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第101話 記録の街へ

 巡業列車が次に向かったのは、図書都市リブランだった。


 名前からして本が多そうだと思っていたら、本当に多かった。


 駅に着く前から、窓の外に本棚みたいな建物が見える。石造りの壁に、木の格子窓がびっしり並び、その窓の奥に紙の影が揺れている。


 街の中心には、巨大な書庫塔が立っていた。


 塔というより、縦に積まれた本の束だ。


 何層もの回廊が巻きつき、外壁には古い試合年表が彫られている。遠くからでは文字は読めないが、線の密度だけで長い歴史があるとわかる。


 リリィが窓越しにそれを見て言った。


「本が多すぎますね。街ごと栞を挟みたいです」


「クレストフォールより落ち着いてるな」


 俺が言うと、彼女は肩をすくめた。


「白すぎないだけで好印象です。グレイもそう言っています」


 小皿の上のグレイは、ぷるぷるしている。


 迷子一号は動かない。


 グレイはクレストフォールで仮登録されてから、列車内でも小皿に置かれることが増えた。強いわけではない。むしろ、相変わらず弱そうだ。


 でも、もう「ただの迷惑」ではない。


 リリィがそう思えるようになっただけで、たぶん大きい。


 ノルは、その横で寝ていた。


 図書都市に向かっているのに、記録係が寝ている。


 いつものことだ。


 ただ、今日は少し違った。


 ノルの膝の上には、古い布表紙の部誌がある。


 第七魔法競技部の記録。


 ここまでの巡業で増え続けた紙束を、彼女は昨日の夜から何度も並べ替えていた。


 眠そうに。


 でも、妙に丁寧に。


「ノル」


 コレットが声をかける。


「起きていますか」


「寝てる」


「返事はするんですね」


「記録係だから」


 ノルは目を開けないまま答えた。


 コレットは少し笑い、すぐに資料へ戻る。


 次の交流校は、リブラン記録魔法学院。


 古い図書都市にある交流校で、競技記録、旗の来歴、過去試合の保存に強い。


 公式戦もあるが、ここでの主題は試合より記録だ。


 動く旗が記憶を持つこと。


 俺の喪失が外部記録で補われること。


 そして、ノルがただ眠い記録係ではないこと。


 たぶん、そういう章になる。


 いや、章って言うな。


 でも、流れとしてはわかる。


 俺は手袋の指先を握った。


 戻り言葉は、ルカ。


 まだ覚えている。


 ただ、山岳校のあとから失った「誰かに必要とされた記憶」の穴は、完全には埋まっていない。


 コレットの記録に書かれた一文。


 第七部は、ルカを必要としている。


 あれは今も部誌にある。


 紙の上にある。


 それを見ると、少し落ち着く。


 でも、紙は気持ちそのものではない。


 気持ちが抜けた場所に、紙を置いて足場にする。


 そういう感じだ。


 図書都市は、たぶんその足場が多すぎる街なのだろう。


 忘れないための紙。


 忘れたあとに確かめる紙。


 忘れたことを、なかったことにしない紙。


 ノルがこの街をどう見るのか、少し気になった。


 駅に着くと、空気が紙の匂いをしていた。


 本当に。


 冗談ではなく、紙とインクと古い木の匂いがする。


 駅舎の壁には、歴代巡業リーグの到着記録が掲げられていた。学校名、年月日、対戦結果、旗名、特記事項。


 カルミア魔法学園の名前も、古い年表の下のほうに小さくあった。


 何十年も前の記録だ。


 今の第七部とは違う時代。


 強かった頃か、落ち始めた頃か。


 わからない。


 ただ、名前が残っている。


「カルミア、ありますね」


 ロイが嬉しそうに言う。


 レイナが腕を組む。


「当然ですわ。カルミアにも歴史くらいあります」


「くらいって言いました?」


「言っていません」


「言いました」


 レイナは目をそらした。


 ミラは年表をじっと見ている。


「山岳校もある」


 ガレスが頷く。


「白旗の学校も」


 ネルが少しだけ目を細めた。


 ルミナリア。


 あの白旗の記録も、ここには残っている。


 レイナがその名前を見て、少しだけ背筋を伸ばした。


 失敗を誇れ。


 あの章の言葉が、年表の文字と一緒に頭をよぎる。


 いや、章って言うな。


 ノルは最後に列車から降りてきた。


 部誌を抱えている。


 眠そうな目。


 でも、年表を見た瞬間、その目が少しだけ開いた。


「多い」


 彼女が言った。


「本が?」


 俺が聞く。


「足跡」


 ノルは年表の前に立つ。


 指で文字をなぞらない。


 触らずに、目だけで追う。


「勝った足跡。負けた足跡。旗が逃げた足跡。取られた足跡。誰かが泣いたかもしれない足跡」


 眠そうな声なのに、妙に深い。


 リブランの駅員らしき男性が、少し驚いたようにノルを見た。


 その男性は、深緑の制服を着ていた。胸元には小さな本の紋章。


「あなたが、第七部の記録係ですか」


 ノルは目を半分閉じたまま頷く。


「たぶん」


「たぶん?」


「起きてる時は」


 男性は少し困った顔をしたが、すぐに笑った。


「リブラン記録魔法学院、司書補佐のエリオ・ページです。滞在中の案内を担当します」


 ページ。


 本の街に似合いすぎる名前だ。


 リリィが小声で言う。


「名前の時点で職業選択の自由がなさそうです」


「リリィ」


 コレットがたしなめる。


「半分くらい褒めています」


「褒めていません」


 エリオは聞こえていたのか、苦笑した。


「よく言われます」


 慣れているらしい。


 リブランの人間は、記録されることにも、名前をいじられることにも慣れているのかもしれない。


 エリオは俺たちを駅舎の奥へ案内した。


「まず、到着記録を取ります。その後、学院の展示回廊へご案内します。現在、巡業リーグ過去百年展を開催中です」


「百年」


 ロイが目を丸くする。


「はい。対戦記録、旗の変遷、事故記録、名勝負、無効試合、未解決記録などを展示しています」


「未解決記録?」


 クララが反応する。


 エリオは頷いた。


「原因不明の旗反応、記録欠落、勝敗判定の不一致、選手名簿の消失などです」


 選手名簿の消失。


 俺の胸が、少しだけざわついた。


 俺の魔法は、使うと記憶を失う。


 存在感も薄れる。


 競技中だけでなく、日常でも忘れられる危険がある。


 選手名簿から消える。


 それは、ただの展示項目ではなく、俺の未来にも見えた。


 ノルが俺を見た。


 眠そうなのに、ちゃんと見ている。


「ルカ、顔」


「変か」


「少し」


「いつもより?」


「いつも通り変」


「悪口か?」


「安心」


 変な安心だ。


 でも、少しだけ笑えた。


 到着記録は、駅舎の奥にある小さな部屋で行われた。


 机の上には、分厚い到着台帳がある。


 コレットが代表者として署名する。


 カルミア魔法学園 第七魔法競技部。


 到着日。


 部員数。


 旗登録。


 滞在目的。


 エリオは丁寧に項目を読み上げる。


 コレットは一つずつ答える。


 ノルは横で部誌を抱えている。


「記録係の署名欄もあります」


 エリオが言った。


 ノルが顔を上げる。


「私?」


「はい。各校の記録係には、任意で署名をいただいています。展示資料や照合記録を閲覧する際、記録係同士の責任範囲を明確にするためです」


 ノルはしばらく台帳を見た。


 ペンを取る。


 眠そうな手で、ゆっくり名前を書く。


 ノル・フェイン。


 字は小さい。


 でも、意外に読みやすい。


「きれいな字だな」


 俺が言うと、ノルはペンを置いて答えた。


「寝ながら書くと乱れる」


「今は?」


「半分起きてる」


「なら半分きれいか」


「全部きれい」


 自信があるらしい。


 エリオは署名を確認し、少しだけ目を細めた。


「フェイン家の記録筆跡に似ていますね」


 ノルのまぶたが、ほんの少し動いた。


「知ってるの?」


「リブランには古い記録係の筆跡見本があります。フェイン姓の記録官が、昔いくつかの旗記録に関わっています」


 ノルは黙った。


 珍しい。


 いつも眠そうに返す彼女が、すぐには言葉を出さない。


 コレットがそっと聞く。


「ノルさん、ご家族のことですか」


「たぶん」


 ノルは自分の署名を見る。


「あまり知らない」


 短い。


 でも、その短さに少しだけ影がある。


 ノルの過去は、今まであまり語られていない。


 眠そうな記録係。


 夢で旗と話せる。


 試合の細部を異常に覚えている。


 でも、彼女自身の記録は、まだ少ない。


 この街は、それを掘り起こすのかもしれない。


 到着記録のあと、俺たちは展示回廊へ案内された。


 そこは、駅舎から学院へ続く長い通路だった。


 両側の壁が展示棚になっている。


 古い旗の欠片。


 試合球。


 破れた防具。


 勝敗記録。


 選手名簿。


 観客席の配置図。


 百年前の巡業列車の切符まである。


 情報量が多すぎて、クララが少し黙った。


 珍しい。


「クララが黙った」


 リリィが言う。


「情報が多い時ほど、最初は黙ります」


 クララは真剣に答えた。


「食べ物を前にしたガレス先輩みたいですね」


 ガレスが横で言う。


「水」


「食べ物ですらない」


 リリィは元気を取り戻してきたらしい。


 展示回廊の中ほどに、「忘れられた名勝負」という区画があった。


 名前が矛盾している。


 忘れられたのに、名勝負として展示されている。


 俺は足を止めた。


 エリオが説明する。


「この区画は、当時大きな注目を集めたにもかかわらず、後年に記録の一部が欠落した試合を集めています。旗の古代性、記録媒体の劣化、選手側の魔法干渉など、原因はさまざまです」


 選手側の魔法干渉。


 また、胸がざわつく。


 ノルが先に展示へ近づいた。


 古い試合記録の一つに、黒い布がかけられている。


「これは?」


 彼女が聞く。


 エリオは少し表情を引き締めた。


「閲覧制限記録です。旗が記憶を持つことに関わる古い事故記録で、記録係の同席が必要です」


「記録係ならいる」


 ノルは自分を指した。


 エリオは苦笑する。


「はい。ただ、学院側の許可も必要です。明日、正式に閲覧申請を出しましょう」


 ノルは黒い布を見たまま、目を半分閉じる。


「夢に出そう」


「やめろ」


 俺が言うと、ノルは首を傾げた。


「止められない」


「そうだった」


 夢で旗と話す。


 その魔法は便利に見えるが、本人が選べるものではない。


 リリィのランダム召喚と少し似ている。


 計画通りにいかない力。


 ただ、ノルの場合、それが記録と記憶に向かう。


 展示回廊の終わり近くに、古い試合写真があった。


 写真というより、魔法で焼きつけた影絵だ。


 選手たちが並んでいる。


 中央に、白い旗。


 その横に、二人の少年少女らしき影。


 俺は足を止めた。


 なぜか、その影から目が離せなかった。


 エリオが説明札を読む。


「王立レガリア魔法学院、旧代表候補選抜戦。数年前のものですね。展示期間中のみ公開されています」


 レガリア。


 エレナ。


 俺の胸が、今度ははっきりざわついた。


 説明札の端には、名前があった。


 エレナ・フォルティス。


 そして、もう一人。


 文字がかすれている。


 読めそうで、読めない。


 でも、俺はその位置に誰がいたのか、知っている気がした。


 俺だ。


 たぶん。


 いや、違うかもしれない。


 俺は覚えていない。


 覚えていないのに、身体が先に反応している。


 ノルが俺の隣に来た。


 眠そうな目で、写真を見る。


「ルカ」


「何」


「ここ、欠けてる」


 彼女は説明札のかすれた名前を指ささない。


 触れずに、目だけで示す。


「名前が、抜けてる」


「劣化じゃないのか」


「たぶん、違う」


 ノルは小さく言った。


「忘れられた跡」


 喉が乾いた。


 ガレスが水を差し出す。


 いつの間にか隣にいた。


「水」


「助かる」


 水を飲む。


 冷たい。


 でも、胸のざわつきは消えない。


 エリオが少し困ったように言う。


「その記録は、欠落調査中です。王立レガリア側から提供されたものですが、名簿の一部が読めなくなっていて」


「調査中」


 ノルが繰り返す。


「はい」


「なら、明日見る」


 エリオが目を瞬かせる。


 ノルは俺を見る。


「ルカも」


「俺も?」


「たぶん、関係ある」


 関係ある。


 その言葉は、少し怖かった。


 俺はエレナの名前を見る。


 王立レガリアのエース。


 俺を転落させた試合の勝者。


 本当は俺を救う方法を探しているかもしれない人。


 その名前が、ここにある。


 俺の名前らしき欠落と、並んで。


 コレットが静かに記録板を開いた。


「ルカくん、書いていいですか」


「何を」


「レガリア旧代表候補選抜戦の展示記録に、ルカくんと関係する可能性がある欠落を発見」


 俺は少し迷った。


 記録されることは、怖い。


 でも、記録しなければ、また消えるかもしれない。


「書いてくれ」


 コレットが頷く。


 ノルも部誌を開いた。


「私も書く」


「同じ内容を?」


「違う」


 ノルは小さな字で書き始める。


 俺は少し覗き込んだ。


 忘れられた跡は、空白ではない。


 誰かがいた形をしている。


 その一文を見て、何かが胸の奥で引っかかった。


 忘れたものも、なかったことにはしない。


 まだこの章の終わりの言葉ではない。


 でも、もうそこへ向かっている気がした。


 展示回廊を出るころには、日が傾いていた。


 リブランの街灯には、小さな本型の魔法灯が灯っている。


 光は強くない。


 紙に優しい明るさだ。


 ノルはいつもより少し起きていた。


 眠そうなのは変わらない。


 でも、目が展示の文字を追い続けている。


「疲れたか」


 俺が聞くと、ノルは頷いた。


「情報、多い」


「クララみたいなこと言うな」


「クララは食べる。私は沈む」


「沈む?」


「記録が多いと、眠くなる。眠ると、旗が来る」


 それは、少し怖い言い方だった。


 ノルは書庫塔を見上げる。


「今夜、たぶん来る」


「どの旗が」


「わからない」


 彼女は部誌を抱き直した。


「でも、ここは記録の街だから。夢も、たぶん多い」


 その夜、滞在棟の部屋に入ると、ノルは部誌を枕元に置いた。


 寝る準備が早い。


 いつも通り。


 でも、今日は少し儀式みたいだった。


 コレットが聞く。


「ノルさん、夢を見たら記録できますか」


「起きたら」


「起きられますか」


「たぶん」


 頼りない。


 でも、ノルらしい。


 俺は隣の机に水を置いた。


 ガレスの真似ではない。


 いや、たぶん真似だ。


 水は大事。


 ノルはそれを見て、少しだけ笑った。


「ガレス化」


「やめろ」


「水は大事」


「わかってる」


 部屋の灯りが落ちる。


 リブランの夜は静かだった。


 紙が眠る音がする。


 そんな音があるのかは知らない。


 でも、確かに街全体がページを閉じるような気配がした。


 ノルはすぐに眠った。


 寝息が小さい。


 部誌の表紙に、彼女の手が触れている。


 俺は窓の外を見た。


 書庫塔の灯りが、まだいくつか残っている。


 その向こうで、古い試合記録が眠っている。


 エレナの名前。


 読めない俺の名前。


 忘れられた跡。


 ノルが夢で何を見るのか、少し怖かった。


 でも、見ないほうがもっと怖い。


 戻り言葉は、ルカ。


 俺は小さく確認する。


 まだ、覚えている。


 ノルが寝言のように呟いた。


「名前」


 俺は振り返る。


 彼女の目は閉じている。


「忘れた名前、落ちてる」


 それだけ言って、ノルは深く眠った。


 リブランの夜が、静かにページをめくった気がした。


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