第102話 夢に沈む記録係
ノル・フェインは、夢の中でも眠そうだった。
それを本人がどう感じているのかはわからない。
あとで聞いたら、たぶん「夢でも眠い」と答える。
でも、その夜のノルは、眠ったまま記録の底へ落ちていった。
最初に見えたのは、駅の年表だった。
カルミア魔法学園。
ルミナリア。
グライフ山岳魔法学校。
クレストフォール召喚術学院。
王立レガリア魔法学院。
名前が縦に並び、年月日が横へ伸びる。
勝ち。
負け。
判定。
無効。
事故。
未解決。
文字が階段みたいに続いている。
ノルはその上を歩いていた。
足元は紙だ。
でも沈まない。
いや、少し沈む。
紙の下に、もっと古い紙があり、その下にも紙がある。
記録の層。
勝った足跡。
負けた足跡。
旗が逃げた足跡。
取られた足跡。
誰かが泣いたかもしれない足跡。
昼間、自分が言った言葉が、夢の中で床になっている。
「多い」
ノルは夢の中で言った。
声が眠い。
でも、夢は返事をした。
多いから、沈む。
誰の声かはわからない。
旗の声にも、紙の声にも、古い司書の声にも聞こえた。
「沈むと、眠い」
ノルが言う。
眠ると、見る。
「見ると、書く」
書くと、残る。
「残ると、重い」
重いから、誰かが持つ。
夢の声は、山の言葉に少し似ていた。
荷を持つ。
道を背負う。
でも、リブランの夢では、背負うものが紙だった。
ノルは歩く。
年表の階段が終わると、展示回廊に出た。
昼間見た回廊だ。
両側に棚。
古い旗の欠片。
破れた防具。
試合球。
選手名簿。
切符。
ただし、夢の中では全部が少しだけ動いていた。
旗の欠片は息をする。
防具の破れ目は、まだ痛そうに開いている。
試合球は床の上で、転がる前の記憶を抱えて震えている。
選手名簿の文字は、時々名前を入れ替える。
ノルは名簿の前で止まった。
名前がある。
名前が消える。
また出る。
消えた場所だけ、紙が少しへこんでいる。
空白ではない。
誰かがいた形をしている。
「忘れられた跡」
ノルは呟いた。
紙のへこみが、答えた。
忘れたのは誰。
「本人」
誰が忘れた。
「周り」
誰が残した。
「記録係」
誰が読める。
ノルは少し考えた。
「たぶん、私」
紙のへこみが、ふっと深くなった。
その中から、小さな旗が出てきた。
見たことのない旗だった。
色は灰色。
形は本の栞に似ている。
布ではなく、薄い紙でできているように見える。
端が少し破れていて、そこから細い文字がほどけている。
ノルはそれを見た。
「あなた、誰」
旗は答えなかった。
代わりに、ほどけた文字が床に落ちる。
未解決。
欠落。
名簿不一致。
旗記憶干渉。
「長い」
ノルは言った。
旗は少しだけ揺れた。
笑ったのかもしれない。
夢の旗は、言葉ではなく展示札で返事をする。
ノルはしゃがんで、落ちた文字を拾おうとした。
触れない。
夢だからか、記録だからか。
文字は指の間をすり抜ける。
記録は触れない。
でも、読むことはできる。
「読めば、持ったことになる?」
旗はまた揺れた。
今度は、床に別の文字が落ちる。
持つ者は、重くなる。
ノルは頷いた。
「知ってる」
記録係は、軽くない。
眠そうにしているのは、たぶん重さから逃げるためでもある。
ノル本人がそう言ったわけではない。
でも、夢の中では少しだけわかる。
たくさん覚える。
たくさん見る。
たくさん書く。
それは、起きていると重すぎる。
だから眠い。
眠ると、また見る。
困った循環だ。
夢の回廊が揺れた。
灰色の栞旗が奥へ進む。
ノルはついていく。
次に現れたのは、鉄の旗だった。
軍事校の鉄旗。
命令に忠実な獣の形。
夢の中の鉄旗は、展示棚の中でじっとしていた。
鎖がついている。
鎖の先には、命令札が何枚もぶら下がっていた。
止まれ。
守れ。
動くな。
奪われるな。
従え。
ノルは鉄旗の前に立つ。
「久しぶり」
鉄旗は、鎖を少し鳴らした。
命令は残る。
「孤独も?」
鎖がもう一度鳴る。
命令された旗の孤独。
ノルは以前、夢でそれを聞いた。
その記録が、夢の中でも重なる。
鉄旗の足元に、カルミアの敗北記録が落ちている。
負け。
でも、傷をつけた。
命令系統を揺らした。
ノルはそれを読む。
「負けても、残った」
鉄旗は鎖を鳴らす。
残ることは、勝ちではない。
「知ってる」
でも、なかったことでもない。
ノルは頷いた。
次に、白い鳥が飛んだ。
ルミナリアの白旗。
礼節と名誉に敏感な白い鳥。
夢の中の白旗は、失敗の円の上に立っていた。
レイナが置いた一度目の失敗。
ネルの一瞬魔法。
ロイの声援の手前の音。
白旗はノルを見て、羽を整えた。
失敗は消さない。
「置く」
ノルが言う。
置くと、踏める。
「レイナが言いそう」
白旗が少しだけ首を傾げる。
夢の中でも、白旗は上品だった。
その足元に、初勝利の記録がある。
カルミア勝利。
白旗滞在。
不揃いな庭。
ノルは記録を読む。
嬉しかった。
でも、読みながら思う。
嬉しい記録も重い。
勝った記録は、次も勝たなければという顔をする。
だから記録は、勝敗だけでは足りない。
「誰が、どういたか」
白旗が羽を広げる。
その羽の下に、レイナの名前があった。
第七魔法競技部のレイナ・オルコット。
ノルはその名前を見て、少しだけ笑った。
次に、赤い尾が走った。
崖旗ルベオ。
山岳校の崖旗。
赤い尾だけが、夢の回廊を横切る。
ノルは追わない。
追えば落ちる。
待てば来ない。
呼べば逃げる。
逃げると追ってくることがある。
夢の中でも、それは同じだった。
ルベオは棚の上に立ち、ノルを見下ろす。
背負う者。
「好き」
届く荷。
「見る」
軽い足。
「嫌い」
沈む足。
「嫌い」
戻る重い足。
「見る」
ノルは前に聞いた言葉を繰り返す。
ルベオは満足そうに尾を揺らした。
足元には、ミラの記録がある。
カルミア魔法学園 第七魔法競技部。
山岳地方出身。
どっちも書いてください。
ノルはその記録を読む。
混ざったままで残る。
それは、記録の強さだ。
どちらかに整理しなくてもいい。
次に、小さな白い羽が落ちた。
綿羽旗フィーニス。
夢の中でも羽を整えている。
その周りには、迷子一号の石と、灰色のグレイがいた。
グレイはぷるぷるしている。
迷子一号は動かない。
フィーニスは嫌そうに羽を膨らませる。
でも、攻撃しない。
境界を見せる。
ノルはグレイを見る。
「弱い」
グレイが震える。
ノルは言い直す。
「悪口じゃない」
グレイがもう一度震える。
フィーニスの足元には、リリィの本人確認欄があった。
迷惑ではなかった。
ノルはその一文を読む。
短い。
でも、重い。
リリィの毒舌より短いのに、ずっと重い。
記録は、長さではない。
書く人が何を置いたかだ。
フィーニスが羽を一枚落とす。
白い羽は、グレイの上に落ちず、少し横に落ちた。
拒絶でも、受容でもない。
境界。
「境界は、忘れないため?」
ノルが聞く。
フィーニスは答えない。
ただ、羽を整える。
ここから先は清潔。
ここから外は不明。
境界があるから、違いが残る。
ノルはそれを少し理解した。
全部を混ぜると、消える。
分けすぎると、閉じる。
記録も同じだ。
その時、灰色の栞旗が戻ってきた。
夢の回廊の奥を指す。
そこに、黒い布のかかった展示があった。
昼間、ノルが見た閲覧制限記録。
旗が記憶を持つことに関わる古い事故記録。
学院側の許可が必要。
でも、夢は許可を待たない。
黒い布が少し揺れる。
ノルは近づいた。
布に触れようとして、指が止まる。
「まだ?」
灰色の栞旗が揺れる。
まだ。
「明日?」
たぶん。
夢は、全部を見せない。
記録にも順番がある。
ノルは少しだけ不満そうに目を細めた。
眠そうな不満。
黒い布の下から、声がした。
名前を守れ。
ノルは息を止めた。
名前を守れ。
もう一度。
声は旗のものか、人のものか、紙のものかわからない。
ただ、聞こえた。
ノルは部誌を探す。
夢の中でも、部誌が腕の中にある。
ページを開く。
文字を書こうとする。
でも、ペンがない。
代わりに、床からほどけた文字が浮かぶ。
名前を守れ。
忘れられた跡は、空白ではない。
誰かがいた形をしている。
ノルはその二つを、部誌のページに押しつけるように覚えた。
次に、回廊が変わった。
王立レガリアの展示写真。
旧代表候補選抜戦。
エレナ・フォルティスの名前。
かすれたもう一つの名前。
昼間見た写真が、夢の中では少しだけ鮮明だった。
エレナの影。
隣にいる少年の影。
顔は見えない。
でも、姿勢がルカに似ている。
いや、ルカそのものかもしれない。
ノルは写真に近づく。
かすれた名前を見る。
ル、のような線。
カ、のような欠け。
でも、読めない。
読もうとすると、文字が薄くなる。
忘却の跡。
ノルは唇を噛んだ。
夢の中でも、少しだけ苛立った。
「読めない」
写真の中のエレナが、こちらを見た。
夢だからだ。
写真なのに動く。
エレナの口が動く。
でも、声は聞こえない。
かわりに、説明札の文字が一行増えた。
勝者は忘れられない。
敗者は忘れられる。
ノルは眉を寄せる。
「違う」
何が違うのか、自分でもすぐにはわからない。
でも、違う。
エレナは忘れられない人。
ルカは忘れていく人。
勝者と敗者だけで片づけると、何かが間違う。
写真の中のエレナは、もう一度口を動かした。
今度は少しだけ聞こえた。
消さないで。
ノルは息を吸った。
エレナの声か。
写真の声か。
旗の声か。
わからない。
ただ、消さないで、という言葉は残った。
ノルは部誌を開く。
またペンがない。
でも、今度は指でページをなぞる。
消さないで。
文字は書けない。
それでも、なぞった場所に少しだけ跡が残る。
夢の記録。
起きたら消えるかもしれない。
だから起きなければ。
ノルはそう思った。
でも、夢はまだ終わらない。
灰色の栞旗が、写真の下から別の紙を引き出した。
古い名簿。
王立レガリア代表候補選抜戦。
出場者名。
エレナ・フォルティス。
その下に、かすれた名前。
インクが薄い。
でも、完全には消えていない。
ノルは目を凝らす。
読めない。
読めないが、名前の形がある。
空白ではない。
誰かがいた形。
ノルは手を伸ばす。
今度は、文字に触れた。
冷たい。
紙の上のインクなのに、水みたいに冷たい。
触れた瞬間、夢の回廊が揺れた。
たくさんの旗の声が重なる。
命令は残る。
失敗は置く。
重い足は戻る。
迷惑ではなかった。
名前を守れ。
消さないで。
ノルは耳をふさぎたくなった。
でも、夢の中で耳をふさぐと、声ではなく文字が目に入る。
多い。
多すぎる。
沈む。
記録に沈む。
ノルは部誌を抱えた。
重い。
部誌が重い。
紙の束なのに、山の荷物より重い。
でも、誰かが持たなければならない。
持つ者は、重くなる。
「知ってる」
ノルは夢の中で言った。
声が少し震えた。
「でも、一人で持つとは言ってない」
その言葉が出た瞬間、夢の回廊に第七部の音が少しだけ入った。
ロイの完了音。
コン。
ガレスの水筒が置かれる音。
ネルの短い「違う」。
コレットのペンが紙を滑る音。
リリィの毒舌。
レイナが失敗を宣言する声。
ミラの「終わり」。
アルフの「帰路限定」。
ジャックの不満そうな舌打ち。
ルカの戻り言葉。
ルカ。
夢の中で、その名前だけが少しだけ明るくなった。
ノルはかすれた名簿を見る。
読めない名前の上に、明るい音が重なる。
ルカ。
完全には戻らない。
でも、形が少し濃くなる。
ノルは息を吸った。
起きなきゃ。
今、起きなきゃ。
そう思った瞬間、灰色の栞旗がノルの前に立った。
最後に、文字を一つ落とす。
伝えるな。
ノルは止まった。
「え」
伝えるな。
文字はもう一度落ちる。
伝えれば、重くなる。
「誰が」
ルカ。
「でも、言わないと」
壊れる。
ノルは眉を寄せた。
伝えても重い。
伝えなくても、消える。
どっちも嫌だ。
記録係は、そういう場所に立つのかもしれない。
知ってしまう。
書いてしまう。
でも、伝えるかどうかは別の重さ。
灰色の栞旗は、黒い布のほうへ戻っていく。
ノルは追おうとした。
足が紙に沈む。
沈む。
夢が重い。
部誌が重い。
名前が重い。
その時、遠くから声がした。
「ノルさん」
コレットの声。
起きている世界の声。
「ノル」
俺の声も聞こえた。
水の杯が置かれる音。
ガレスだ。
ノルは夢の中で部誌を抱きしめた。
「起きる」
灰色の栞旗が揺れる。
また来る。
「たぶん」
ノルはそう答え、目を開けた。
部屋は朝ではなかった。
まだ夜だ。
灯りがついている。
コレットが枕元にいる。
俺もいる。
ガレスが水を持っている。
ノルは息をしている。
少し速い。
いつもの眠そうな顔ではない。
「大丈夫か」
俺が聞く。
ノルは少し考えた。
「多い」
「夢?」
「記録」
コレットが静かに聞く。
「書けますか」
ノルは頷いた。
でも、すぐに首を横に振る。
「全部は、だめ」
「だめ?」
「伝えると重い」
俺の胸が少しざわつく。
ノルは俺を見た。
眠そうではない目で。
「ルカの名前、あった」
喉が乾く。
ガレスが水を渡す。
俺ではなく、ノルへ。
ノルは水を飲む。
「読めなかった。でも、形があった」
コレットがペンを持つ。
「書いていいですか」
ノルは頷く。
「それは、いい」
「それは?」
「他は、まだ」
コレットは無理に聞かなかった。
人を先に見る。
それから記録に使う。
彼女はそれを守った。
ノルは部誌を開き、小さな字で書いた。
夢。
リブラン展示回廊。
灰色の栞旗。
忘れられた跡は、空白ではない。
ルカの名前らしき形あり。読めず。
エレナ・フォルティスの写真記録と隣接。
名前を守れ。
消さないで。
そこまで書いて、ノルは手を止めた。
ペン先が震えている。
俺はその文字を見た。
ルカの名前らしき形あり。
読めず。
胸の奥が冷たくなる。
でも、同時に少しだけ、足場ができた気もした。
完全に消えてはいない。
形がある。
忘れられた跡は、空白ではない。
「ノル」
俺が呼ぶ。
「何」
いつもの声に少し戻っている。
「ありがとう」
ノルは目を半分閉じた。
「まだ、言ってないことある」
「今じゃなくていい」
自分で言って、少し怖かった。
知りたい。
でも、今すぐ聞いたら壊れるものがあるのかもしれない。
ノルはそれを夢で見た。
伝えると重い。
なら、重さを測る時間がいる。
ノルは小さく頷いた。
「記録係、難しい」
「そうだな」
「眠い」
「寝るのか」
「寝る」
また寝るのか。
でも、ノルらしい。
コレットが部誌をそっと閉じる。
「部誌は預かりますか」
ノルは首を横に振った。
「持つ」
「重くないですか」
「重い」
「では」
「でも、今は持つ」
コレットは頷いた。
ノルは部誌を抱え、また横になった。
眠る前に、ぽつりと言う。
「一人で持つとは言ってない」
それは夢の中で彼女が言った言葉だったのか。
それとも、今のノルの言葉なのか。
俺にはわからなかった。
でも、部屋の中にいた全員が、その言葉を聞いた。
水の杯が机に置かれる。
コレットのペンが止まる。
リブランの夜は、まだ深い。
書庫塔の灯りが窓の外で揺れている。
忘れた名前は、どこかに落ちている。
ノルはそれを夢で拾いかけた。
まだ、全部は拾えない。
でも、空白ではないとわかった。
それだけで、俺は少しだけ息ができた。
戻り言葉は、ルカ。
胸の中で確認する。
今夜、その名前は少しだけ濃く聞こえた。




