第100話 偶然を置く場所
負けた翌日の空は、腹が立つくらい白かった。
クレストフォール召喚術学院の庭は、今日もよく掃除されている。
昨日、カルミアが判定負けした第一競技庭も、もう何もなかったみたいに整っていた。
水球の跡もない。
小鳥の足跡もない。
グレイがぷるぷる震えた場所も、フィーニスの拒絶が白い流れになった場所も、きれいに消えている。
でも、俺たちの記録には残っている。
匂い追いは不利に働いた。
フィーニスの拒絶を、クレストフォールは攻撃経路に変えた。
リリィは中止した。
グレイは、水球に付着したフィーニスの痕跡にも反応した。
負けた。
でも、次がある。
その次は、公式戦ではなかった。
判定は覆らない。
クレストフォールの勝利は、そのまま記録に残る。
今日行うのは、合同検証。
フィーニスの拒絶反応と、リリィの匂い追いを、競技の外で改めて確認する。
リリィが望んだ。
コレットが形式を整えた。
フェルン先生が許可した。
セラとユアンが立ち会う。
そして、俺が一つだけ、指示を出すことになった。
偶然を作戦に入れる。
ただし、命令しない。
それが、昨日の夜に出した俺の結論だった。
リリィは最初、その言葉にかなり嫌そうな顔をした。
「偶然を作戦に入れるって、言葉としてもう矛盾していますよね」
「そうだな」
「計画性が家出しています」
「お前の召喚と相性がいい」
「先輩、刺し方が雑になってきましたね」
「悪い」
「謝るの早い」
いつものやり取り。
でも、リリィは最後にこう言った。
「命令しないなら、やります」
だから、今日の検証ではグレイに命令しない。
迷子一号にも命令しない。
ロイの音も、進ませるためではなく、場所を知らせるために使う。
ネルの魔法も押さない。
アルフの結界も閉じ込めない。
俺の風も使わない。
偶然が動ける場所を作る。
偶然が動かなければ、それも記録する。
それが今日の作戦だった。
作戦と言っていいのかは、まだ怪しい。
でも、第七部にはそういうものが多い。
合同検証の場は、第二召喚庭の外縁に作られた。
フィーニスは止まり木にいる。
昨日より少し警戒しているように見える。
白い羽が膨らみ、首元の銀輪が時々小さく鳴る。
グレイは皿の上。
迷子一号は封印布付き。
リリィは二つの小さなものの前に立っていた。
今日は毒舌が少ない。
代わりに、口元が少し真剣だ。
「リリィ」
俺が呼ぶ。
「はい」
「今日の目的は、旗を取ることじゃない」
「知っています」
「フィーニスを傷つけることでもない」
「それも」
「グレイを使い潰すことでもない」
「当然です」
「迷子一号を石以上に働かせることでもない」
「石以下に働く可能性もあります」
「そこは石の尊厳を守れ」
リリィは少し笑った。
笑えたなら、今のところ大丈夫だ。
俺は続ける。
「目的は、偶然がどこに置けるかを見ること」
リリィの目が少しだけ揺れる。
「置けなかったら?」
「置けない場所だったと記録する」
「それだけ?」
「それだけ」
彼女は息を吐いた。
「それだけ、ですか」
「それだけでいい」
リリィは小さく頷いた。
コレットが検証手順を読み上げる。
「第一段階。フィーニスから最も遠い外縁に、グレイと迷子一号を置く。第二段階。ロイくんが完了音ではなく、位置音を三箇所に置く。第三段階。グレイが動いた場合、リリィさんが進行、中止、保持のいずれかを判断する。第四段階。フィーニスが拒絶反応を示した場合、クレストフォール側は攻撃転用を行わず、境界反応のみ記録する」
セラが頷く。
「クレストフォール側、了承」
ユアンも肩の狐を撫でながら言う。
「今日は乗らない」
リリィが振り向く。
「狐の台座さんが乗らない宣言を」
「台座って呼ぶな」
「では、狐の交通機関」
「悪化した」
少し笑いが起きた。
フィーニスが羽を膨らませる。
笑い声にも反応したのかもしれない。
小さい声。
ばらける音。
フィーニスは、本当に細かいものが嫌いだ。
リリィがグレイを見る。
「あなたも嫌われていますよ」
グレイはぷる、と震えた。
返事かもしれない。
違うかもしれない。
でも、今日は違うかもしれないまま進める。
検証開始。
ロイが最初の位置音を置いた。
コン。
完了音に似ているが、少し平らな音。
足場ではなく、場所を知らせる音だ。
グレイは少し震えた。
動かない。
迷子一号も動かない。
リリィはすぐに言う。
「保持」
保持。
進めない。
止めない。
そのまま置く。
コレットが記録する。
第一音、保持。
ロイが二つ目の位置音を置く。
コン。
少し右。
グレイが、ほんの少しだけ右へ震えた。
フィーニスの羽が動く。
でも、まだ拒絶ではない。
リリィが言う。
「保持」
進ませない。
焦らない。
偶然が動きたがっても、まだ場所を作る。
ロイが三つ目の位置音を置いた。
コン。
フィーニスに近い側。
グレイが動いた。
のろのろと。
迷子一号が少しだけ同じ方向へ寄る。
フィーニスの首が、かくりと動く。
銀輪が鳴る。
チリ。
庭の空気が白くなる。
拒絶反応の手前。
リリィの指が小袋の紐を握る。
中止か。
進行か。
保持か。
彼女は一瞬だけ迷った。
その迷いを、誰も急かさない。
昨日の公式戦なら、その一瞬で相手に乗られた。
でも今日は、検証だ。
偶然に場所を作るための時間がある。
「進行」
リリィが言った。
声は震えていない。
グレイが、さらに少しだけ進む。
遅い。
でも、確かに進んでいる。
フィーニスが止まり木から跳んだ。
白い羽が広がる。
拒絶反応。
昨日なら、その白い流れにクレストフォールの小鳥が乗った。
今日は、誰も乗らない。
白い流れだけが、庭の空気に出る。
グレイが震える。
迷子一号が止まる。
リリィが叫びそうになり、唇を噛む。
俺は言った。
「偶然を作戦に入れろ」
リリィがこちらを見る。
「制御しなくていい。戻さなくていい。今、どこに置くかだけ決めろ」
自分でも少し強い言い方だと思った。
でも、必要だった。
彼女の召喚は計画通りにいかない。
なら、計画で縛るのではなく、起きた偶然を置く場所を決める。
偶然がどこへ行くかは選べない。
でも、偶然が来た時に、誰が受けるかは選べる。
リリィはグレイを見た。
白い拒絶の流れに、グレイが押されそうになっている。
弱い。
本当に弱い。
でも、白い流れに流されながら、フィーニスのほうへ少しだけ向きを変えた。
フィーニスは嫌がる。
羽を広げる。
しかし、攻撃ではない。
境界を見せている。
リリィは息を吸った。
「迷子一号、そこ」
命令ではない。
呼びかけに近い。
彼女は迷子一号を少しだけ、グレイの後ろへ置き直した。
石は動かない。
動かないから、グレイの背中に壁ができる。
グレイは白い流れに押されても、迷子一号にぶつかって止まる。
「ロイ先輩、完了音じゃなくて、場所」
「はい」
ロイが位置音を置く。
コン。
グレイが震える。
ネルが手を床に近づける。
「押さない。逃がす?」
リリィが頷く。
「少しだけ。流れの端」
ネルの魔力が一瞬だけ光る。
白い拒絶の流れを押すのではない。
端を逃がす。
グレイが潰れない程度に。
アルフが結界を張ろうとして、止まる。
「張ると閉じる」
「張らないでください」
リリィが言う。
「閉じ込めると、あの子、たぶん迷子になれません」
変な言葉だ。
でも、全員が理解した。
グレイは命令ではなく、迷いながら進む。
迷子一号は動かないことで場所になる。
ロイの音は道ではなく、目印になる。
ネルは押さず、流れを逃がす。
俺の風は使わない。
偶然が動く余白を、みんなで作る。
フィーニスがもう一度鳴いた。
チリン。
強い拒絶。
グレイは止まった。
そこは、フィーニスの銀線の少し手前。
直接触れてはいない。
旗にも、グレイにも、危険はない。
でも、グレイの灰色の身体に、白い綿羽の光がほんの少しだけついた。
フィーニスの境界に、届いた。
リリィが息を止める。
フィーニスは羽を膨らませる。
嫌がっている。
でも、逃げない。
攻撃もしない。
境界を見せている。
グレイはぷるぷる震えながら、白い光をまとっている。
迷子一号は後ろで動かない。
ロイは音を出さない。
ネルも手を止める。
誰も動かない。
その静止が、到達だった。
「届いた」
リリィが言った。
声は小さい。
でも、確かだった。
「触ってない」
セラが記録する。
「境界接触」
フェルン先生が続ける。
「危険反応なし。拒絶強、攻撃なし。未登録小型個体グレイ、フィーニス境界へ到達」
クララが震える声で言う。
「匂い追い、境界到達」
コレットが記録板に書く。
リリィ、偶然を制御せず、場所を指定。
迷子一号、停止点。
グレイ、フィーニス境界へ到達。
ロイ、位置音。
ネル、流れ逃がし。
アルフ、結界不使用判断。
ルカ、風不使用。
フィーニス、拒絶するが攻撃せず。
リリィは、自分の失敗召喚を信じた。
最後の一行を、コレットは少し迷ってから書いた。
リリィがそれを覗き込む。
「信じた」
「違いますか」
コレットが聞く。
リリィはグレイを見る。
弱い。
灰色。
ほこりみたいで、頼りない。
でも、境界に届いた。
「違いません」
彼女は言った。
その声に、毒はなかった。
フェルン先生が終了を告げる。
「検証終了。フィーニスを鎮静します」
セラがフィーニスの止まり木へ近づき、登録済みの小鳥を戻す。
フィーニスは羽を何度も整えた。
昨日より長く。
でも、最後には落ち着いた。
白い羽の先に、灰色の小さな光が一瞬だけ残っていた。
グレイの痕跡かもしれない。
ただの光の見間違いかもしれない。
ノルが寝ぼけた声で言った。
「汚れじゃない」
全員がノルを見る。
「夢?」
俺が聞く。
「起きてる」
「本当か」
「半分」
ノルはフィーニスを見た。
「白い羽、汚れたんじゃない。覚えた」
クララが息を吸う。
「境界記憶」
短い。
今のクララにしては、かなり短い。
リリィは笑った。
「私のほこりが、旗に記憶されましたか」
「グレイです」
セラが言った。
リリィはセラを見る。
セラは真面目な顔だった。
「仮名でも、記録名です」
リリィは少しだけ目を伏せた。
「そうでしたね」
検証後、クレストフォール側の記録室で共同記録が作られた。
公式戦記録はそのまま。
クレストフォール勝利。
カルミア判定負け。
その下に、合同検証記録が追加される。
匂い追い、境界到達。
未登録小型個体グレイ、フィーニス境界へ非接触到達。
迷子一号、停止点として機能。
リリィ・クロフト本人の判断により進行、中止なし、危険反応なし。
フィーニス、拒絶反応を示すが攻撃せず。
境界記憶の可能性あり。
リリィは記録を読んだ。
ゆっくり。
何度も。
フェルン先生が確認する。
「本人確認欄に、追記はありますか」
リリィはペンを持った。
しばらく考える。
そして、書いた。
迷惑ではなかった。
それだけ。
短い一文。
でも、リリィにとっては長い距離だった。
フェルン先生はその一文を見て、静かに頷いた。
「記録します」
ユアンが横から言う。
「短いな」
リリィがすぐ返す。
「あなたの謝罪よりは中身があります」
「まだ言うか」
「一生言います」
ユアンは困った顔をした。
でも、昨日ほど嫌そうではなかった。
セラがリリィへ小さな紙を渡した。
「グレイの仮登録証です」
リリィは固まった。
「仮登録」
「はい。クレストフォール滞在中のみですが、未登録ではなく、共同観察個体として仮登録できます」
「ほこりが登録される日が来るとは」
「グレイです」
セラはまた真面目に言った。
リリィは紙を受け取る。
そこには、きれいな字で書かれていた。
仮称 グレイ。
分類 未確定小型召喚個体。
危険度 低。
反応 匂い追い。
観察者 リリィ・クロフト、カルミア魔法学園第七魔法競技部、クレストフォール召喚術学院。
リリィはそれをしばらく見ていた。
「私の召喚が、登録されました」
声が少しだけ震えていた。
「迷惑名簿ではなく」
セラが答える。
「観察記録です」
リリィは笑った。
今度はちゃんと笑えた。
「では、グレイ。あなた、出世しましたよ」
皿の上のグレイはぷるぷる震えた。
迷子一号は動かない。
でも、リリィは迷子一号にも小さく言った。
「あなたも、そのうち仮登録を目指しましょうか」
石は当然、答えなかった。
それが少し面白くて、みんなが笑った。
その日の夕方、巡業列車へ戻る準備をしながら、リリィは小さな仮登録証を何度も見ていた。
毒舌は戻っている。
「紙一枚で人は簡単に機嫌を取られるんですね」とか、「登録証の字がきれいすぎて腹が立ちます」とか、いろいろ言っていた。
でも、胸元の小袋には、迷子一号。
手元の小皿には、グレイ。
その横に、仮登録証。
彼女はそれをしまわなかった。
見えるところに置いていた。
「リリィ」
俺が呼ぶ。
「なんですか」
「よかったな」
彼女は少しだけ目を細めた。
「語彙が少ないですね」
「悪い」
「でも、今日はそれでいいです」
彼女は仮登録証を指で押さえる。
「よかったです」
その言葉は、冗談ではなかった。
第10章。
いや、章とは言わない。
クレストフォールでの滞在は、勝利で終わらなかった。
公式戦は負けた。
匂い追いは最初、不利に働いた。
それでも、リリィは自分の失敗召喚を信じた。
グレイはフィーニスの境界へ届いた。
迷子一号は、動かないことで場所になった。
そして、クレストフォールの記録に、迷惑ではない形で残った。
完全な和解ではない。
過去が消えたわけでもない。
リリィがもう怖くないわけでもない。
でも、彼女の計画通りにいかない魔法には、少しだけ居場所ができた。
巡業列車が動き出す。
白い校舎が遠ざかる。
リリィは窓に映る自分を見ていた。
今度の笑みは、窓の中でも遅れなかった。
「先輩」
「何」
「偶然を作戦に入れるって、やっぱり変な言葉です」
「そうだな」
「でも、嫌いではありません」
「なら、よかった」
「よかった、しか言えないんですか」
「今日はそれでいいんだろ」
リリィは笑った。
グレイが小皿の上でぷるりと震える。
ロイが小さく完了音を出した。
コン。
迷子一号は動かない。
グレイは震える。
リリィは仮登録証を胸元にしまった。
「完了ですね」
彼女が言う。
「いや」
俺は窓の外を見る。
次の街へ向かう線路。
次の旗。
次の記録。
次は、ノルの番かもしれない。
「次の足場までだ」
リリィは少し呆れたように、でも楽しそうに笑った。
「山の副作用、長引きますね」
「便利だからな」
戻り言葉は、ルカ。
俺はまだ覚えている。
今日のことも、忘れたくない。
偶然を置く場所。
迷惑ではなかった、という一文。
グレイの仮登録証。
リリィの窓に遅れない笑み。
それらを胸の中で確かめながら、俺たちは次の都市へ向かった。




