6-2
「戻りました」
声をかければ「どうぞ」とロナルドの声が返事をくれた。
クラリスは、ワゴンを押して中へと入る。シュティーが、起き上がりのしのしとこちらにやって来た。ゴロゴロと喉を鳴らして頭を擦り付けて来るので、その大きな頭を優しく撫でた。
「ちょっと離れていただけじゃないか」
ロナルドが呆れたように笑う。
「ふふっ、シュティーは甘えん坊さんなんですよ」
「にゃー」
可愛い声でシュティーがお返事をしてくれる。クラリスはもう一度、シュティーを撫でて彼らの元へ行き、新しくカップに紅茶を注ぐ。
「フェアクロフ侯爵令息様」
シンディがロナルドを呼ぶ声にクラリスは手を止めて、顔を上げる。
「……やはり、私はそろそろお暇させて頂きます。ジェフリー様はまだお話があるのでしょう? トラストさんを貸していただいてもよろしいかしら? 彼がいれば私たちも帰れ」
「まだ、まだ帰らないでくださいませ」
クラリスは、シンディの言葉を遮った。
立ち上がろうと腰を浮かせたシンディが中途半端な姿勢のままでクラリスを見上げた。
クラリスは手に持っていたポットをワゴンの上に置く。
「……まだ、お嬢様には聞きたいことが、あって」
「私に? 何かしら」
シンディの表情は平坦でかすかに形の良い眉が上がっただけだった。
「お、お母さんの教会のこととか……」
「シェリー様が暮らした教会は、トゥイグ地区のオルタンシア教会よ。孤児院はね、成人したら出ないといけないの。シェリー様も十八歳で孤児院を出て、もともと歌が上手で、働いて酒場でそのまま歌姫として働いていたそうよ。その時の住まいは、酒場近くのアパートメントだったと聞いているわ。もちろんそこは父が手を回して退去しているけどね」
ゆっくりと立ち上がりながらシンディが淡々と教えてくれた。
その情報量にクラリスが動揺しているとロナルドが「俺がメモしておくよ」と手帳にペンを走らせながら言ってくれた。クラリスは、その気遣いにお礼を言ってシンディに向き直る。
「……もういいかしら? フェアクロフ侯爵令息様、失礼いたしますわ」
青い眼差しがクラリスから外されて、シンディはドアへと歩き出す。
クラリスは慌ててその手を掴んで止めた。長い尻尾が不機嫌に揺れた。
「どうしたの? まだ何か?」
面倒くさそうにシンディが振り返る。
「お礼を……お礼をお伝えしたくて」
「……お礼を言われるようなことは何一つないと思うのだけれど?」
「先ほど、シャドウゲッコーに襲われた時」
姉の手を握る手に力を込める。
「お嬢様は、私を抱きしめて守ろうとしてくださいました」
そう、あの時、シンディはクラリスを力強く抱きしめて、シャドウゲッコーから守ろうとしてくれた。クラリスが離れようとした時は、大丈夫なのかと心配してくれて、すぐには離してくれなかった。
「あれは別にそんなつもりは」
シンディは眉を寄せて逃げるように視線を外した。
「私、本当に何も気づけませんでした」
あの時、シンディがクラリスを守ろうとしてくれたと気づけたのは、いつもそうやってロナルドがクラリスを守ろうとしてくれていたからだ。
「お嬢様は……いつも言葉が冷たくて、私にあれこれ言いつけて、宿題まで押し付けて、でも……私、お嬢様の優しさに一つも気づけませんでした」
「優しさなんて、そんなもの私にはないわ」
シンディが吐き捨てるように言った。
「……奥様が私に声を荒らげている時、いつも『なんの騒ぎですの』と間に入って来て、私に『ドレスを整理して』とか『クッキーが食べたいから作って』と用事を言いつけました。そして奥様には『お母様、こんなの放っておいて、出かけましょう』と『一緒にお茶をしましょう』と連れ出しました。今考えれば、勉強だって、あんな不自然な衝立、家庭教師の先生が不思議に思ってもしょうがないのに、先生は何も言わないで授業をしていました。『私が恥をかくわ』とアリスとレイラも一緒にマナーや立ち振る舞いを講師に習わせました。…………お嬢様が、一口しか食べなかった食事が私に出されるのは、いつも……奥様が夜会や晩さん会でいない夜でした」
逃げ出そうとするシンディの手をクラリスは逃がすまいと力を込める。
「私、ずっと……お嬢様に……お姉さまに、守られていました……っ」
そうだ。
クラリスは、ずっとずっとシンディに守られていた。そして同時にシンディは壊れゆく母を守ろうとしていたのだ。
ゆっくりとクラリスより少し明るい青い瞳がこちらに向けられる。
「同時に、奥様にも私は守られていました」
ミランダは、確かにクラリスに辛く当たったけれど、それでも家事を教え、勉強の時間を与えてくれたのは嘘ではない。
「今思えば、奥様はだんだんと私に当たるようになりました。きっと、成長するにつれて母に生き写しの私を見るのが、お辛かったのだと……今なら分かります」
「そう、ね。貴女は本当に……シェリー様にそっくりだもの」
「でも……お二人が教えて下さったことが、今、私を生かしてくださっています」
同時にロナルドの命も助けてくれたのだ、と心の中で叫ぶように告げる。
「メイドのお仕事ができたから、私は縁あってここで働くことができました。アランさんやモニカさんの優しさに触れて、ロナルド様の愛に触れて……だからようやく、お姉さまの愛にも気づけました」
シンディは何も言わない。形の良い唇は固く結ばれたままだ。
「お母さんが、最期に遺してくれたものが、傷ではなく愛だと、知ることができました」
「クラリス」
握りしめたままだった姉の手にもう片方の姉の手が重ねられた。
「シェリー様は、間違いなく貴女を愛していたわ。……本当はもっと早く伝えるべきだった。お母様がシェリー様の最期の言葉の本当の意味を伝えず、貴方を詰る時、止めるべきだった。でも……できなかった」
今度はシンディの手がクラリスの手を強く握りしめた。
「成人するまで、貴女をあの家から逃がすわけにはいかなかった。貴女とシェリー様の自由を奪い、苦しめた私たちが赦されるわけにもいかなったの」
「……教会は誰でも慰問できる」
おもむろにロナルドが口を開く。
「もしクラリスが教会の孤児院に預けられて、成長し、シェリー様にそっくりな姿になった時、もう一度、それを知った父親が凶行に及ぶのを防ぎたかったのではないか?」
シンディの肩がかすかに跳ねた。
「君は言っていた。父の味方は彼の乳母だけだった、と。貴族の家は教会と違って、そう簡単に誰でも訪れられるわけじゃない。だからアシュリー伯爵家の中であれば、父親にシェリー様に年々近づいて行くクラリスの存在を知られることはなかった。なぜなら、アシュリー伯爵家の人間は皆、クラリスを守ろうとしていたからだ。伯爵夫人と君の命を守ってくれたシェリー様の娘を」
「そんなっ、そんな立派なものではありませんわ……っ」
シンディの声が乱れる。
「私たちには『それしかできなかった』 ただ、それだけです。……でも、もう大丈夫ね」
シンディの青い眼差しが優しく細められた。
「……フェアクロフ侯爵令息様には、どうやっても父は勝てないわ。権力も名声も富も、魔力や剣術でも何一つ勝てないもの。フェアクロフ侯爵令息様なら、あの狂気の塊のような父から、間違いなく貴女を守ってくれる」
「お姉さま」
「だからアシュリー伯爵家のことも、私のことも、お母様のことも、貴女はもう何もかも忘れて、自由に生きて行くの。もう会う必要もないの。あの家のことは私がなんとかするから」
「いやです!」
クラリスは首を横に振った。
「やっと……やっと、知ることができたのに、忘れるなんて出来ません。私を生かしてくれたのは、確かにお姉さまなのに……!」
シンディの唇が震えた。
「私は、これから……お姉さまと新しく関係を築いていきたいです。私、お母さんに似て、歌だって上手なんですよ? それに翼だって……」
クラリスはシンディの手を放し、服のボタンをはずして翼を広げた。
ばさりと広がった美しい翼にシンディが息を呑んだ。
彼女の知る風切り羽を切られたみすぼらしい翼は、もうクラリスの背にはない。そこには美しく艶やかな本来の翼があるのだ。
「私が……お母さんの願った通り、自由に、幸せに生きて行くのを見ていてほしいです」
震えそうになるものを、溢れそうになるものを必死に押さえて、クラリスは懸命に言葉を紡ぐ。
「確かに……母を喪ってからの日々は、辛かったです。傷ついた言葉もあります。でも、お姉さまのしたことは、奥様が下した決断は、間違いなんかじゃなかったって、私がこれから証明していきます」
シンディの青い瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。
「…………私、シェリー様の歌が好きだったの」
ぽつぽつと静かな雨のようにシンディの声が降る。
「何も、知らなかったから……なんて綺麗な人が、なんて綺麗な歌声で歌っているんだろうって思っていたわ。いつもお膝では、小さな可愛い女の子が眠っていて、我が家の離れにいるこの人たちは誰なんだろうって……でも、なんとなく子どもでも近づいていけない空気は分かって、木の陰から覗くだけだった。でも、メイドがある日教えてくれたの。……貴女が私の妹だって教えてくれて、私、嬉しかったの。でも……より詳しい事情を知るにつれ、父が、母が、自分が、赦せなかった」
「お姉さまは、何も悪くないです……!」
ぽろぽろとクラリスの頬も涙が落ちていく。
シンディは、ふっと苦笑を零してハンカチを取り出して、涙をぬぐってくれる。
「……クラリスは、本当にシェリー様そっくりね。見た目も歌声も翼も……相手の罪をあっけなく赦してしまう身勝手なところも、本当にそっくりで……その身勝手さに安堵してしまう私が自分勝手で嫌になってしまうわ……っ」
細い腕がクラリスを力強く抱きしめてくれる。クラリスも負けじとシンディを抱きしめ返した。
「私……クラリスのお姉さまでいていいの……っ?」
「私のお姉さまは、シンディ・アシュリーしかいません」
ささやくような問いかけにクラリスはきっぱりと言い返した。
姉の肩の向こうでロナルドが微笑んだ。クラリスも目一杯の笑みを返す。ジェフリーは「めでたしめでたしだね」と笑っていた。
「お姉さま、私の歌、聞いてくださる?」
「ええ。小さい頃、貴女がシェリー様と歌っていたのを聞いた以来だわ」
顔を上げたシンディが、ふんわりと笑った。きらきらと零れ落ちた涙が宝石みたいに綺麗で、クラリスもつられて笑った。
明日は朝7時と夜7時の2回更新予定で、明日で完結です。




