのペンは、音が小さい。


 でも、その小さな音が、今はありがたかった。


 大きな結論ではない。


 小さな補足が、俺たちを支える。


「ノルさんからは?」


 サリナが聞く。


 ノルは少し考えた。


 そして、部誌を開かずに言った。


「旗は、人の重さを測らない。だから、記録係が測る」


 セリス・フェインの言葉。


 ノルはそれをそのまま言う。


「でも、一人で測る必要はない」


 それは、ノルの言葉だった。


 エリオが顔を上げる。


 少し驚いたような、少し安心したような顔。


「それも記録してよいですか」


 ノルは頷いた。


「いい」


 俺はノルを見た。


 眠そうな記録係。


 試合中に寝て勝ったやつ。


 重い記録を、そのまま人に渡さないやつ。


 でも、一人で抱え込むことも少しずつやめようとしているやつ。


 ノルがいなければ、俺はたぶん、今日の記録を全部聞こうとした。


 聞いて、苦しくなって、それでも聞いたことを強さだと思ったかもしれない。


 でも、強さは全部聞くことだけではない。


 今は十分と言えることも、たぶん強さだ。


 補足記録室を出る時、サリナが一冊の写しを渡してくれた。


「第七部用の控えです。閲覧制限箇所は伏せていますが、今日確認した範囲は入っています」


 ノルが受け取る。


「ありがとう」


「こちらこそ。昨日の試合記録は、リブランでも長く参照されると思います」


「寝たから?」


「それもあります」


 サリナは真面目に答えた。


「睡眠状態の記録読解を、公式戦術として成立させた初例に近いので」


 ロイが目を輝かせる。


「初例!」


「ロイ」


 ネルが止める。


 ロイはすぐ口を押さえた。


 五つ目の音どころか、声が大きくなりかけた。


 でも、嬉しいのはわかる。


 ノルの眠さが、怠けではなく戦術として記録される。


 それはたぶん、ノルにとって大きい。


 ノルはあまり表情を変えない。


 でも、部誌を抱える手が少しだけ強くなった。


 宿舎へ戻る道で、俺はノルの隣を歩いた。


 リブランの街は今日も紙の匂いがする。


 橋の欄干には小さな栞飾りが揺れている。


 運河の水面に、本棚の影が映っている。


「ノル」


「ん」


「止めてくれてありがとう」


「昨日も言った」


「今日は受け取ってくれ」


 ノルは少し考えた。


「受け取る」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 それだけの会話。


 でも、たぶん大事だった。


 俺は聞きたい。


 自分が何を失ったのか。


 エレナと何を約束したのか。


 なぜ忘れたのか。


 でも、全部を今聞く必要はない。


 それを選べたのは、ノルが測ってくれたからだ。


「今は十分」


 俺が呟くと、ノルが頷いた。


「今は」


 リブランの空は薄く曇っていた。


 灰色。


 セリオの色に似ている。


 でも、嫌な色ではなかった。


 空白を隠す色ではなく、空白を少し休ませる色。


 宿舎に戻ると、ロイが我慢できずに小さく五つの音を鳴らした。


 とん。


 とん。


 とん。


 とん。


 とん。


 今度は誰も止めなかった。


 一区切りの音。


 終わりではなく、記録を棚に置く音。


 ノルは部誌を開き、今日の最後にこう書いた。


 旗契約に類似した反応。


 同一性未確定。


 今は十分。


 そして、その下に少し間を空けて、もう一行。


 閉じない記録は、持ち方を決めてから持つ。


 ペンが止まる。


 ノルはあくびをした。


「眠い」


「寝る?」


 俺が聞くと、ノルは首を横に振った。


「まだ」


「どうして?」


「今寝ると、たぶん続きを見る」


「見たくない?」


「見てもいい。でも、今は十分」


 ノルはそう言って、部誌を閉じた。


 ぱたん。


 その音は、拒絶ではなかった。


 また開くために、今は閉じる音だった。


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