第105話 忘れられない名前
リブランの朝は、新聞の音で始まる。
本の街なのに新聞なのか、と少し思ったが、考えてみれば当然だった。
記録の街は、昨日のことを今日の紙にする。
宿舎の入口に、朝刊が束で届いていた。
紙は薄く、インクは新しい。
古い記録の匂いとは違う。
今まさに残されようとしている匂いだ。
ロイが一部を手に取って、目を丸くした。
「エレナさん、載ってます」
その名前で、食堂の空気が少し止まった。
俺は水を飲んでいた。
ガレスが置いてくれた水だ。
喉が、すぐに細くなる。
ロイは慌てて口を押さえる。
「すみません」
「いや」
俺は新聞へ目を向けた。
一面ではない。
でも、かなり大きい。
王立代表候補、最終選抜へ。
エレナ・フォルティス、無敗記録継続。
完璧な旗守備と冷静な判断。
レガリアの白銀の星。
見出しが並んでいる。
写真もある。
今のエレナだ。
旧代表候補選抜戦の展示写真より、少し大人びている。
背筋は変わらない。
視線もまっすぐ。
周りから向けられる期待を、当然のように受け止めている顔。
新聞の中の彼女は、誰から見ても忘れられない存在だった。
エレナ・フォルティス。
大きく印刷された名前。
黒く、濃く、はっきりと。
俺の欠けた名前とは、あまりにも違った。
ノルは新聞を見て、少しだけ目を細めた。
「濃い」
「名前が?」
俺が聞くと、ノルは頷く。
「濃すぎる」
リリィが別の新聞を覗き込む。
「濃い名前。濃縮エレナさんですね」
「茶化すな」
レイナが言う。
リリィは肩をすくめた。
「茶化さないと、紙面に圧迫されます」
それは少しわかる。
新聞の中のエレナは、圧がある。
本人がそうしたいかどうかとは別に、周囲が彼女を大きく印刷している。
忘れられない人。
誰からも忘れられないが、本当の自分を誰にも認識されない。
その欠陥を知っているから、この紙面は少し怖い。
名前が濃くなるほど、本心が見えなくなる。
「記事、読みますか」
コレットが聞いた。
俺は少し迷った。
読みたい。
読みたくない。
昨日、俺は「俺は、彼女を忘れない」と記録に残していたことを知った。
今、その彼女が、新聞で大きく報じられている。
俺は彼女を忘れている。
でも、世間は彼女を忘れない。
なんて嫌な対比だ。
「読む」
俺は言った。
コレットは頷き、新聞を机の中央へ置いた。
みんなが少しだけ距離を取る。
でも、離れすぎない。
水差しは近い。
ノルは部誌を膝に置いている。
昨日決めた手順が、まだ残っている。
記事には、エレナの最近の試合成績が並んでいた。
王立レガリア魔法学院、代表候補リーグ全勝。
旗守備成功率、最高値更新。
対戦校主将のコメント。
連盟関係者の評価。
どれも、彼女を完璧に見せる言葉だ。
冷静。
誇り高い。
隙がない。
勝利のために迷わない。
そして、一つの見出しがあった。
過去に有望選手を破った試合から成長。
俺はそこで止まった。
有望選手。
名前は出ていない。
記事本文にも、名前はない。
王立レガリア旧代表候補選抜戦で、当時注目されていた風使いを破ったことでも知られる。
それだけ。
風使い。
名前なし。
俺は彼女を忘れないと言った。
記録では名前が欠けていた。
新聞では、最初から名前がない。
有望選手。
風使い。
エレナの成長の背景。
俺は、そういう形で使われている。
俺の名前ではなく、彼女を飾る過去として。
胸の奥が熱くなる。
怒りか。
悲しさか。
悔しさか。
たぶん全部だ。
ガレスが水を少し近づけた。
俺は飲まなかった。
まだ聞ける。
まだ読める。
ノルが言う。
「名前、ない」
「そうだな」
「でも、形はある」
記事の中に、俺の名前はない。
でも、風使いという形はある。
有望選手という形はある。
エレナの過去として、俺がいた形だけが残っている。
空白ではない。
でも、名前ではない。
その半端さが、ひどく痛い。
レイナが新聞を睨む。
「失礼な記事ですわね」
リリィが言う。
「新聞は失礼なものです。紙面の都合という名の刃物を持っています」
「詳しいですわね」
「毒舌にも紙面がありますので」
ネルが短く言う。
「ルカの名前、書けばいいのに」
「新聞が?」
「うん」
「書けないんだろ」
俺は言った。
思ったより冷たい声だった。
「忘却干渉か、レガリア側の都合か、記事の都合か。理由はわからない。でも、書けない」
コレットが記録板を開く。
「書いていいですか」
俺は頷いた。
リブラン朝刊。
エレナ・フォルティス、王立代表候補として大きく報道。
旧代表候補選抜戦に関する記述あり。
ルカと思われる人物は「当時注目されていた風使い」「有望選手」とのみ記載。
名前なし。
本人、強い動揺。
コレットのペンが止まる。
彼女は最後の一行を俺に見せた。
本人、強い動揺。
俺は少し笑った。
「事実だな」
「はい」
「書いていい」
コレットは頷き、そのまま残した。
ノルは部誌を開いた。
新聞の切り抜きを貼るわけではない。
まだ貼らない。
まず、自分の言葉で書く。
エレナの名前は濃い。
ルカの名前はない。
でも、風使いの形がある。
名前がない形は、痛い。
俺はその文章を見て、少し息を吐いた。
ノルの記録は、時々こちらが言葉にできないものを先に置く。
痛い。
でも、助かる。
エリオが食堂にやってきたのは、その少し後だった。
彼も新聞を持っている。
俺たちの空気を見て、何が話題になっているかすぐに察したようだった。
「朝刊、ご覧になりましたか」
コレットが頷く。
「はい」
エリオは少し申し訳なさそうな顔をした。
「リブランでは、新聞記事も当日中に学院記録へ編入されます。必要であれば、カルミア側の補足記録を添付できます」
「補足記録」
俺が繰り返す。
「はい。記事では名前が出ていない人物について、関係者の証言や閲覧記録に基づく注記を学院側保管用に残すことができます。公開記事そのものは変えられませんが、リブランの記録では『名前なし』のまま放置しない方法があります」
名前なしのまま放置しない。
その言葉が、少しだけ胸に入った。
新聞は変えられない。
世間の紙面は、俺を有望選手としか書かない。
でも、リブランの記録には補足をつけられる。
完全な修復ではない。
でも、足場だ。
「できますか」
コレットが聞く。
エリオは頷く。
「はい。ただし、当事者と思われるルカさんの同意、記録係であるノルさんの署名、部長であるコレットさんの確認が必要です」
ノルが部誌を抱え直す。
「やる」
早い。
俺はノルを見る。
「いいのか」
「名前、守る」
短い答え。
昨夜の夢の言葉。
名前を守れ。
ノルはそれを、自分の仕事として受け取っている。
俺は新聞を見る。
エレナの濃い名前。
俺のない名前。
指先が少し震える。
「俺も、お願いします」
エリオは丁寧に頷いた。
「では、午後に補足記録室をご案内します」
その日の午前、リブランの街にはエレナの名前が増えていた。
駅前の掲示板。
書店の速報紙。
学院の情報板。
王立代表候補最終選抜。
エレナ・フォルティス。
白銀の星。
冷静な勝者。
完璧な旗守備。
どこを歩いても、その名前がある。
忘れられない。
本当に忘れられない。
名前が街の中に何度も貼られている。
でも、そのたびに俺は考える。
本当の彼女は、どこにいるのか。
この大きな名前の中に、彼女本人はいるのか。
それとも、俺の名前が欠けているのと同じように、彼女の本心も欠けているのか。
ノルは掲示板の前で立ち止まった。
新聞の見出しを見上げる。
「濃い名前も、隠す」
「何を」
俺が聞く。
「本人」
ノルは小さく言った。
その言葉に、俺は何も返せなかった。
エレナの欠陥。
誰からも忘れられないが、本当の自分を誰にも認識されない。
ノルは、それをまだ詳しく知らない。
でも、記録の街で、名前が濃すぎることの怖さを見ている。
濃い名前も、本人を隠す。
欠けた名前も、本人を隠す。
記録は残す。
でも、記録がそのまま人ではない。
そのことが、この街では何度も突きつけられる。
午後、補足記録室に入る前に、俺は少しだけ足を止めた。
扉には小さな札がある。
公開記録補足室。
公開されたものに、あとから脚注をつける場所。
少し地味だ。
でも、今の俺にはかなり重要な場所だった。
エリオが扉を開ける。
中には、細長い机と、注記用の薄い紙が並んでいる。
壁には、過去の補足例がいくつか掲示されていた。
名前誤記。
旗名変更。
判定理由の追記。
観客報告との照合。
記録欠落の暫定注記。
俺たちは机につく。
エリオが朝刊の記事を置く。
その横に、昨日閲覧したレガリア旧代表候補選抜戦の写し。
さらに、ノルの部誌。
コレットの記録板。
「補足文は、簡潔である必要があります」
エリオが言う。
「公開新聞に対する学院保管用注記なので、断定できないことは断定しません。ただし、欠落を欠落のまま示します」
ノルが頷く。
「空白ではない」
「はい」
エリオは少し笑った。
「その表現、良いですね」
ノルは少しだけ照れたように目を伏せた。
補足文を考える。
コレットがまず案を書く。
記事中の「当時注目されていた風使い」について、リブラン保管資料ではルカ・ヴァレンの可能性が高い欠落名簿が確認されている。
旧代表候補選抜戦において、同人物はエレナ・フォルティスと隣接記録され、記録旗ミネリアに風属性反応および欠落契約様反応を残している。
本人記憶なし。
最後の一行で、俺は少し顔をしかめた。
「本人記憶なし、いるか」
コレットはペンを止める。
ノルが言った。
「いる」
「どうして」
「記録だけ読むと、ルカが知ってるみたいになる」
俺は黙った。
確かに。
記録に名前がある。
証言がある。
でも、俺は覚えていない。
そこを消すと、今の俺が消える。
過去の俺だけが残る。
それは違う。
「入れてくれ」
俺は言った。
コレットは頷く。
リリィが覗き込む。
「でも、少し硬いですね。本人記憶なし、だけだと、役所の棚みたいです」
エリオが少し困った顔をする。
「学院保管用なので、ある程度硬くなります」
「では、硬いまま少し人間にしましょう」
リリィは案を出した。
本人は当該記憶を保持していない。
ただし、現在の本人確認のもと、補足記録を許可。
コレットが頷く。
「良いと思います」
俺も頷く。
本人は当該記憶を保持していない。
それはきつい。
でも、現在の本人確認のもと、補足記録を許可。
今の俺が、過去の俺の欠落へ脚注をつける。
それは少しだけ、取り戻す行為に似ている。
ノルが最後に一文を足した。
欠落名は空白ではなく、当時存在した選手の痕跡として扱う。
エリオはそれを見て、深く頷いた。
「採用できます」
ノルは少しだけ目を開けた。
「ほんと?」
「はい。リブランの補足記録として、非常に適切です」
ノルは部誌を抱え直した。
少しだけ、誇らしそうだった。
補足記録に署名する。
コレット。
ノル。
俺。
ルカ・ヴァレン。
自分の名前を書く時、少し手が重かった。
でも、書けた。
新聞には名前がない。
でも、リブランの補足記録には、俺の名前がある。
記憶はない。
でも、現在の俺が許可した記録がある。
それは、完全な解決ではない。
ただ、名前なしのまま放置しないという、小さな抵抗だった。
補足記録室を出ると、ノルがふらりと壁にもたれた。
ガレスがすぐに水を出す。
ノルは受け取る。
「夢労働手当」
リリィが言う。
「水だけですが」
「甘いものも」
ノルが要求した。
珍しい。
ガレスが頷く。
「探す」
ロイが手を上げる。
「俺、駅前で焼き菓子見ました」
「行く」
ノルが即答した。
みんなが少し笑った。
重い記録のあとに、甘いものを買いに行く。
それは不謹慎ではない。
むしろ、必要なことのように思えた。
夕方、駅前の掲示板には、まだエレナの名前が大きく貼られていた。
俺はそれを見上げる。
濃い名前。
忘れられない名前。
その横に俺の名前はない。
でも、リブランのどこかに、補足記録が一枚増えた。
欠落名は空白ではなく、当時存在した選手の痕跡として扱う。
その一文がある。
ノルが隣で焼き菓子を食べながら言った。
「少し守った」
「名前を?」
「うん」
「ありがとう」
ノルは眠そうに頷いた。
「まだ、途中」
「そうだな」
「エレナの名前、濃い」
「うん」
「でも、濃い名前も守る必要あるかも」
俺は掲示板を見る。
エレナ・フォルティス。
大きく、濃く、誰もが忘れない名前。
その名前の中に、彼女本人が隠れているのなら。
たしかに、彼女の名前も守る必要があるのかもしれない。
忘れられるものだけが、守る対象ではない。
忘れられないことで隠れるものもある。
ノルは焼き菓子を半分食べて、残りを包んだ。
「あとで食べる」
「珍しく計画的だな」
「記録係だから」
それは関係あるのか。
でも、ノルが少しだけ元気そうだったので、何も言わなかった。
その夜、部誌に新しい紙が挟まれた。
リブラン補足記録の写し。
新聞の切り抜き。
ノルの手書きの一文。
濃い名前も、欠けた名前も、人そのものではない。
だから、記録係は、名前の奥を見る。
俺はその一文を読んだ。
ノルは眠そうにしている。
でも、今日の彼女は、ただ眠いだけではなかった。
名前を少し守った記録係の顔をしていた。
戻り言葉は、ルカ。
胸の中で確認する。
その名前は、新聞にはなかった。
でも、補足記録にある。
部誌にある。
俺の中に、まだある。
完全ではない。
でも、昨日より少しだけ、紙の上で濃くなった。




