第108話 寝ます、という作戦
公式戦当日のリブラン競技場は、昨日よりも静かだった。
観客が入っているのに、静かだ。
おかしい。
人が増えれば音も増えるはずなのに、ここでは逆に音が薄くなる。
本棚に囲まれた観客席。
階段状の閲覧席。
膝の上に置かれた記録帳。
声を出す前に、みんな一度だけ紙を見る。
リブランの観客は、応援する前に記録するらしい。
「落ち着かないわね」
ネルが小声で言った。
「静かすぎる」
「僕は少し好きです」
ロイも小声で返す。
「音が置きやすいので」
「置くなよ、まだ」
ジャックが言う。
ロイは慌てて頷いた。
「はい。まだ四つも置きません」
「一つも置くな」
「はい」
そう言いながら、ロイの指先は空中で何かを数えている。
五つの小さな音。
今は鳴らさない。
完成音も鳴らさない。
この試合では、終わったと思った瞬間に負ける。
昨日の観察で、それだけは全員が理解していた。
灰栞旗セリオ。
忘れられた名前を返さない。
忘れられた名前を、勝手に終わらせない。
断定される直前に逃げる旗。
今日の相手は、その旗を扱い慣れたリブラン魔法記録学院だった。
リブラン側の選手は五人。
全員が薄い灰色の競技服を着ている。
先頭にいるのは、眼鏡をかけた女生徒だった。
短く切った黒髪。
手には小さな記録板。
視線は鋭いのに、声は柔らかい。
「リブラン魔法記録学院、主記録走者、サリナ・ブックウェルです」
ブックウェル。
本の井戸みたいな姓だ。
俺たちも名乗る。
「カルミア魔法学園、第七魔法競技部、ルカ・ヴァレン」
俺が言うと、サリナの視線が一瞬だけ揺れた。
俺の名前を知っている目だ。
リブランで補足記録を作ったからか。
それとも、別の記録で見たのか。
どちらかはわからない。
でも、サリナはそれを口にしなかった。
「本日は、良い未確定を」
彼女はそう言って、頭を下げた。
リリィが目を細める。
「良い未確定。挨拶として不安です」
「悪い確定よりはいいだろ」
ガレスが言う。
「それはそうですけど」
審判が中央へ進む。
手には昨日と同じ木箱。
三つの鍵。
記録。
確認。
保留。
審判が順に鍵を回すたび、観客席の紙が一斉にかすかな音を立てた。
めくる音ではない。
息を止める音に似ている。
「本試合は通常旗取り規則に基づく。灰栞旗セリオへの接触で捕獲判定。ただし、旗への過度な記録干渉、名前の虚偽断定、競技者本人の同意なき個人記録の暴露は禁止とする」
変な追加規定だ。
でも、必要なのだろう。
この旗は言葉に反応する。
そして、この街は言葉で人を傷つける方法も知っている。
審判が木箱を開く。
灰色の細い布が、静かに浮いた。
灰栞旗セリオ。
昨日と同じように見える。
でも、今日は少し違った。
観客がいる。
相手がいる。
試合の時間がある。
旗は、同じでも場が違えば違うものになる。
セリオは中央に浮かび、少しだけ俺の方へ傾いた。
俺は触らない。
風も出さない。
ただ頷く。
「始め」
鐘は鳴らなかった。
代わりに、審判が紙を一枚めくった。
その音で、試合が始まった。
リブラン側が動く。
速くはない。
でも、乱れがない。
サリナが記録板を掲げる。
「初期位置、中央。逃走予測、右書架側。ただし確定せず」
セリオが右へ揺れた。
いや、右へ行ったように見えた。
「右じゃない」
ネルが言いかけて、口を閉じる。
断定。
駄目だ。
ネルは息を吐き直した。
「右に見える揺れ」
セリオは逃げない。
ネルの目が少しだけ鋭くなる。
言い換えに成功した。
小さな成功だ。
でも、この試合では小さな成功が大事になる。
ミラが床を踏む。
強化は浅い。
足元の金属栞が、わずかに鳴った。
その振動で、書架の影が少しだけ輪郭を持つ。
「足場、作る」
ミラが言う。
断定ではない。
行動の宣言だ。
セリオは、ミラの作った重心を嫌がらなかった。
俺は前へ出る。
追う。
ただし、追い詰めない。
難しい。
旗を追う競技で、追い詰めないことを考えるのは矛盾している。
でも、矛盾しているからこそ、リブランの旗はここにいる。
「ルカ、左の影、可能性」
コレットが言う。
左にある。
ではなく、左の影、可能性。
言葉が少し不自然だ。
でも、セリオは反応しない。
俺は左へ体を向ける。
風は使わない。
足で行く。
セリオの灰色が、書架の影に沈みかけた。
そこへ、リブランの二番手が入る。
細い男子生徒。
記録板を持たず、両手に白い紙片を挟んでいる。
「補助記録。カルミア側ルカ・ヴァレン、旧代表候補選抜戦における――」
「そこまで」
ノルの声だった。
眠そうなのに、よく通った。
男子生徒は止まる。
審判も見る。
ノルは部誌を抱えたまま、半分閉じた目で言う。
「本人同意なき個人記録の暴露、禁止」
審判が頷く。
「警告。リブラン補助記録走者、個人記録誘導に接近。発言継続不可」
男子生徒は頭を下げた。
「失礼しました。接近しすぎました」
悪意はないのかもしれない。
でも、悪意がなくても危ない。
俺の中で、胸の奥が少しだけ熱くなっていた。
旧代表候補選抜戦。
その後に続く言葉が、聞こえる前から重い。
ノルが止めてくれた。
ノルは俺を見ない。
見ないまま、部誌に何かを書く。
たぶん、今の警告も記録している。
俺は短く息を吐いた。
「ありがとう」
「あとで」
ノルは言った。
今は礼を受け取る時間ではない。
試合中だ。
セリオは左の影から出て、中央へ戻る。
サリナが静かに手を上げた。
「セリオ、未接触維持。カルミア側、保留精度、予想より高い」
「予想よりって何ですか」
リリィがむっとする。
「低く見られていた可能性があります」
クララが言う。
「腹立ちますね」
「断定すると逃げます」
「腹立つ可能性があります」
セリオは逃げなかった。
リリィは少し勝ち誇った顔をした。
それで勝ち誇っていいのかは微妙だが、今のは成功だ。
リリィが鞄を開く。
「グレイ、匂い追い。追い詰めないやつ」
灰色の小さな召喚獣が、床へぽてっと落ちた。
グレイは一瞬だけ寝たふりをした。
「起きてください」
リリィが小声で言う。
グレイはしぶしぶ顔を上げ、鼻を動かす。
セリオの灰色を追う。
ただし、一歩進んでは止まる。
二歩目は、セリオが許した時だけ。
弱い。
遅い。
でも、今日はそれが良い。
サリナの眉が少し動いた。
「召喚獣の追跡精度、低い。ただし、拒否反応も低い」
「低いって褒められてます?」
リリィが聞く。
「この試合では、かなり」
クララが答える。
リリィはグレイを見た。
「聞きましたか。低いが褒め言葉です」
グレイはわかっているのかわかっていないのか、ふるふる震えた。
セリオがグレイの少し前を漂う。
グレイは追う。
追い切らない。
そこへ、ネルが一瞬だけ動いた。
魔力が弾ける。
でも、触れない。
セリオの逃げ道の横へ、ほんの一瞬だけ現れ、すぐ離れる。
セリオは進路を変えた。
逃げたのではない。
閉じられる前に、別のページへ移った。
「ネル、今の」
俺が言うと、ネルは肩で息をしながら笑った。
「触らない瞬間移動。思ったより疲れるわ」
「でも、効いてる」
「効いてる可能性がある、でしょ」
「そうだった」
セリオは逃げない。
リブラン側の三番手が、そこで前に出た。
彼女は詩を読むような声で言う。
「灰栞旗セリオ。忘れられた名を守る。ならば、名を持つ者には不要」
セリオが揺れた。
俺も揺れた。
今の言葉は、旗に向けたものではない。
こちらへ向けたものだ。
名を持つ者には不要。
つまり、今の俺には不要。
ルカ・ヴァレンという名を持っているなら、過去の欠けた名など必要ない。
そういう誘導。
優しい顔をした断定。
「違う」
言いかけた俺より先に、レイナが前へ出た。
「今のは、たぶん違う」
セリオが止まる。
レイナは続ける。
「名を持つことと、欠けた記録を持つことは、同時にあります。私は、ここで一度失敗します」
彼女は深く息を吸った。
「ルカは全部、取り戻すべきです」
セリオが弾けるように逃げた。
灰色の布が書架の影へ沈む。
観客席がざわめく。
レイナはすぐに言った。
「今のは断定として失敗。訂正します」
部誌のページがめくられる音。
ノルが記録する。
「全部取り戻すべき、は失敗」
レイナの顔は少し青い。
でも、折れていない。
「ルカが取り戻したいものを、ルカが選ぶ余地を残すべきです。取り戻さないまま守るものもある可能性があります」
セリオが影から少しだけ出てきた。
完全には戻らない。
でも、拒絶だけではなくなった。
リブラン側のサリナが、小さく息を吐く。
「失敗を記録に変えるのが速い」
「うちのレイナですから」
リリィが言った。
誇らしげだった。
レイナは照れない。
試合中だから。
ただ、少しだけ背筋を伸ばした。
その一回の失敗で、セリオの拒否反応の大きさがわかった。
全部取り戻すべき。
それは駄目だ。
俺を思ってくれる言葉でも、駄目だ。
俺は胸の奥にその痛みを置いた。
後で見る。
今は、置く。
「ノル」
ガレスが声をかける。
ノルのまぶたが、かなり落ちていた。
眠いのではない。
眠る準備をしている。
アルフが一方向結界を薄く張る。
ノルの周囲に、透明な境界ができる。
外からの衝撃を逃がし、内側からの声は通す。
ミラが床を踏み、ノルの足元の揺れを止める。
ガレスが小さな敷布を広げ、水筒を横に置いた。
リブランの観客席から、どよめきが起きる。
試合中に眠る選手。
普通なら、ふざけているように見える。
でも、第七部にとっては作戦だ。
ノルは部誌を胸に抱えた。
それから、約束通り言った。
「寝ます」
審判が一瞬だけ困った顔をした。
でも、規則違反ではない。
ノルはその場に座り、ゆっくり目を閉じた。
眠る。
試合中に。
公式戦で。
灰栞旗セリオが、書架の影から顔を出すように浮いた。
ノルへ近づく。
触れない。
灰色の布が、ノルの部誌の上で揺れる。
ロイが息を止めている。
四つの音も鳴らさない。
俺たちは動けない。
いや、動かない方がいい。
ノルの夢が、どこへつながるかを待つ。
静かな競技場が、さらに静かになった。
紙の匂い。
インクの匂い。
灰色の旗。
ノルの寝息。
そして、ノルが小さく呟いた。
「右じゃない」
ネルがぴくりと動く。
でも、ノルは続けた。
「右に逃げたいふり。下」
下。
床。
金属栞の下か。
セリオはまだノルの前にいるように見える。
でも、違う。
灰色の布は、見えている分だけではない。
書架の影。
ページの隙間。
床に埋め込まれた金属栞。
その下に、逃走意図が潜っている。
「下の記録が揺れてる」
ノルが寝言のように言う。
サリナが目を見開いた。
リブラン側が動く。
彼女たちは知っていたのだ。
セリオの逃げ道が、見えている旗本体とは別に生まれることを。
俺は踏み出す。
床へ。
風は使わない。
床の金属栞へ、手を伸ばすのではなく、影を見る。
そこへジャックが低く言った。
「壊せば早い」
セリオが震えた。
ジャックはすぐに歯を食いしばる。
「今のは、俺の癖だ。壊さない」
震えが止まる。
ジャックは拳を握り、床へ向けた。
攻撃魔法ではない。
衝撃を、床の手前で止める。
破壊の前で止める。
その圧だけで、金属栞の下にある影が少し浮いた。
「壊さず、浮かせる可能性」
アルフが言う。
「結界、片側だけ」
薄い結界が、影の片側に立つ。
閉じない。
塞がない。
ただ、逃げ道の片側に印をつける。
セリオは反対側へ滑る。
そこにグレイがいた。
弱い召喚獣。
追い詰めない匂い追い。
グレイはセリオを見上げて、ぷるぷる震えた。
逃げ道を塞がない。
でも、そこにいる。
セリオは止まる。
止まったように見える。
いや、止まったと断定すると逃げる。
「停滞、可能性」
クララが言った。
彼女はセリオの布面を見ている。
「文字、出ます。許可なしで読まない。でも、形だけ」
「形は?」
俺が聞く。
「閉じた名。閉じてはいけない名」
ノルが眠ったまま呟く。
「閉じない。閉じないで、横に置く」
横。
俺は、セリオ本体ではなく、影の横へ手を伸ばした。
触らない。
まだ。
ただ、そこに手を置く。
俺の手の下で、床の金属栞が冷たく光る。
その瞬間、リブラン側の四番手が声を上げた。
「ルカ・ヴァレンは、エレナ・フォルティスを忘れた選手!」
禁止ではない。
たぶん、ぎりぎり。
個人記録の暴露というより、すでに試合内で共有された補足記録の要約。
でも、要約だ。
危ない。
俺の中で何かが跳ねた。
忘れた選手。
その言葉は短い。
短いから強い。
強いから、俺を閉じそうになる。
俺は忘れた選手。
エレナを忘れた選手。
それで終わる。
セリオが激しく揺れた。
灰色の布が、俺から遠ざかろうとする。
俺は風を出しかけた。
追えば届く。
たぶん。
でも、風で追えば、今の言葉に反応したことになる。
忘れた選手。
そう呼ばれた俺が、反射で取り戻そうとする。
それは、相手の誘導だ。
俺は息を止める。
水。
ガレスの水筒。
さっき飲んだ冷たさ。
手の中に思い出す。
「俺は」
声が少し震えた。
「エレナ・フォルティスに関する記憶の一部を持っていない」
セリオの揺れが、少しだけ弱まる。
「でも、それだけで終わらない」
ノルが眠ったまま、部誌を抱く手に力を入れた。
「終わらない」
俺は続ける。
「今の俺は、第七魔法競技部のルカ・ヴァレンだ。忘れたことも、今いることも、どちらも記録に残す」
セリオが逃げなかった。
リブラン側の四番手が唇を噛む。
サリナはその子を責めない。
ただ、記録板に何かを書く。
今の誘導も記録される。
俺が踏みとどまったことも、たぶん。
「ルカ」
コレットの声がする。
「今、負け方が変わった」
「勝ち方は?」
「まだ」
「十分」
俺は笑いそうになった。
まだ勝てない。
でも、負け方は変わった。
それは第七部らしい前進だ。
ノルが寝息の間に呟く。
「セリオ、逃げたい。でも、逃げたくない」
「どっちですか」
リリィが小声で言う。
「どっちも」
ノルは寝たまま答えた。
「名前、守りたい。守るために逃げる。でも、守る人がいるなら、近づく」
守る人。
セリオ自身ではなく。
リブランでもなく。
記録係。
ノルか。
俺たちか。
サリナが前へ出る。
「リブラン、保護陣形へ」
リブラン側の五人が、セリオの周囲に広がる。
こちらを防ぐのではなく、言葉の圧を作る。
「未確定」
「保留」
「根拠不足」
「本人不在」
「接触不可」
短い言葉が重なる。
セリオがその中へ沈む。
守っている。
でも、閉じている。
リブランの守りは正しい。
正しいから強い。
未確定。
保留。
根拠不足。
それらは必要な言葉だ。
でも、必要な言葉でも、積み上げすぎると壁になる。
名前を壊さないための壁が、名前へ近づく人まで拒む。
俺たちは、その壁を壊してはいけない。
越え方を探す。
「ノル」
俺は呼んだ。
ノルは眠っている。
でも、少しだけ眉が動く。
「壁を壊さず、入るには?」
ノルは答えない。
寝息。
一秒。
二秒。
三秒。
ロイが指を握りしめる。
鳴らさない。
ミラが床を踏み続ける。
揺らさない。
ガレスが水筒を見ている。
起きた時にすぐ飲めるように。
ノルが、ぽつりと言った。
「余白」
余白。
俺は競技区域を見る。
リブランの五人が作る保護陣形。
言葉の壁。
未確定、保留、根拠不足、本人不在、接触不可。
その間に、一つだけ空いている。
言葉が置かれていない場所。
誰も断定していない。
誰も守ると言っていない。
ただの余白。
「ネル」
「見えた」
ネルが短く返す。
瞬間魔法。
一瞬だけ、余白の横へ。
触らない。
ネルは現れて、すぐ消える。
セリオの布が、その余白へわずかに揺れた。
「グレイ」
リリィが囁く。
グレイがよたよた歩く。
余白へ。
遅い。
でも、誰も止めない。
リブラン側も、グレイを断定しづらいのだろう。
弱い。
小さい。
役に立たない。
そう言った瞬間、セリオは反応する。
だから、誰もグレイを短い言葉で閉じられない。
グレイは余白の前に座った。
そして、くしゃみをした。
小さいくしゃみ。
セリオが、ぴくりと揺れる。
「今ですか」
リリィが頭を抱えかける。
でも、そのくしゃみで、リブランの保護陣形にわずかな隙ができた。
笑いかけた観客。
記録板を見た選手。
言葉の圧が一瞬だけ弱くなる。
ロイが指を動かした。
とん。
とん。
とん。
とん。
四つ。
未完成の音。
終わらない音。
セリオが、余白へ出た。
俺は走る。
風は使わない。
足で。
ミラの作った足場。
アルフの片側結界。
ジャックが壊さず浮かせた影。
レイナが失敗で確かめた拒否反応。
ネルが触れずにずらした逃げ道。
リリィとグレイの追い詰めない匂い追い。
クララの読まない読み。
ガレスの水と周囲。
ロイの四つの音。
ノルの眠り。
全部が、余白へつながっている。
セリオは目の前にいる。
手を伸ばせば届く。
触る。
でも、触る前に言う。
「捕まえる。終わらせるためじゃない」
セリオは逃げない。
「記録するために」
俺の指先が、灰色の布の端に触れた。
冷たくはなかった。
温かくもない。
紙のようで、風のようで、眠りの端のようだった。
審判が紙をめくる。
「接触確認。旗捕獲判定。勝者、カルミア魔法学園第七魔法競技部」
歓声が遅れて来た。
リブランの観客は、まず記録し、それから拍手する。
拍手は静かだった。
でも、少しずつ広がった。
ロイが五つ目の音を鳴らしかけて、ノルを見る。
ノルはまだ眠っている。
ロイは待つ。
待てた。
えらい。
セリオは俺の手の中で、すぐにほどけた。
捕獲された旗は、普通なら審判の箱へ戻る。
でも、セリオは一度だけノルの方へ飛んだ。
ノルの部誌に、灰色の先端を触れさせる。
ページが一枚だけ開いた。
そこには、ノルの眠そうな字があった。
忘れたものも、まだ閉じない。
その横に、薄い灰色の線が一本入る。
ノルが目を開けた。
「起きました」
約束通りの言葉だった。
ロイが、五つ目の音を鳴らす。
とん。
小さい。
でも、きれいに終わった。
セリオは逃げなかった。
ノルは部誌を見て、少しだけ瞬きをする。
「勝った?」
「勝った」
俺が答える。
ノルは頷いた。
「じゃあ、寝た甲斐がある」
「公式戦で言う台詞じゃないな」
「でも本当」
ノルは部誌を抱え直す。
ガレスが水筒を渡した。
「水だ」
「ありがとう」
ノルは飲んだ。
サリナがこちらへ歩いてくる。
リブランの選手たちも一緒だ。
彼女は深く頭を下げた。
「良い未確定でした」
リリィが首を傾げる。
「褒められてます?」
「はい」
サリナは少し笑った。
「私たちは、保留で守りすぎました。あなたたちは、余白で近づいた」
「保留と余白は違うんですか」
クララが聞く。
「違います。保留は、閉じないための手続き。余白は、誰かが入れる場所です」
ノルが部誌に書く。
保留は手続き。
余白は場所。
たぶん、あとで重要になる。
サリナは俺を見る。
「ルカ・ヴァレンさん」
「はい」
「試合中の要約発言について、リブラン側の記録に補足を入れます。『忘れた選手』という表現は、競技上の誘導であり、人物の総体を示すものではない、と」
「ありがとうございます」
俺は少し迷ってから、言った。
「でも、消さないでください」
サリナの目が少し大きくなる。
「消さない?」
「言われたことも、俺が反応しかけたことも、残してください。嫌な記録だけど、なかったことにすると、たぶんまた同じ言葉で揺れる」
ノルが俺を見る。
眠そうなのに、少しだけ嬉しそうだった。
「良い」
「ノルに良いって言われた」
「良い」
二回言われた。
サリナは頷いた。
「承知しました。消さず、閉じず、補足します」
それはリブランらしい答えだった。
勝利の後、俺たちは競技場の中央で礼をした。
拍手はまだ続いている。
でも、俺の中に大きな高揚はなかった。
勝った。
確かに勝った。
けれど、この勝利は、何かを完全に解決したわけではない。
俺の記憶は戻っていない。
エレナの本当も、まだ見えない。
ノルの眠さも消えていない。
セリオは名前を返してくれなかった。
でも、勝手に終わらせなかった。
それで十分な試合もある。
控室へ戻る途中、ノルが部誌を開いたまま歩いていた。
危ないので、ミラが横につく。
「転ぶよ」
「転ぶ可能性」
「そこは断定でいい」
「転ぶ」
ノルは素直に言い直した。
ミラが笑う。
ノルはページの端に、灰色の線を指でなぞる。
「セリオ、夢で言ってた」
「何を?」
俺が聞く。
ノルは少し黙った。
言うかどうかを考えている。
伝達手順。
重い記録は、そのまま渡さない。
旗は人の重さを測らない。
記録係が測る。
ノルは測った。
そして、短く言った。
「名前は、戻るものだけじゃない」
「うん」
「置いておくものもある」
それは、すぐにはわからない言葉だった。
でも、今わからなくてもいい気がした。
保留。
余白。
そういう言葉を、今日俺たちは覚えた。
「部誌には?」
俺が聞くと、ノルは頷いた。
「書く」
控室に入ると、ロイがようやく大きく息を吐いた。
「五つ目、緊張しました」
「よく待てたな」
ジャックが言う。
ロイは照れた。
「ノルさんが起きるまで、終われないと思ったので」
「いい判断」
ノルが言う。
ロイはさらに嬉しそうになる。
レイナは椅子に座り、両手を膝に置いた。
「私の失敗、強すぎましたか」
「強かった」
俺は正直に言った。
「でも、必要だった」
レイナは小さく頷く。
「なら、次はもっと狭く失敗します」
「失敗の幅を調整するって、すごい表現ですね」
リリィが言う。
「でも、うちでは普通になってきました」
クララは手帳を見ながら呟く。
「閉じた名。閉じてはいけない名。古代語の構文、まだ途中です。読めるけど、読まない部分がある」
「気になる?」
俺が聞くと、クララは頷いた。
「気になります。でも、許可がないので読まない」
「偉い」
リリィが言うと、クララは少し困った。
「偉いというより、怖いです」
その正直さが、よかった。
怖いから止まる。
それも大事な技術だ。
コレットは窓際で外を見ている。
「コレット?」
「未来が少し変わった」
彼女は振り返らずに言った。
「勝ったから?」
「それもある。でも、たぶん、ルカが『消さないでください』って言ったから」
俺は黙った。
あの言葉が、未来に関わる。
どう関わるのかはわからない。
でも、リブランの記録に残る。
嫌な言葉を消さず、補足する。
それはいつか、俺が同じ痛みに触れた時の足場になるのかもしれない。
ノルは部誌に最後の一文を書いた。
みんなが自然と黙る。
ノルが書き終えるのを待つ。
ペン先が止まる。
ノルは小さく読み上げた。
「忘れたものも、なかったことにはしない。嫌だった言葉も、消すだけではなく、違うと書ける。今日、寝て勝った」
「最後」
ネルが笑った。
「大事」
ノルは真顔だった。
俺も笑った。
今日、寝て勝った。
確かに、そうだ。
これ以上リブラン戦を正確に表す言葉はないかもしれない。
灰栞旗セリオは、名前を返さなかった。
でも、俺たちに余白を教えた。
忘れたものも、まだ閉じない。
その言葉を持ったまま、俺たちはリブランの静かな拍手の中で、第七部の次のページへ進んだ。




