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第107話 忘れられた名前を守る旗

 リブランの競技場は、図書館の中にあった。


 正確には、図書館に競技場が併設されているのではない。


 競技場そのものが、巨大な本棚だった。


 観客席は階段状の閲覧席。


 壁には本。


 天井にも本。


 床には古い書架の影が伸びていて、白線の代わりに細い金属の栞が埋め込まれている。


 中央の競技区域だけは、広い。


 でも、広いのに静かだった。


 山岳校の崖みたいな圧はない。


 軍事校の鉄みたいな硬さもない。


 クレストフォールみたいな甘い匂いもない。


 紙。


 インク。


 古い革。


 それから、人が声を落とす場所の空気。


 俺たち第七魔法競技部は、その中央に立っていた。


 リブラン側の案内役、エリオ・リーブスが小さく頭を下げる。


「本日は灰栞旗セリオの事前観察です。公式戦前に、旗の基本性質を確認していただきます」


 灰栞旗。


 セリオ。


 名前を聞いた瞬間、ノルが半分だけ目を開けた。


「灰色の栞」


「はい。リブランの競技旗は、正式には灰栞旗セリオと呼ばれています」


「夢で見た」


 ノルがぼそっと言う。


 エリオは目を瞬かせた。


「夢で?」


「たぶん」


「たぶん、ですか」


「夢は、だいたいたぶん」


 リリィが腕を組む。


「ノルさんの夢は、だいたい試合前情報ですけどね。公式ルールブックに載せましょう。『睡眠欄』」


「載せない」


 ノルが即答した。


 ロイが感心したように頷く。


「でも、すごいです。夢で旗を見ていたなら、今日の観察も有利になるかもしれません」


「有利かどうかは、まだわからない」


 コレットが言った。


 彼女は観客席ではなく、競技区域の端を見ている。


 金属の栞が埋め込まれた白線。


 その一本一本が、少しだけ灰色に光っていた。


「リブランの旗は、勝ち筋を見せる旗ではない気がする」


「それ、どういう意味だ?」


 俺が聞くと、コレットは少し考えた。


「未来の負け方が、まだ選ばれていない感じ」


「嫌な表現だな」


「でも、そう」


 コレットの未来視は、いつも優しくない。


 ただ、それは嘘をつかない。


 勝てると言わない。


 負けないとも言わない。


 負け方がまだ選ばれていない。


 それはつまり、こちらの扱い次第で何かが変わるということかもしれなかった。


 エリオが競技区域の中央へ進む。


 彼の手には、細長い木箱があった。


 木箱には鍵が三つ付いている。


 鍵穴の横には、それぞれ文字が刻まれていた。


 記録。


 確認。


 保留。


 変な箱だ。


 普通、鍵は開けるためにある。


 この箱は、開けない理由まで鍵になっている。


「セリオを出す前に、一つだけ共有します」


 エリオの声が少し硬くなる。


「灰栞旗セリオは、忘れられた名前に反応します」


 その言葉で、俺の背中に冷たいものが走った。


 みんながこちらを見そうになって、見なかった。


 見ないでくれることが、少しありがたい。


 でも、見ないことが、かえって俺の名前の欠けた場所を浮かび上がらせる。


 忘れられた名前。


 俺は自分の名前を忘れていない。


 ルカ・ヴァレン。


 それは言える。


 でも、古い記録の中の俺の名前は欠けている。


 エレナの隣にあったはずの名前。


 彼女を忘れないと言った誰か。


 それが俺だと、記録は示している。


 俺の中には、その実感がない。


 だから、たぶん、俺は忘れられた名前を一つ持っている。


 自分なのに、自分から遠い名前。


「忘れられた名前に反応するって、どう反応するんですか」


 クララが聞いた。


 声は落ち着いている。


 でも、手帳を持つ指が少し強い。


 古代旗の術式。


 旗の記憶。


 クララにとっても、これはただの競技情報ではない。


「守ります」


 エリオは答えた。


 リリィが眉を寄せる。


「守る。つまり、持ち主へ返す?」


「いいえ」


「違うんですか」


「セリオは名前を返しません。復元もしません。忘れられた名前を、忘れられたまま壊されないように守ります」


 競技場の空気が、少し沈んだ。


 返さない。


 復元しない。


 守る。


 その三つは、似ているようで全然違う。


 ネルが小さく息を吐いた。


「優しいのか、意地悪なのか、わからないわね」


「たぶん、どちらでもない」


 ノルが言った。


 眠そうな声なのに、はっきりしている。


「旗は人の重さを測らない」


 エリオがノルを見る。


「セリス・フェインの記録ですね」


「うん」


「その通りです。セリオは、名前が人にとってどれほど重いかを判断しません。ですから、返すこともしない。ただ、壊されることを防ぐ」


「壊されるって?」


 ジャックが低く聞いた。


 彼はこういう言葉に敏感だ。


 壊す。


 折る。


 破る。


 彼の魔法は、そこへ行きやすい。


 エリオは木箱を持ち直した。


「忘れられた名前に、勝手な意味を入れることです」


 ジャックは黙った。


 レイナが静かに言う。


「空白を、都合よく埋めること?」


「はい。『この人はこうだったはずだ』『こういう役割だったに違いない』『この名前はもう不要だ』。そうした外部からの断定に、セリオは強く反応します」


 新聞の見出しが頭をよぎる。


 当時注目されていた風使い。


 有望選手。


 エレナの成長の背景。


 俺の名前が、そこでは役割に置き換えられていた。


 俺ではなく、彼女を語るための過去。


 それは、壊されることなのか。


 たぶん、そうだ。


 名前は消えるだけではない。


 別の言葉で覆われることもある。


 俺は自分の掌を見た。


 風は出していない。


 出す理由がない。


 こういう時、反射で風を動かすと、自分が逃げたことになる気がした。


 ガレスが水筒を差し出す。


「水だ」


「ありがとう」


 俺は受け取った。


 飲む。


 水は冷たかった。


 ガレスは多くを言わない。


 でも、そばに置くものを間違えない。


 それは強い。


「では、出します」


 エリオが三つの鍵を順に回した。


 一つ目。


 記録。


 二つ目。


 確認。


 三つ目。


 保留。


 箱が開く。


 中から出てきたのは、旗というより、一枚の栞だった。


 灰色の細い布。


 先端だけが小さく二つに割れている。


 棒はない。


 風もないのに、布は静かに揺れている。


 布面には、細い文字のような模様が走っていた。


 でも、読めない。


 読めそうで、読めない。


 目を凝らすと、文字が少しずつずれる。


 こちらが読もうとした瞬間だけ、読み方を変える。


「うわ、嫌な旗」


 リリィが素直に言った。


「リリィ」


 レイナが注意する。


「いえ、そういう反応も記録上は正しいです」


 エリオが苦笑した。


「セリオは、読まれることを拒むのではありません。読み切られることを拒みます」


「違いが細かい」


 ロイが目を輝かせる。


「つまり、途中までは読ませるんですね」


「はい。断定される直前に、逃げます」


 灰色の布が、ふわりと浮いた。


 競技区域に埋め込まれた金属の栞が、順に淡く光る。


 セリオは、その上を滑るように移動した。


 鳥でも獣でもない。


 飛ぶというより、ページをめくるように場所を変える。


 右へ行ったと思ったら、いつの間にか左の白線に挟まっている。


 上へ浮いたと思えば、床の金属栞の影に沈む。


 旗なのに、旗らしくない。


 でも、間違いなく競技旗だった。


 追おうとすると、逃げる。


 断定しようとすると、消える。


「観察のみ、でしたね」


 アルフが確認する。


「はい。接触は禁止です。追跡は可。ただし、捕獲行動はしないでください」


「境界は?」


「競技区域外へは出ません。ただし、書架の影へ潜ることがあります」


 アルフは頷いた。


 一方向結界の使いどころを考えている顔だ。


 彼は境界に強い。


 ただ、セリオの境界は壁ではなさそうだった。


 ページの隙間。


 意味の隙間。


 そういう場所へ逃げる旗だ。


「では、初期反応を見ます」


 エリオは一枚の紙を取り出した。


 競技場の中央にある台へ置く。


 紙には、こう書かれていた。


 旧代表候補選抜戦。


 エレナ・フォルティス。


 当時注目されていた風使い。


 俺は息を止めた。


 セリオが揺れた。


 灰色の布が一度だけ細く伸びる。


 そして、紙の上に滑り込んだ。


 当時注目されていた風使い。


 その文字の上に、灰色の影が落ちる。


 消したわけではない。


 隠したわけでもない。


 でも、そこだけ読めなくなった。


 見ようとすると、目が滑る。


「これは?」


 ミラが聞いた。


 彼女は身を乗り出している。


 筋力強化を使う気配はない。


 でも、体が前へ行きたがっている。


「保護反応です」


 エリオが答えた。


「名称を持たない役割語に対して、セリオが仮保護をかけています」


「役割語」


 俺は呟いた。


「はい。人物そのものではなく、役割や評価で置き換えられた言葉です。『有望選手』『風使い』『敗者』『背景』。そうした語は便利ですが、名前の代わりになるとは限りません」


 敗者。


 背景。


 俺は、自分がそう呼ばれたわけではないのに、胸が少し重くなった。


 たぶん、記録はそうやって人を削ることがある。


 悪意がなくても。


 記事を書く人は、紙面の都合でそうしただけかもしれない。


 読者にわかりやすくするためだったのかもしれない。


 でも、わかりやすさは、時々人の輪郭を落とす。


「次に、別の記録を置きます」


 エリオは一枚目を下げ、二枚目を置いた。


 そこには、昨日ノルが提案した補足記録の写しがあった。


 記事中の無名の風使いは、リブラン保管資料に基づき、ルカ・ヴァレン本人と推定される。


 本人は当該記憶を保持していない。


 ただし、現在の本人確認のもと、補足記録を許可。


 欠落名は空白ではなく、当時存在した選手の痕跡として扱う。


 セリオが止まった。


 灰色の布は、今度は文字を隠さなかった。


 紙の端へ降り、栞のように挟まる。


 補足記録の最初と最後をつなぐように、細い灰色の線が走る。


 ノルが少しだけ身を乗り出す。


「怒ってない」


「はい」


 エリオの声が、ほんの少し明るくなった。


「これが、セリオに対する正しい記録の近づき方です」


「正しい?」


 俺が聞くと、エリオはすぐに首を横に振った。


「いえ、言い方が強すぎました。比較的安全な近づき方です。断定しない。根拠を添える。本人確認を入れる。記憶がないことも併記する。空白を空白のまま扱う」


 ノルが小さく頷く。


「痕跡として扱う」


「はい」


 セリオが、ノルの声に反応した。


 紙の端からふわりと浮き、ノルの前まで来る。


 距離は、腕を伸ばしても届かないくらい。


 近い。


 でも、触れない。


 ノルは眠そうな目で灰色の旗を見る。


「こんにちは」


 灰栞旗セリオは、答えない。


 ただ、先端が少しだけ揺れた。


 ロイが口を開きかけ、すぐ閉じた。


 今は音を出す場面ではないと判断したのだろう。


 五つの小さな音も出さない。


 ロイは少しずつ、本当に少しずつ、静かな判断がうまくなっている。


「ノルさん、何か感じますか」


 クララが聞いた。


 ノルは首を傾けた。


「眠い」


「それはいつもです」


「いつもより、紙の間が眠い」


「紙の間」


 クララが手帳に書く。


 リリィが覗き込む。


「クララさん、そのまま書くんですね」


「ノルさんの表現は、後で効くことがあります」


「効く薬みたいな扱い」


「効くことがあります」


 ノルはセリオを見続ける。


 灰色の旗は、ノルから目を逸らすように、わずかに横へ滑った。


 目などないのに、そう見えた。


「この旗」


 ノルが言う。


「見られるの、嫌いじゃない」


「読まれるのが嫌い?」


 俺が聞くと、ノルは少し考えた。


「読まれて、終わりにされるのが嫌い」


 セリオが揺れた。


 今までで一番、はっきりと。


 エリオが息を呑む。


「反応しました」


「ノル、もう一回言って」


 コレットが促す。


 ノルは少し眠そうに眉を寄せる。


「読まれて、終わりにされるのが嫌い」


 灰栞旗セリオは、競技区域を一周した。


 速い。


 ただし、逃げる速さではなかった。


 確認するような動き。


 書架の影から影へ。


 金属栞から金属栞へ。


 俺たちの足元を囲むように回り、最後に中央の紙の上へ戻る。


 補足記録の端に挟まった。


「すごい」


 ロイが小さく言う。


 今度は、その小ささがちょうどよかった。


 セリオは逃げなかった。


「セリオは、完結した記録を嫌うわけではありません」


 エリオが言う。


「ただし、未完の記録を完結したふりで閉じると、強く拒みます」


「うちの部誌、未完だらけ」


 リリィが言った。


「それはそれで問題だけど、向いてるかもしれませんね」


 レイナが少し笑う。


 ノルの部誌は、いつも途中だ。


 試合結果だけでは終わらない。


 誰が何を言ったか。


 誰が言わなかったか。


 誰が失敗したか。


 その失敗が、どう扱われたか。


 勝敗欄の横に、そういうものが眠そうな字で残されている。


 たぶん、セリオはそういう記録を嫌わない。


「リブランとの公式戦では、セリオのこの性質が中心になります」


 エリオは木箱の蓋をそっと床に置いた。


「通常の旗取りと違い、セリオは追跡者の言葉に反応します。断定、命名、評価、要約。そうしたものが強いほど、逃走経路が変わります」


 ネルが顔をしかめる。


「つまり、試合中に『あっちへ逃げる』って言ったら?」


「断定と判断される場合があります」


「面倒ね」


「はい」


 エリオはあっさり認めた。


「リブランの選手は、その面倒さに慣れています。言葉を保留しながら指示を出す訓練を受けます」


「保留しながら指示?」


 ミラが首を傾げる。


「たとえば、『右へ逃げた』ではなく、『右側の記録が揺れた』。『捕まえられる』ではなく、『接近可能性あり』。『あれは囮だ』ではなく、『囮である可能性を保留』」


「試合中に言えるか、それ」


 ジャックが呆れた。


「慣れが必要です」


「俺には無理だな」


「無理と断定すると、セリオが反応します」


「今も?」


 ジャックがセリオを見る。


 灰色の旗は、ほんの少しだけ遠ざかった。


 ジャックは舌打ちしかけて、止めた。


 止めた。


 それだけで、少し変わった。


「……無理かもしれない、にしておく」


 セリオはそれ以上逃げなかった。


 リリィが口元を押さえる。


「ジャックさんが文法に負けています」


「うるさい」


「これ、全員やるんですか」


 ロイが聞いた。


「全員が言葉を慎重に扱う必要があります。ただし、第七部の場合、ノルさんが中心になるでしょう」


 エリオの視線がノルへ向く。


「夢記録と部誌。セリオは、おそらくそれに反応します」


 ノルは自分の部誌を抱え直した。


「眠っていい?」


「公式戦中に、ですか」


「たぶん」


 エリオは真剣に考えた。


 普通なら、試合中に眠っていいか聞かれた時点で困る。


 でも、リブランは記録の街だ。


 困り方にも根拠を探す。


「競技規則上、意識状態の変化そのものは禁止されていません。ただし、競技区域内での安全確保が必要です」


「寝る場所、いる」


「そうですね」


 ガレスが手を挙げた。


「周りを持つ」


 全員がガレスを見た。


 ガレスは、いつものように少しだけ困った顔をする。


「ノルが寝るなら、ノルを直接持つより、周りを持つ。敷物、遮蔽、足元、水」


「水は何でも入るんですね」


 リリィが言う。


「水は大事だ」


 ガレスは真顔だった。


 でも、今のは本当に大事だった。


 ノルを守るために、ノル自身を抱えて固定するのではない。


 周囲を整える。


 動ける余地を残す。


 それは、セリオの性質にも近い。


 名前を返さない。


 でも、壊されないように守る。


「アルフ」


 俺が呼ぶと、アルフは頷いた。


「一方向結界で、ノルさんの周囲に薄い退避境界を作る。ただし、セリオの経路を遮らないようにする必要がある」


「できる?」


「できる可能性はある」


 アルフが言い直した。


 セリオは逃げない。


 アルフは少しだけ満足そうに見えた。


「レイナは?」


 レイナは自分の手を見る。


「失敗を置く場所を先に決めます。ノルさんが眠るなら、私が最初に判断を間違える役を引き受けてもいい」


「引き受けるって」


「失敗する魔法ですから。なら、どこで失敗するかをこちらで決める方がいい」


 レイナの声は静かだった。


 昔なら、それは自分を責める言い方に聞こえたかもしれない。


 今は違う。


 彼女は失敗を罰としてではなく、配置として扱おうとしている。


「私は、最初の断定を失敗します」


「どういうこと?」


 ネルが聞く。


「わざと強い言葉を出して、セリオの拒否反応を見る。ただし、すぐ取り消す。『今のは断定として失敗』と記録する」


 エリオが驚いた顔をする。


「それは、危険ですが、有効かもしれません」


「危険なら、やりすぎない」


 レイナは頷いた。


「失敗は一度でいい」


 その言葉が、彼女らしかった。


 ネルは腕を組む。


「私は瞬間だけ行く。追うんじゃなくて、逃げ道が変わった瞬間に場所をずらす。触らない」


「非接触」


 俺が言うと、ネルは少し不満そうに笑った。


「ええ。触れないのも、技術ですから」


 ロイは両手を軽く叩き合わせた。


 音は鳴らさない。


「僕は、完成音を封印します」


「封印?」


「はい。『今わかった』って音を出したくなると思うんです。でも、それが終わりにする音なら、セリオは嫌がるかもしれない」


 ロイは自分で言って、少しだけ照れた。


「だから、途中の音にします。五つの小さい音のうち、四つまで」


「最後を鳴らさない?」


「ノルさんがいいと言うまで」


 ノルは眠そうに頷いた。


「最後は重い」


「はい」


 ロイは真面目に返した。


 リリィは両手を広げた。


「私は迷惑召喚を控えめに、ほどよく、品よく、最低限の事故で」


「最後だけ信用できない」


 レイナが言う。


「グレイと迷子一号を使います。グレイは匂い追い、迷子一号は紙を押さえる。紙を押さえるだけなら、旗に触らない」


「石で?」


「石で」


 リリィは当然のように言った。


「紙は軽い。石は重い。世界の基本です」


 グレイがリリィの鞄から顔を出した。


 灰色のふわふわした小さな召喚獣。


 セリオと同じ灰色。


 でも、全然違う。


 セリオの灰色は、読めない灰色。


 グレイの灰色は、頼りない灰色。


 その頼りなさが、最近は少しだけ頼もしく見える。


 セリオがグレイに近づいた。


 グレイは固まった。


 リリィも固まった。


「食べないでください」


 誰に向けたのかわからないお願いだった。


 セリオはグレイの周りを一周する。


 グレイは、ふるふる震えながら、鼻先を動かした。


 匂いを追っている。


 でも、追い切らない。


 セリオが少し離れると、グレイも一歩だけ近づいて、そこで止まる。


「あ」


 リリィが小さく言う。


「グレイ、わかってます」


「何を?」


「追い詰めない匂い追い」


 セリオは逃げなかった。


 グレイはそれ以上進まない。


 弱い召喚獣だから、追い切れない。


 でも今は、その追い切れなさがちょうどよかった。


 完結させない追跡。


 途中で止まれる力。


 それは、セリオに対して有効かもしれない。


 ミラは拳を握ったり開いたりしている。


「私は近づきたいけど、近づきすぎると駄目そう」


「ミラは足場を作るのがいいかも」


 コレットが言った。


「ノルが眠る場所と、ネルが瞬間移動する場所。体を止めるんじゃなくて、体を止めても崩れない場所」


「なるほど」


 ミラは頷いた。


「筋力で場を支える」


「筋力で場を?」


 ジャックが聞く。


「床を踏む。揺れを止める。人が動きやすいように、重心を作る」


「筋力で?」


「筋力で」


 ミラは真剣だった。


 山岳校で、彼女は強化後に止まる弱点を見つめた。


 今は、止まることを失敗だけにしない方法を探している。


 止まることで、誰かの場所になる。


 それもきっと、戦い方だ。


 クララはセリオの布面を見つめている。


「文字が、古代語に近いです。でも、読もうとすると逃げる」


「読める?」


 俺が聞くと、クララは首を横に振った。


「許可がないと無理です」


 少し前のクララなら、読めるところまで読もうとしたかもしれない。


 今のクララは、止まる。


 読めることと、読んでいいことを分けられる。


「セリオ」


 クララが旗に向けて言った。


「一部だけ、読んでもいいですか」


 競技場が静かになった。


 セリオは動かない。


 灰色の布面の文字が、ゆっくり浮かぶ。


 一文字。


 二文字。


 三文字。


 クララが息を整える。


「……名を、閉じるな」


 セリオが揺れた。


 クララはそれ以上読まなかった。


「そこまでです」


 彼女は自分で言った。


 セリオは逃げない。


 読まれて、終わりにされるのが嫌い。


 でも、許可を取り、途中で止まる読み方は拒まない。


 この旗は、勝つための道具というより、こちらの扱いを見ている。


 誰をどう呼ぶか。


 何をどこで止めるか。


 どの空白を空白のまま持てるか。


 リブランの試合は、たぶん、そこを問う。


「ルカ」


 コレットが俺を呼んだ。


「大丈夫?」


「大丈夫、とは言い切れない」


 俺はセリオを見た。


 灰色の細い旗。


 忘れられた名前を守る旗。


 俺の名前を返してはくれない。


 エレナとの記憶を戻してもくれない。


 でも、俺が誰かの背景にされることを、少しだけ嫌がってくれる。


 それは、救いなのか。


 救いと言い切るには、まだ早い。


 ただ、何もないよりはいい。


「俺は、あの旗に触らない方がいい気がする」


 全員が少しだけ黙った。


 触れたら、何かが起きるかもしれない。


 記憶が戻る。


 名前が戻る。


 エレナとの何かが見える。


 そういう期待は、簡単に生まれる。


 でも、期待で旗へ触るのは違う。


 触れば戻ると決めつけることも、空白を勝手に埋めることだ。


「今は、触らない」


 俺は言い直した。


 セリオが、少しだけこちらへ近づいた。


 俺の胸の高さで止まる。


 手を伸ばせば届く。


 でも、伸ばさない。


 風も出さない。


 俺はただ、そこに立つ。


「ルカ・ヴァレン」


 自分の名前を言った。


 セリオは逃げなかった。


「俺は、昔の自分の記憶を持っていない。エレナ・フォルティスの隣にあった名前が、俺だと示す記録はある。でも、それを全部わかったとは言わない」


 喉が詰まる。


 水は、さっき飲んだ。


 まだ大丈夫。


「今の俺は、第七魔法競技部のルカ・ヴァレンだ」


 灰色の旗が揺れる。


 強くはない。


 優しくもない。


 ただ、記録するように。


「昔の俺を、今の俺で上書きしない。今の俺を、昔の俺で消さない」


 言ってから、胸が少し痛んだ。


 自分で言った言葉なのに、重い。


 でも、嘘ではない。


 セリオは一度だけ、俺の周りを回った。


 それからノルの前へ戻る。


 ノルが部誌を開いた。


 眠そうな手つきで、今日の記録を書き始める。


「何て書くの?」


 俺が聞くと、ノルはペンを止めずに答えた。


「灰栞旗セリオ。忘れられた名前を返さない。忘れられた名前を勝手に終わらせない」


 ペン先が紙を滑る。


「ルカは、触らなかった」


「そこも書くのか」


「大事」


「そうか」


「大事」


 ノルはもう一度言った。


 その大事は、少し照れくさくて、少し救われる。


 俺が何かをした記録ではない。


 何かをしなかった記録。


 触らなかった。


 決めつけなかった。


 取り戻すと断定しなかった。


 そういう記録が必要な時もあるのだと、今日初めて思った。


「公式戦の条件をまとめます」


 エリオが言った。


「セリオは、名前を欠いた記録に反応します。役割語へ強く保護反応を示し、断定語に対して逃走経路を変える。根拠、本人確認、保留を含む記録には比較的安定する。追跡は、完結させないこと。接触は、最終手段です」


 最終手段。


 その言葉に、みんなが少しだけ反応した。


 最終手段は、だいたい怖い。


 でも、怖いからこそ最初に使わない。


「勝利条件は通常通り旗への接触。ただし、リブラン側はセリオを守りながら、こちらの断定ミスを誘います」


「言葉の試合か」


 ジャックが言う。


「加えて、移動の試合です」


 エリオは競技区域の床を示した。


「書架の影に潜るセリオを追い、しかし追い詰めない。近づき、しかし閉じない。その距離を保てるかどうか」


「面倒」


 ネルが言った。


「でも、嫌いじゃない」


 ネルがそう続けたので、俺は少し驚いた。


 ネルは照れたように目を逸らす。


「瞬間しか使えない魔法には、途中で止まるって概念が薄いのよ。だから、ちょうどいい練習かもしれない」


 コレットが頷く。


「負け方が少し見えた」


「それ、言っていいやつ?」


 リリィが聞く。


「たぶん。断定じゃないから」


「どんな負け方?」


「誰かが、優しさで終わらせる」


 コレットの声が静かになった。


「ルカの記憶を戻したい。ノルを楽にしたい。エレナを助けたい。そういう優しさで、空白を埋めた瞬間に負ける」


 誰も笑わなかった。


 それは、本当にありそうだった。


 俺たちは、たぶん、悪意よりも優しさで間違える。


 この部は欠陥だらけで、失敗だらけで、誰かを放っておけない人間が多い。


 だから、空白を見ると埋めたくなる。


 眠いノルを休ませたい。


 エレナの本当を見つけたい。


 俺の忘れた記憶を戻したい。


 その気持ちは嘘ではない。


 でも、嘘ではないから危ない。


「じゃあ、作戦は一つだな」


 俺は言った。


 みんながこちらを見る。


「優しさで終わらせない」


 セリオが揺れた。


 逃げない。


 たぶん、悪くない。


 ノルが部誌に書き足す。


「優しさで終わらせない」


「そのまま書くのか」


「大事」


「三回目だ」


「大事は何回でもいい」


 ノルはペンを止めた。


 それから、ふわっとあくびをする。


「眠い」


「寝る?」


 俺が聞くと、ノルは首を横に振った。


「今寝ると、たぶんセリオの夢を見る」


「見たら駄目なのか?」


「駄目じゃない。でも、試合まで少し取っておく」


 眠りを取っておく。


 普通は聞かない表現だ。


 でも、ノルには合っている。


 夢も記録も、使うタイミングがある。


「明日の公式戦では」


 エリオが言った。


「セリオは、今日よりも強く反応します。観察時とは違い、相手校の選手が積極的に言葉を誘導するからです。第七部の皆さんがどこまで保留できるかが、鍵になります」


「保留」


 俺は繰り返した。


 記録。


 確認。


 保留。


 木箱の三つの鍵。


 この街は、保留まで鍵にする。


 すぐに答えを出すことが強さだと思っていた時期がある。


 勝つためには速く判断する。


 名前を呼ぶ。


 旗へ届く。


 でも、ここでは違う。


 保留すること。


 終わらせないこと。


 触らないこと。


 それが、明日の武器になる。


 俺はセリオを見た。


 灰色の栞旗は、補足記録の端に挟まっている。


 そこにあるのは、俺の名前だ。


 でも、俺の全部ではない。


 そこにないのは、俺の記憶だ。


 でも、俺がいなかった証拠ではない。


「ノル」


「ん」


「明日、眠る時は合図してくれ」


「寝ます、って?」


「それでもいい」


「じゃあ、寝ます、って言う」


 ノルは頷いた。


「起きたら?」


「起きました、って言う」


「わかりやすい」


「記録は、わかりやすい方がいい」


 ノルはそう言って、部誌を閉じた。


 ぱたん、と小さな音がした。


 その音に、セリオがわずかに反応する。


 閉じる音。


 でも、終わりの音ではない。


 また開くための音。


 ロイが、口の中で小さく四つだけ音を鳴らした。


 とん。


 とん。


 とん。


 とん。


 五つ目は鳴らさない。


 セリオは逃げなかった。


 ノルは目を細める。


「上手」


 ロイは嬉しそうに背筋を伸ばした。


「ありがとうございます」


 競技場の本棚が、静かに沈黙している。


 たくさんの名前が、この街にはある。


 濃く残った名前。


 薄くなった名前。


 欠けた名前。


 役割に変えられた名前。


 忘れられかけた名前。


 灰栞旗セリオは、それらを全部返してはくれない。


 でも、勝手に終わらせることを拒む。


 俺たちは明日、その旗を追う。


 捕まえるために。


 でも、追い詰めないために。


 名前を取り戻すためではなく。


 名前を壊さないために。


 その距離を、試合の中で見つける。


 リブランの競技場を出る時、ノルが小さく言った。


「忘れたものも、まだ閉じない」


 俺は頷いた。


「ああ」


 セリオは木箱に戻る直前、灰色の先端を少しだけ揺らした。


 それは返事ではない。


 たぶん、記録でもない。


 ただ、まだページが残っているという印みたいだった。


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