第103話 読めない名前の隣に
朝になっても、ノルは眠そうだった。
当たり前だ。
夜中にあれだけ重い夢を見て、部誌に文字を書いて、それからまた眠ったのだから。
ただ、いつもの眠さとは少し違った。
いつものノルは、眠気をまとっている。
今日のノルは、記録に引っ張られているように見えた。
部誌を抱えた手が、少しだけ強い。
目は半分閉じているのに、周りの文字だけはよく見ている。
「寝不足か」
俺が聞くと、ノルは頷いた。
「寝た」
「寝たのに?」
「夢で働いた」
「労働時間に入るのか」
「入れてほしい」
リリィが横から言う。
「夢労働手当、申請しましょう」
「部費で出るか?」
ロイが真面目に聞く。
コレットが困った顔をした。
「制度がありません」
「作りましょう」
リリィが言う。
「夢で旗と話した場合、一回につき水と甘いもの」
ガレスが頷く。
「水は出す」
「甘いものは?」
「探す」
ノルは少しだけ笑った。
笑ったので、少し安心した。
でも、今日の目的は軽くない。
リブラン記録魔法学院への閲覧申請。
対象は二つ。
一つは、黒い布のかかった閲覧制限記録。
旗が記憶を持つことに関わる古い事故記録。
もう一つは、王立レガリア旧代表候補選抜戦の欠落名簿。
エレナ・フォルティスの名前があり、その隣に読めない名前がある記録。
ノルの夢では、そこに俺の名前らしき形があった。
読めない。
でも、形がある。
その言葉が、朝になっても胸の奥に残っていた。
リブラン学院の閲覧室は、書庫塔の二階にあった。
入口で手袋を渡される。
白い布ではなく、薄い灰色の手袋だ。
エリオ・ページが説明する。
「紙を守るためでもありますが、閲覧者の魔力を記録に直接触れさせないためでもあります。特に旗記録は、古い魔法媒体を含みますので」
クララがすぐに反応した。
「つまり、記録媒体が受動的に魔力干渉を」
リリィが言う。
「短く」
ミラがいない場所でも、この役は受け継がれている。
クララは息を整える。
「古い記録は、触ると反応することがあります」
「わかる」
リリィは満足そうだった。
エリオが少し笑う。
「その通りです。ですから、閲覧は必ず司書または記録係の立ち会いで行います」
ノルが自分を指す。
「記録係」
「はい。ノル・フェインさんにも立ち会い署名をお願いします」
ノルは署名台に名前を書いた。
昨日と同じ、小さくて読みやすい字。
エリオはその筆跡を見て、やはり少しだけ目を細めた。
「フェイン家の筆跡について、後ほど資料をお見せできます」
「今は、あと」
ノルは言った。
珍しく、順番を自分で決めた。
エリオは頷く。
「では、まずレガリア旧代表候補選抜戦の欠落名簿から」
閲覧室の中央に、低い机がある。
机の上には透明な保護板。
その下に、古い名簿と試合写真の写しが置かれた。
王立レガリア魔法学院。
旧代表候補選抜戦。
出場者名簿。
写真記録。
旗反応記録。
観客報告。
それぞれが別の紙に分かれている。
まず、名簿。
エレナ・フォルティス。
その名前ははっきり読める。
整った文字。
美しいくらいに残っている。
その下。
かすれた名前。
ル、のような線。
カ、のような欠け。
でも、確定できない。
昨日の夢と同じだ。
いや、夢より薄いかもしれない。
俺は息を止めた。
手袋越しに机の端を握る。
「触らないでください」
エリオが静かに言う。
俺は手を離す。
「悪い」
「いえ。反応が出やすい記録です」
反応。
それが怖い。
ノルは名簿を見ている。
眠そうな目が、少しだけ深くなる。
「形、同じ」
「夢と?」
コレットが聞く。
「うん」
ノルは部誌を開く。
昨夜の記録。
ルカの名前らしき形あり。読めず。
エレナ・フォルティスの写真記録と隣接。
名前を守れ。
消さないで。
その文字を見ると、胸がまた冷たくなる。
俺の名前があるかもしれない。
でも読めない。
あるのに読めないことは、ないより怖い。
エリオが説明する。
「この名簿は、レガリア側から提供された公式写しです。原本ではありません。写しの時点で、下段の名前に欠落がありました。通常の劣化ではなく、魔法的な忘却干渉の可能性があると注記されています」
「忘却干渉」
クララが小さく言う。
長く説明したそうだったが、今日は抑えた。
たぶん、俺の顔を見たからだ。
リリィも毒舌を言わない。
ロイは両手を握っている。
ガレスは水筒を持っている。
みんなが、軽くしないようにしている。
それがわかるから、少しつらい。
エリオは次の紙を示した。
「こちらは写真記録です」
昨日見た魔法写真の、閲覧用写し。
エレナの影は、展示より少しはっきりしている。
まだ若い。
今より少し幼いはずなのに、立ち方はもうエースだ。
背筋がまっすぐで、観客の視線を受けることに慣れている。
その隣に、少年の影がある。
顔はぼやけている。
輪郭も薄い。
でも、手袋をした右手。
風を扱う時の姿勢。
少し斜めに立つ癖。
俺はその影を見て、喉が詰まった。
覚えていない。
この場面を、俺は覚えていない。
でも、身体が覚えている。
俺だ。
たぶん、俺だ。
「ルカくん」
コレットが呼ぶ。
「大丈夫」
反射で言った。
薄い言葉だった。
レイナが小さく言う。
「大丈夫と言う時ほど、大丈夫ではない顔ですわね」
「厳しいな」
「事実です」
リリィが続ける。
「事実を丁寧に刺すの、レイナ先輩は本当に上手ですね」
「茶化さない」
「半分くらい本気です」
少しだけ空気が緩む。
ありがたかった。
エリオは三枚目の紙を出した。
「旗反応記録です。旧代表候補選抜戦で使用された旗は、記録旗ミネリア。現在は保管庫にあります」
記録旗。
ノルが反応した。
「旗が記録する?」
「はい。ミネリアは、試合中の名乗り、旗接触、魔力痕跡を一時的に保持する性質を持っていました。現在の競技旗の中ではかなり古い部類です」
クララの目が輝く。
でも、今日は誰も「短く」と言わなかった。
これは大事だ。
エリオは旗反応記録を読む。
「試合中、エレナ・フォルティス選手の魔力痕跡は強く保持。もう一名の選手については、風属性反応、欠落契約様反応、名乗り音声の一部欠損、とあります」
風属性反応。
欠落契約様反応。
名乗り音声の一部欠損。
俺の手が冷たくなる。
エリオは少し言葉を選びながら続ける。
「名乗り音声の欄には、文字起こしが残っています」
紙の下段。
そこに、短い文字列がある。
エレナ・フォルティス。
次に、欠けた文字。
ル、カ、のようなもの。
そして、その後に続く一文。
俺は、彼女を忘れない。
呼吸が止まった。
俺は、その言葉を覚えていない。
言ったのか。
俺が。
エレナに。
試合前か、試合後か。
名乗りの一部なのか、誓いなのか、挑発なのか。
わからない。
でも、記録にはある。
俺は、彼女を忘れない。
最悪だ。
そんな言葉を言っておいて、俺は忘れている。
エレナとの記憶を失っていく。
彼女を忘れないと記録に残した俺が、今、彼女のことをほとんど覚えていない。
胸の奥が、冷たさを通り越して痛くなる。
「ルカ」
ネルの声。
短い。
俺は返事ができない。
ガレスが水を差し出す。
手が震えて、受け取るのに少し時間がかかった。
水を飲む。
喉が動かない。
それでも飲む。
水は大事。
今は、本当にそうだった。
ノルは紙を見ている。
顔色が悪い。
たぶん、夢でこの一文を全部見ていたのかもしれない。
伝えると重い。
だから、夜には言わなかった。
俺はそれに気づいた。
怒りはなかった。
むしろ、言わなかった理由がわかってしまった。
これは重い。
夜中に急に渡されたら、壊れていたかもしれない。
コレットが静かに聞く。
「ルカくん、記録しますか」
俺は笑いそうになった。
こんな時でも、コレットは聞く。
書いていいか。
記録していいか。
その順番に、少し救われる。
「書いてくれ」
声がかすれた。
コレットは頷いた。
レガリア旧代表候補選抜戦。
エレナ・フォルティスの隣に、ルカと思われる欠落名あり。
風属性反応、欠落契約様反応。
名乗り音声の一部に「俺は、彼女を忘れない」。
本人、記憶なし。
その最後の一行が、きつい。
本人、記憶なし。
事実だ。
事実だから、きつい。
ノルが小さく言う。
「ごめん」
俺は首を横に振る。
「何で」
「昨日、少し見た」
「言わなかったこと?」
ノルは頷く。
「重かった」
「今も重い」
「うん」
「でも、昨日の夜に全部聞くよりは、ましだった」
ノルは少しだけ目を伏せた。
「なら、よかった」
よくはない。
でも、最悪ではなかった。
その違いは大事だ。
エリオは次の資料を出す前に、こちらを確認した。
「続けてもよろしいですか」
俺は一度、深く息を吐いた。
逃げたい。
でも、見ないほうがもっと怖い。
「続けてください」
エリオは頷いた。
次は観客報告。
複数の証言が並んでいる。
エレナ・フォルティスは冷静だった。
もう一名の風使いは、試合中盤に強い風を使用。
観客席の一部が、その選手の名を思い出せないと報告。
試合後、レガリア側記録係が名簿照合を実施。
記録旗ミネリアに残った音声と名簿が一致せず。
一致せず。
俺の存在が、その時からもう揺れていた。
ルカ・ヴァレンという名前が、記録の中でも薄くなっていた。
エレナは、それを見たのだろうか。
彼女は覚えているのか。
忘れられない人。
誰からも忘れられないが、本当の自分を誰にも認識されない人。
俺を忘れないのか。
それとも、俺のことを覚えているのに、本当の俺を見られないのか。
わからない。
わからないことが増えていく。
ノルが部誌に小さく書いている。
手が少し震えている。
「ノル」
俺が呼ぶ。
「何」
「無理するな」
「無理してる」
正直だ。
「でも、書く」
「どうして」
ノルは少し考えた。
「忘れたものも、なかったことにはしないから」
その言葉は、まだ部誌の最終行ではない。
でも、もう彼女の中にある。
俺は何も言えなかった。
エリオが最後に、一枚の小さなメモを出した。
「これは正式資料ではありません。リブラン側の調査メモです。閲覧には本人、もしくは関係校の同意が必要ですが、今回はカルミア側の欠落当事者の可能性が高いため、提示します」
メモには、短い文が書かれていた。
欠落名は、ルカ・ヴァレンの可能性。
根拠。
風属性反応。
旧カルミア登録簿との筆跡照合。
レガリア側非公開追記に、E.F.が「彼は忘れないと言った」と証言。
E.F.
エレナ・フォルティス。
彼は忘れないと言った。
俺は、彼女を忘れない。
記録と証言がつながる。
俺の覚えていない俺が、少しずつ形になる。
つらい。
でも、形になる。
空白ではない。
誰かがいた形をしている。
コレットが俺を見る。
書いていいか、と目で聞いている。
俺は頷いた。
もう言葉が出なかった。
コレットは書く。
リブラン調査メモ。
欠落名はルカ・ヴァレンの可能性。
E.F.証言「彼は忘れないと言った」。
本人、記憶なし。
ノルが横で、別の行を書いた。
記憶がないことは、言葉が嘘だった証拠ではない。
俺はその文字を見た。
胸の奥が、少しだけ揺れる。
俺は忘れている。
でも、あの時の言葉が嘘だったとは限らない。
忘れないと言った俺は、本気だったかもしれない。
その本気すら忘れた。
それでも、記録にはある。
ノルはそれを、そう書いた。
閲覧室を出る頃、俺たちは全員少し疲れていた。
紙を見るだけで、こんなに疲れるとは思わなかった。
いや、紙ではない。
紙に残ったものが重かった。
廊下へ出ると、リブランの窓から柔らかい光が差していた。
ノルは部誌を抱えたまま、少しふらつく。
ガレスがすぐに支えようとしたが、ノルは首を横に振った。
「歩く」
「倒れる」
「倒れそうなら言う」
ミラの「終わり」と少し似ている。
ノルも、重さを自分で申告しようとしているのかもしれない。
ガレスは手を下げた。
「言え」
「うん」
俺はノルの横に並んだ。
「昨日、伝えると重いって言ったな」
「うん」
「今日、重かった」
「うん」
「でも、伝えてくれてよかった」
ノルは少しだけ目を開けた。
「全部じゃない」
「まだあるのか」
「ある」
胸がまた少し冷える。
「今は?」
ノルは首を横に振る。
「まだ」
「わかった」
「怒らない?」
「怒らない」
「知りたい?」
「知りたい」
「でも、まだ?」
「まだ」
ノルは小さく頷いた。
「よかった」
その「よかった」は、かなり疲れていた。
記録係は、知ったものを全部すぐ渡せばいいわけではない。
渡す順番も、重さも、相手の足場も見る。
それは、たぶん孤独な仕事だ。
ノルは今、その孤独の中にいる。
滞在棟へ戻ると、コレットが今日の記録を清書した。
クララは忘却干渉について調べたい顔をしていたが、今日は我慢している。
リリィは毒舌を言わず、グレイを小皿に置いていた。
ロイは完了音を出さなかった。
今日はまだ完了していない。
俺は机に置かれた記録を見た。
俺は、彼女を忘れない。
E.F.証言。
彼は忘れないと言った。
本人、記憶なし。
その三つの行が、ずっと目に刺さる。
俺は手袋の指先を握った。
戻り言葉は、ルカ。
今日は、その言葉が少し怖かった。
自分の名前を確認することが、こんなに怖い日が来るとは思わなかった。
でも、確認する。
ルカ。
まだ、ここにいる。
ノルが部誌を開き、最後に一行だけ書いた。
読めない名前の隣に、エレナの名前があった。
その一行を見て、俺は何も言えなかった。
ノルはペンを置く。
目を閉じる。
「眠い」
「寝るのか」
「寝る」
「夢は?」
「来るかも」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
ノルはそう言って、部誌を抱えた。
「でも、一人で持つとは言ってない」
また、その言葉。
今度は、俺も頷いた。
「そうだな」
リブランの夕方は、紙の匂いが濃かった。
記録は重い。
でも、重いからこそ、なくならないものもある。
俺が忘れた言葉。
エレナが覚えているかもしれない証言。
ノルが夢で拾った名前の形。
それらは、まだ痛い。
痛いまま、紙の上に置かれた。




