第99話 偶然は味方の顔をしていない
公式戦の朝、リリィは作戦表を一枚だけ持ってきた。
昨日までの細かい表ではない。
使う場合。
使わない場合。
事故った場合。
選ぶ場合。
その四つの欄を、全部消して、新しく一行だけ書いてある。
使う。中止権限は私。
それを見たコレットは、何も言わずに頷いた。
俺も何も言わなかった。
リリィが決めた。
それだけで、まず十分だった。
クレストフォール召喚術学院との公式戦は、第一競技庭で行われる。
白い床。
銀の召喚陣。
三つの輪を重ねた門。
観客席にはクレストフォールの生徒たちが静かに座っている。大きな声援はない。代わりに、小さなざわめきが規則正しく揺れていた。
カルミア側の控え席は、いつも通り少し端にある。
でも、もう端にいることには慣れた。
端は見えにくい場所であり、全体を見やすい場所でもある。
今日の出場メンバーは、リリィ、ロイ、ネル、アルフ、俺。
コレットは作戦席。
クララとノルは記録。
ガレスは控えで道具と水。
レイナとミラ、ジャックも控えだ。
ジャックはかなり不満そうだったが、クレストフォールの整った召喚庭で暴れると、たぶん五秒で事故る。
本人もそれを少し理解しているのか、文句は小さかった。
相手側は、セラ、ユアン、二人の召喚術師、そして守備補助の生徒。
フィーニスは、クレストフォール陣地の奥にある止まり木にいた。
白い綿羽。
淡い青の尾。
首元の銀輪。
かわいい。
そして、こちらを見る目はまったくかわいくない。
リリィの小袋。
迷子一号。
グレイ。
そのあたりを、フィーニスは最初から見ていた。
「嫌われていますね」
リリィが言う。
「まだ始まってない」
俺が返す。
「始まる前から嫌う旗です」
ノルが控え席からぼそりと言った。
「散らかる前に嫌う」
「的確な応援ありがとうございます」
リリィは笑った。
でも、手は小袋の紐をきちんと握っている。
迷子一号は封印布付き。
グレイは小さな透明皿に乗っている。
公式戦で未登録小型個体を持ち込むことについては、前日の共同観察記録に基づき、条件付きで許可が出た。
条件は厳しい。
出現範囲はカルミア陣地内。
フィーニスへの直接接触禁止。
危険反応が出た場合は即中止。
リリィ本人の中止宣言が最優先。
これだけ見ると、作戦というより実験に近い。
でも、今日は公式戦だ。
勝敗がつく。
実験がそのまま不利になる可能性もある。
リリィはそれをわかって、使うと決めた。
審判が旗を確認する。
クレストフォール側の自陣旗はフィーニス。
カルミア側の自陣旗は、コレットが設計した簡易防衛旗だ。今回は派手な罠ではなく、召喚個体の混入を検知する薄い輪を持つ。クレストフォールの統制召喚に対して、未登録と登録済みの違いを見分けるためだ。
皮肉なことに、俺たちも登録を使う。
ただし、閉じ込めるためではなく、見失わないために。
「開始します」
審判の声。
試合開始。
クレストフォールは速かった。
セラが手を上げると、三つの召喚陣が同時に光る。
小鳥が二羽。
ユアンの狐。
透明な魚を包んだ水球。
それぞれが決まった位置へ走る。
白い床の上に、きれいな配置ができた。
面制圧。
こちらの移動範囲を、戦闘ではなく配置で狭める。
アルフがすぐに一方向結界を張る。
「左前」
ネルが一瞬だけ魔力を出し、飛んできた小鳥の進路を少しずらす。
ロイは音を出さない。
まだ早い。
俺も風を使わない。
使えば小鳥を散らせるかもしれない。
でも、ここで風を使うと、クレストフォールの使い魔が予測外に広がる。
登録済みの小型個体が乱れれば、フィーニスの反応も変わる。
軽くしすぎると危ない。
山の言葉が、白い庭でも役に立つ。
リリィはカルミア陣地の後方で、皿を置いた。
グレイがぷるぷるしている。
迷子一号を横に置く。
「選びます」
彼女が言った。
コレットが作戦席から頷く。
「確認。リリィさんが選択」
リリィは小さな召喚陣を描いた。
今回は新しく召喚するのではない。
グレイの匂い追いを起動するための、小さな補助陣だ。
ロイが完了音ではなく、開始音を置く。
コン。
グレイが震えた。
迷子一号がほんの少し、フィーニスの方向へ寄る。
グレイも、のろのろと動き始めた。
遅い。
でも、向かっている。
フィーニスの旗痕跡ではなく、今度はフィーニス本体へ。
フィーニスの羽が逆立った。
遠い。
まだ距離はある。
それでも、反応した。
「反応あり」
クララが記録席で言う。
フィーニスが止まり木から跳ぶ。
予定では、ここでフィーニスが境界を強める。
その境界の向きから、逃走方向を読む。
グレイは餌ではない。
旗の境界を見るための小さな測定役。
リリィがそう決めた。
俺たちもそう扱うと決めた。
でも、フィーニスは予定通りには動かなかった。
白い羽が広がる。
境界を強める。
その瞬間、クレストフォール側の小鳥二羽が、フィーニスの拒絶反応に合わせて進路を変えた。
セラの指示ではない。
いや、セラが指示している。
フィーニスが嫌う方向を、クレストフォールの使い魔たちは知っている。
フィーニスが作った拒絶の流れに、小鳥が乗る。
こちらのグレイへではない。
カルミアの自陣旗へ。
「まずい」
アルフが言った。
フィーニスの拒絶が、相手の攻撃経路になった。
偶然の反応を利用するつもりが、相手はその反応に慣れていた。
リリィの顔が固まる。
「中止」
言うのが早かった。
彼女の中止宣言。
グレイを止める。
ロイが停止音を出す。
コ。
でも、遅かった。
グレイは止まった。
迷子一号も動かない。
しかし、フィーニスの拒絶でできた白い流れは残っている。
小鳥二羽がその流れに乗り、カルミア陣地の外側へ回り込んだ。
ネルが一瞬魔法で一羽を弾く。
弾くというより、進路を折る。
もう一羽はアルフの結界の外側をすり抜ける。
「右」
俺は言った。
風を使うか。
使えば止められるかもしれない。
でも、ここで風を使えば記憶を失う。
それに、小鳥が散ればさらにフィーニスが反応する。
軽くしすぎるな。
「ロイ」
俺が呼ぶ。
ロイはすぐに完了音ではなく、停止音を二度鳴らした。
コ、コ。
小鳥が一瞬だけ羽ばたきの調子を崩す。
音に慣れていない。
その隙にネルが手を伸ばす。
一瞬の魔力。
小鳥の進路が、自陣旗の薄い輪へ向かう。
輪が反応する。
登録済み個体。
混入ではない。
敵の使い魔。
薄い輪が光り、自陣旗が小さく後ろへ逃げた。
ぎりぎり。
奪取はされない。
だが、カルミアの防衛位置は崩れた。
セラがその隙を逃さない。
水球の透明な魚が、白い床を滑るように進む。
自陣旗の逃げ道を塞いだ。
クレストフォールは、整っている。
フィーニスの拒絶すら、攻撃の一部にする。
リリィの匂い追いは、相手にとって初見のはずだった。
でも、フィーニスの拒絶反応そのものは、クレストフォールがずっと扱ってきたものだ。
こちらが見つけた手がかりは、相手の地形でもあった。
リリィの顔が青い。
「私のせい」
小さな声。
試合中なのに、聞こえた。
俺はすぐに言った。
「違う。作戦のせいだ」
「同じです」
「違う」
言い切る。
ここで曖昧にしたら、彼女は自分ごと閉じる。
「中止宣言は早かった。そこは成功してる」
リリィは返事をしない。
グレイを皿に戻そうとしている。
手が少し震えている。
フィーニスはもうグレイを見ていない。
拒絶の流れを作ったあと、すぐ自分の陣地へ戻った。
白い羽を整えている。
まるで、こちらの混乱は自分の汚れではないと言うみたいに。
腹が立つ。
かわいい顔で、かなり腹が立つ。
だが、感情で動けば負ける。
コレットの声が作戦席から飛ぶ。
「防衛優先。匂い追いは中止状態を維持。ロイくん、停止音を基準に。ネルさん、輪の外へ出た個体だけ折ってください。ルカくん、風は保留」
的確。
リリィへの言葉ではなく、試合を続けるための指示。
それが逆にありがたかった。
リリィを慰める時間はない。
でも、彼女を置いていかない指示だった。
リリィは皿を持ち直す。
「匂い追い、中止状態」
声が震えている。
でも、言った。
「グレイ、保持。迷子一号、保持。再使用しません」
「確認」
コレットが言う。
記録席のクララも頷く。
「本人判断による中止」
その一言が、リリィを少しだけ支えたように見えた。
試合は続く。
クレストフォールの小鳥と水球が、カルミアの自陣旗を追い詰める。
アルフの結界は一方向。
全部は守れない。
ネルの一瞬魔法も、連発はできない。
ロイの音は小鳥に少し効くが、音を大きくするとフィーニスが反応する。
俺の風は、最後の保険。
使えば一気に崩せる可能性もある。
でも、代償がある。
そして何より、ここで風を使えば、リリィの中止判断を別の大きな力で塗りつぶしてしまう気がした。
それは違う。
俺は足で走った。
風ではなく、ただ走る。
カルミアの自陣旗の前に出る。
小鳥の進路を身体で遮る。
ユアンの狐が横から来る。
速い。
ネルが叫ぶ。
「ルカ、左」
俺は左へ半歩ずれる。
狐の爪が床をかすめる。
ロイの停止音。
コ。
狐の耳が動く。
その一瞬で、アルフが結界を張る。
左から右への一方向。
狐の進路を、完全には止めない。
少しだけ曲げる。
ネルが残りの一瞬魔法を使わず、手だけで床の砂を払う。
小鳥の足が少し滑る。
手作業。
魔法ではない。
それでも、足りた。
カルミアの自陣旗は逃げる。
奪取は防いだ。
だが、攻めには出られない。
フィーニスは遠い。
白い止まり木の上で、こちらを見ている。
リリィの匂い追いは、中止。
こちらの試みは、まず不利に働いた。
時間が過ぎる。
クレストフォールは焦らない。
召喚獣の配置でじわじわ押してくる。
カルミアは守るだけで精一杯になる。
コレットの敗北幻視が出ているのか、作戦席の彼女の顔が白い。
「三十秒後、右から魚」
彼女が言う。
未来の敗北だけが見える。
その負け筋を潰す。
アルフが右を見る。
ロイが音を置く。
ネルが動く。
俺が走る。
リリィは、皿を抱えたまま動けない。
いや、動かない。
中止状態を維持している。
それは仕事だ。
でも、彼女の顔は、自分が何もできていないように見えている顔だった。
俺は声をかける余裕がない。
そのまま、クレストフォールの魚が右から入る。
水球が床を滑り、カルミア旗の逃げ道を塞ぐ。
アルフの結界が間に合わない。
ネルの魔力も切れている。
ロイの音では水球は止まらない。
俺は風前確認をする。
戻り言葉。
ルカ。
使うか。
その瞬間、リリィが叫んだ。
「グレイ、動いてる!」
見る。
皿の上で、中止状態のはずのグレイが、ぷるぷる震えながら少しだけ水球のほうへ向いていた。
フィーニスではない。
水球の中に、フィーニスの拒絶で付着した白い羽の光がわずかに混じっている。
旗痕跡。
水球がフィーニスの境界を通ったせいで、微量の痕跡を持っている。
グレイはそれに反応している。
偶然。
不利に働いた偶然の、さらに奥に出た偶然。
でも、今はまだ使えない。
中止状態。
リリィが決めた中止。
俺は風を使わず、身体で水球の前に飛び込んだ。
肩に水球がぶつかる。
冷たい。
痛い。
でも、止まる。
水球の魚が方向を変える。
その隙に、アルフが結界を張り直す。
カルミア旗が逃げる。
また、ぎりぎり。
観客席が小さくざわめいた。
審判の声。
「時間終了」
公式戦は、旗奪取なし。
ただし、判定はクレストフォールの優勢。
領域支配、攻勢回数、カルミア旗への接近回数。
総合点で、クレストフォールの勝利。
カルミアは負けた。
また、負けた。
でも、ただ負けたわけではない。
いや、今はそう言うのも軽いかもしれない。
リリィは皿を抱えたまま立っていた。
顔が白い。
「私のせいで」
また言いかける。
コレットが静かに言った。
「作戦の失敗です」
リリィは首を横に振る。
「私が使うと決めました」
「はい」
コレットは否定しない。
「でも、中止も決めました。中止は成功しました」
「成功しても、負けました」
「はい」
「迷惑でした」
「いいえ」
今度は、コレットがはっきり否定した。
「不利になりました。迷惑ではありません」
リリィの目が揺れる。
不利。
迷惑。
その違い。
今日の試合で、リリィの匂い追いは不利に働いた。
だが、リリィ自身が迷惑だったわけではない。
作戦が相手に利用された。
中止判断は早かった。
その後、グレイは水球の旗痕跡にも反応した。
失敗の中に、次の情報がある。
でも、今すぐそれを言うと、リリィを作戦材料に戻してしまう。
俺は皿のグレイを見た。
グレイはぷるぷるしている。
迷子一号は動かない。
ロイが完了音を出すか迷い、出さなかった。
今は完了していない。
セラが近づいてきた。
ユアンもいる。
フェルン先生は少し離れて記録を持っている。
リリィは身構えた。
昔なら、ここで言われたのだろう。
またか。
迷惑だ。
予測不能。
授業を止めた。
試合を壊した。
セラはリリィの前で止まった。
「中止判断が早かったです」
リリィは黙る。
セラは続ける。
「フィーニスの拒絶を攻撃経路に転用したのは、こちらの戦術です。あなたの召喚が迷惑だったわけではありません」
リリィは笑おうとして、失敗した。
「優しいですね。勝った側は余裕があります」
ユアンが少し顔をしかめる。
「余裕じゃない。あれ、怖かった」
「狐の台座さんが?」
「俺じゃなくて、フィーニスがだ」
ユアンはフィーニスを見る。
白い旗は羽を整えている。
「あいつ、グレイを嫌がりすぎた。だから流れが強くなった。俺たちは慣れてたから乗れたけど、次に同じことされたら、同じように使えるかはわからない」
リリィは少しだけ目を上げる。
「また期待ですか」
ユアンは首を横に振った。
「警戒だ」
その言葉に、リリィの表情が変わった。
期待ではなく、警戒。
迷惑ではなく、戦術上の警戒。
それはクレストフォールの生徒から出た、かなり重要な言葉だった。
フェルン先生が記録を見ながら言う。
「公式戦記録には、カルミア側匂い追い使用、クレストフォール側拒絶流転用、カルミア側本人判断による中止、と記載します」
リリィが聞く。
「迷惑は?」
「記載しません。試合上の不利です」
リリィは長く黙った。
それから、ぽつりと言う。
「負けたのに、少しだけましですね」
誰も笑わなかった。
でも、空気は少しだけ緩んだ。
控室に戻ると、リリィは椅子に座り、皿を机に置いた。
迷子一号。
グレイ。
どちらも無事だ。
「偶然は、味方の顔をしていませんね」
リリィが言う。
「今日は敵だった」
俺が言うと、彼女は首を横に振った。
「敵というより、空気を読まない通行人です」
「嫌な通行人だな」
「ええ。私の召喚らしいです」
コレットが記録板を開く。
「今日の記録を確認します」
リリィは頷いた。
コレットは書く。
公式戦、クレストフォール勝利。
匂い追い使用。
フィーニスの拒絶反応をクレストフォール側が攻撃経路に転用。
カルミア防衛崩壊、旗奪取は防ぐが判定負け。
リリィ、中止判断成功。
グレイ、水球に付着したフィーニス痕跡へ反応。
匂い追いは不利に働いたが、迷惑ではなく戦術上の失敗。
リリィはその最後の行を見た。
「迷惑ではなく戦術上の失敗」
「はい」
「便利ですね」
「必要なので」
リリィは少しだけ笑った。
疲れた笑いだった。
でも、笑えた。
「では、次はどうしましょうか」
その言葉に、全員が彼女を見る。
リリィは自分でも驚いたようだった。
「今、私、次って言いました?」
「言った」
ネルが即答する。
リリィは顔を覆った。
「負けた直後に、次を考えるなんて、第七部に毒されています」
「いい毒だろ」
ジャックが言う。
リリィは指の隙間から睨む。
「毒にいいも悪いもありません」
「あるだろ」
「ありません」
いつものやり取り。
でも、そこに次がある。
負けた。
偶然は不利に働いた。
でも、次がある。
次の第七部の仕事は、たぶん決まっている。
偶然を、偶然のまま作戦に入れること。
制御するのではなく、余白として扱うこと。
俺はグレイを見る。
弱そうな灰色の小さなものは、完了音もないのにぷるぷるしていた。
迷子一号は、その横で動かない。
今日、偶然は味方ではなかった。
でも、完全な敵でもなかった。
ただ、まだ誰の言うことも聞いていないだけだ。
それなら、次は命令ではなく、居場所を作るところから始めるべきなのかもしれない。




