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第106話 眠い記録係の孤独

 ノル・フェインは、眠い。


 いつも眠い。


 朝も眠い。


 昼も眠い。


 試合前も、試合後も、誰かが真剣な話をしている時も、だいたい眠い。


 でも、それは怠けているからではない。


 たぶん。


 少なくとも、ノルはそう思っている。


 眠いのは、記録が多いから。


 起きていると、見える。


 見えると、覚える。


 覚えると、重い。


 眠ると、もっと見える。


 それは少し困る。


 だから、ノルはよく眠い。


 眠いと、世界が少し柔らかくなる。


 人の声が遠くなる。


 重い記録も、布に包んだみたいに持てる。


 それでも、リブランの記録は重かった。


 朝の食堂で、ルカの名前を少し守った。


 新聞にはなかった名前。


 補足記録に入れた名前。


 欠落名は空白ではなく、当時存在した選手の痕跡として扱う。


 その一文をエリオが採用してくれた時、ノルは少しだけうれしかった。


 少し守った。


 でも、まだ途中。


 途中の記録は、持ち方が難しい。


 完成していない記録は、端が鋭い。


 抱えると、胸に刺さる。


 だから、ノルは焼き菓子を半分残した。


 あとで食べるため。


 それから、少しだけ自分を未来へ残すため。


 午後、エリオが約束通りフェイン家の筆跡資料を見せてくれた。


 場所は、書庫塔の三階にある小さな筆跡室。


 壁一面に、古い記録係の筆跡見本が並んでいる。


 王立、地方校、軍事校、山岳校、召喚術学院、工房都市、研究校。


 いろんな学校の記録係の字。


 字にも、性格がある。


 まっすぐな字。


 急いでいる字。


 怒っている字。


 泣きそうな字。


 きれいだけど何も触っていない字。


 下手だけど、見たものを離さない字。


 ノルは、それらを眺めた。


 眠い。


 でも、目は閉じない。


「こちらです」


 エリオが、一枚の薄い保存紙を出した。


 古い筆跡見本。


 名前の欄に、フェインの姓がある。


 セリス・フェイン。


 巡業リーグ記録官。


 約四十年前。


 ノルはその名前を見た。


 知っているような気がした。


 でも、思い出ではない。


 家で聞いた昔話の端。


 親戚の誰か。


 記録を持ちすぎて、家に戻らなくなった人。


 そんな曖昧な話。


「たぶん、親戚」


 ノルが言うと、エリオは頷いた。


「筆跡が似ています。特に、名前の最後を少し沈める癖が」


「沈める」


「はい。線の終わりが、紙に少し潜るように見えます」


 ノルは保存紙を見る。


 セリス・フェインの字は、小さい。


 でも、読みやすい。


 ノルの字に似ている。


 嫌なくらい。


 文字の終わりが、紙へ沈む。


 記録へ沈む。


 血筋というものは、こういうところにも出るのかもしれない。


「この人、何を書いたの」


 ノルが聞く。


 エリオは別の資料を出した。


「旗記憶干渉に関する初期記録です。現在の閲覧制限記録につながるものですね」


 黒い布の記録。


 夢で見たもの。


 名前を守れ。


 消さないで。


 伝えるな。


 ノルの眠気が少し薄くなった。


「見られる?」


「一部だけなら。全文は申請中です」


 エリオは慎重だった。


 記録の街の人は、紙を開く時の手つきがゆっくりだ。


 セリス・フェインの記録には、こうあった。


 旗は試合を覚える。


 ただし、旗が覚えるものは、人間の記録と一致しない。


 旗は勝敗よりも、触れた名、こぼれた誓い、忘れられかけた声を長く保持することがある。


 記録係は、旗の記憶をそのまま人へ渡してはならない。


 旗は人の重さを測らない。


 記録係が測る。


 ノルはその文章を読んだ。


 胸が少し痛くなる。


 旗は人の重さを測らない。


 記録係が測る。


 夢の灰色の栞旗が言ったことと似ている。


 伝えるな。


 伝えれば、重くなる。


 それは、記録係が測るべき重さだった。


 セリス・フェインも、同じような場所に立ったのだろうか。


 知ってしまって。


 書いてしまって。


 でも、渡せずに。


 眠くなったのだろうか。


「この人も、眠かった?」


 ノルが聞くと、エリオは少し困った顔をした。


「資料には、よく居眠りをしていたとあります」


 ノルは頷いた。


「同じ」


「ただし、居眠り中にも記録を続けていたとも」


「困る」


「困りますね」


 エリオは少し笑った。


 ノルも少し笑った。


 自分だけではない。


 それは安心でもあり、少し怖くもある。


 同じ血。


 同じ筆跡。


 同じ眠気。


 同じ重さ。


 それなら、自分もいつか家に戻らなくなるのだろうか。


 記録の中に沈んで、起きている世界へ戻るのが面倒になるのだろうか。


 ノルは部誌を抱え直した。


 違う。


 たぶん、違う。


 自分には第七部がある。


 部長がいる。


 水を持ってくるガレスがいる。


 直球で否定するネルがいる。


 完了音を待つロイがいる。


 毒舌適量のリリィがいる。


 失敗を置くレイナがいる。


 終わりを聞くミラがいる。


 境界を見るアルフがいる。


 怒らない努力をするジャックがいる。


 長くなりそうな説明を短くしようとするクララがいる。


 そして、名前が薄くなるルカがいる。


 記録係が戻る場所としては、うるさい。


 でも、悪くない。


「ノルさん」


 エリオが静かに言う。


「この資料は、複写できます。ただし、閲覧制限の関係で一部伏せ字になります」


「ほしい」


「わかりました」


 エリオは手続きを書き始める。


 ノルはその手元を見る。


 エリオの字はきれいだ。


 ページという名前に似合う。


 でも、ノルの字ほど沈まない。


 紙の上を滑る字だ。


 それはそれでいい。


 記録係にも種類がある。


 沈む者。


 滑る者。


 刻む者。


 照らす者。


 ノルは自分が沈む側なのだと、少しだけ受け入れた。


 筆跡室を出ると、廊下でルカが待っていた。


 手袋の指先を握っている。


 最近、よくやる。


 戻り言葉を確認している時の癖。


「終わったか」


 ルカが聞く。


「終わった」


「大丈夫か」


「眠い」


「それはいつもだろ」


「今日は、血筋で眠い」


 ルカは少しだけ目を丸くした。


「何だそれ」


「フェイン家、眠い」


「雑な家系だな」


「記録係の家系」


 ルカは笑った。


 少しだけ。


 昨日より、笑い方が弱い。


 エレナの記事と欠落名の補足記録が、まだ彼の中に残っている。


 ノルにはわかる。


 見える。


 見えてしまう。


 だから、すぐに全部を渡してはいけない。


 でも、渡さなすぎてもいけない。


 記録係は、面倒だ。


「ルカ」


 ノルは呼んだ。


「何」


「まだ、持ってる」


 ルカの顔が少しだけ硬くなる。


 でも、逃げない。


「昨日の続きか」


「うん」


「今は?」


「まだ」


 ルカは息を吐いた。


 怒らない。


 急かさない。


 昨日、そう決めたから。


「わかった」


 その言葉で、ノルの胸が少しだけ軽くなった。


 でも、完全には軽くならない。


 持っているものは、まだある。


 エレナが忘れてほしくないもの。


 消さないでと言ったもの。


 ルカに渡すには、まだ形が足りない。


 ノルは部誌を抱えた。


「ごめん」


「謝るな」


「でも」


「待つって言った」


 ルカは少し困ったように笑った。


「たぶん、俺も待つ練習が必要なんだろ」


 ノルは頷いた。


「私も、渡す練習」


「お互い面倒だな」


「うん」


 それで会話は終わった。


 短い。


 でも、足りている。


 午後、第七部はリブラン記録魔法学院の小さな閲覧訓練室で、公式戦前の基礎練習をした。


 次の対戦はまだ数日先。


 相手校の旗は、忘れられた名前を守る性質を持つらしい。


 詳細はまだ伏せられている。


 ただ、記録の街らしく、試合そのものより事前照合が多い。


 コレットは負け筋を見ようとして、何度か目を押さえた。


 リブランの旗は、負け筋の見え方も少し違うらしい。


 ネルは紙片を使った軌道変更の練習。


 ロイは図書室で鳴らしていい音量の確認。


 ガレスは破れた資料箱を直している。


 リリィはグレイを静かにさせる練習。


 レイナは古い展示床で失敗を置く場所を探し、エリオに怒られかけていた。


 ミラは本棚の荷重を見ている。


 アルフは閲覧室の境界線を観察している。


 ジャックは「燃やすな」と三回言われて、かなり不満そうだった。


 クララは古代旗の資料を前に、無言で震えている。


 みんな、それぞれの仕事をしている。


 ノルは部屋の隅で、記録を書く。


 誰がどこに立っているか。


 誰が何を言ったか。


 誰が言わなかったか。


 ルカが水を飲んだ回数。


 ロイが音を出さなかった回数。


 リリィの毒舌が適量だったかどうか。


 ジャックが怒らなかった時間。


 記録することは多い。


 くだらないことも多い。


 でも、くだらない記録も残しておくと、あとで人を救うことがある。


 ロイの完了音がそうだった。


 ガレスの水がそうだった。


 リリィの「迷惑ではなかった」がそうだった。


 記録の価値は、書いた時点ではわからない。


 だから、ノルは書く。


 眠くても。


 重くても。


 全部は渡せなくても。


 書く。


 夕方、コレットがノルの隣に座った。


「ノルさん」


「はい」


「フェイン家の資料、どうでしたか」


 ノルは少し考えた。


「似てた」


「筆跡が?」


「眠さも」


 コレットは少し笑った。


「それは資料に?」


「あった」


「本当に」


「居眠りしてたって」


 コレットは笑いをこらえきれなかった。


 部長が小さく笑う。


 ノルはそれを見て、少しだけ嬉しくなった。


 人が笑う記録は、いい。


 重い記録ばかりでは、紙が沈みすぎる。


「でも」


 ノルは続けた。


「旗は人の重さを測らない。記録係が測るって書いてあった」


 コレットの表情が真面目になる。


「重い言葉ですね」


「うん」


「一人で測りますか」


 ノルは首を横に振る。


「みんなで、周りを持つ」


「はい」


 コレットは記録板を開いた。


「その言葉、書いていいですか」


「いい」


 コレットが書く。


 旗は人の重さを測らない。記録係が測る。


 ただし、第七部では周りを持つ。


 ノルはその一文を見て、少しだけ息を吐いた。


 少し軽い。


 完全ではない。


 でも、少し軽い。


 夜、ノルは部誌を開いた。


 今日の最後の記録を書くため。


 リブラン補足記録。


 エレナの濃い名前。


 ルカの欠けた名前。


 フェイン家の筆跡。


 セリス・フェイン。


 旗は人の重さを測らない。


 記録係が測る。


 そこまで書いて、ノルはペンを止めた。


 最後に、一行だけ足す。


 記録係は孤独だけど、孤独のまま働く必要はない。


 少し照れくさい。


 自分で書いたのに、少し変だと思う。


 でも、消さない。


 消すと、たぶんまた一人で持つことになる。


 部誌を閉じる。


 今日は、その合図で止める必要はない。


 ただ、終わり。


 ロイが近くにいなかったので、完了音はない。


 でも、廊下の向こうから小さく、コン、と音がした。


 偶然かもしれない。


 ロイが練習しているのかもしれない。


 どちらでもよかった。


 ノルは少し笑った。


「完了」


 そう呟いて、部誌を枕元に置く。


 今日も夢を見るかもしれない。


 灰色の栞旗が来るかもしれない。


 エレナの声がまた聞こえるかもしれない。


 ルカの読めない名前が、また沈んでいるかもしれない。


 怖い。


 でも、少しだけ大丈夫。


 一人で持つとは言っていない。


 ノルは目を閉じた。


 眠い。


 いつも通り眠い。


 でも、今日は少しだけ、眠る場所がある眠さだった。


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