5-3
バリーンと窓ガラスが割れる音が響き、その破片がパラパラと飛び散る音が響き渡った。
「ジェフリー! 無事か!?」
「は、はい!」
クラリスとシンディに覆いかぶさって庇ってくれたロナルドが叫ぶ。
「早く入口の方へ!」
「はい!」
「クラリス、シンディ嬢、立てるか?」
二人はこくこくと頷いて、先に立ち上がったロナルドとジェフリーの手を借りて、なんとか立ち上がる。
「い、一体、何が……ひっ!」
窓の方を見たシンディが悲鳴を上げた。
おそらくシュティーがやったのだろうが氷で覆われた窓の向こうに何か黒い大きな生き物が張り付いている。
「なんだろ、ヤモリかトカゲ系の何かかな!?」
こんな時でもブレないジェフリーが目をキラキラさせて興奮気味に叫んだ。
ドアが勢いよく開いて、コーディが飛び込んでくる。
「師団長! 三番隊が避難誘導、開始しています!」
「侍女たちは!?」
「トラストさんが護衛を買って出てくれ、すでに階下に! 三番隊の三名が地下のワインセラーに従業員一同逃げるよう、指示しています。残りは外でそいつを壁からはがそうとしているかと!」
「よくやった! コーディ、ここは俺とシュティーがなんとかする、クラリスたちを地下へ!」
「はい! さあ、こちら」
コーディがこちらに駆け寄って来ようとした瞬間、クラリスとシンディは息を呑んだ。
黒いヤモリが小鳥姿のシエルよりも小さくなって消えたのだ。
だが、それはほんの一瞬で割れた窓ガラスと氷の隙間から、にゅるりと入り込んでくると、天井に張り付いたまま元の大きさに戻った。
「なっ、大きさが変わった……!?」
コーディが驚愕に目を見開く。
「あの目……シュティーたちと同じ」
天井からクラリスたちを見下ろすその目が、昏く光っている。シュティーたちや、あの薔薇園でクラリスを襲って来た蛇たちと同じだ。
「あいつ……!」
ジェフリーが息を呑む音が聞こえた。
「コーディ、今すぐ避難」
ロナルドが言い切るより早くなんと、その巨大なヤモリがはじけた。
「「ひっ」」
クラリスとシンディは同時に悲鳴を上げた。
無数の小さなヤモリが部屋中を走り回り、そして、こちらに飛びかかって来た。
「クラリス!」
シンディに叫ぶように名前を呼ばれたかと思えば、クラリスは姉の腕に守られるようにして抱きしめられた。
ロナルドとコーディが前に出て短剣に持ち替え、それらを切り捨てるが、まるで霞を切るかのように小さなヤモリは消えて、数が減らない。ジェフリーが自分たちを庇うように目の前に立ちはだかる。
「幻か……!?」
「こ、こいつは、おそらく、シャドウゲッコーです! 非常に臆病で、すばしっこく、ほぼすべて幻で、先ほどのように体を大きく見せたり、こうやって数で相手を惑わせたりして、逃げるんです! 南のヒビスクス国の魔物で、本体を叩かないと意味がありません!」
「ヒビスクス!? うちから行くのに半年もかかる国の魔物がなんで……!」
コーディが声を上げる。
「クラリス、頼む!」
ロナルドが叫んだ。
「は、はい!」
クラリスはシンディの腕の中で返事をして、息を吸い、いつもの女神の春の歌を歌う。
シンディが驚いている顔を横目にクラリスは彼女の腕の中で必死に歌う。本来の姿になったシエルがクラリスの頭上で翼を広げ、飛びかかって来るヤモリ――シャドウゲッコーを翼で起こした風で叩き落としてくれる。シュティーも俊敏に動き回り、分身を叩き潰す。
シャドウゲッコーの分身が徐々に減っていく。
「閣下、あそこ、あいつが大きくなっています!」
ジェフリーが叫んで壁の絵画の上を指さす。ロナルドがテーブルを乗り越え、捕獲しようとするがヤモリは素早い動きで逃げ回る。
「師団長! できれば殺さない方向性で!」
「分かっているが、すばしっこすぎる! シュティー! 隙間なく窓を凍らせてくれ!」
「……」
「シュティー!」
二度目に怒鳴られて、シュティーが渋々、窓を凍らせ始めた。あれは後で話し合わなければならないとクラリスは歌いながら心に決めた。
クラリスの歌の影響でシャドウゲッコーの分身はほとんど姿を消して、大分大きくなった本体をロナルドとコーディが追いかけ回す。
ふとクラリスはジェフリーの言葉を思い出す。
『非常に臆病で』
シャドウゲッコーの説明をするときジェフリーはそう告げた。
これまでのこの魔獣もどきは、シュティーたちもあの蛇たちも苦しみ、脅えていた。それが臆病な性格の魔物なら、どれほど今、怖い思いをしているだろうか。
「ロナルド様、コーディ様、止まってください!」
歌を止めたクラリスの呼びかけに、二人が動きを止めた。全ての分身を消したシャドウゲッコーは観葉植物の中に逃げ込んだ。
「クラリス?」
シンディがクラリスを呼ぶ。
「お嬢様、ちょっとだけ離してくださいませ」
「でも」
「大丈夫です。何があってもロナルド様が守ってくださいますから」
クラリスが微笑みとともに振り返れば、ロナルドが頷いた。
シンディがおずおずと腕の力を緩めてくれたので、その腕から抜け出し、観葉植物のほうへ近づいて行く。
「大丈夫よ、怖い思いをさせてごめんなさい」
クラリスはそう告げて、今度はもっと優しく、包み込むように女神の春の歌を歌いながら近づいていく。ロナルドがぴたりと横に張り付いて、守ろうとしてくれるのに微笑んで、ゆっくりゆっくり近づいて行く。
「~~~~~♪ ……ほら、大丈夫、怖いものはないわ。おいで」
クラリスが手を差し出すと、シャドウゲッコーが頭を出した。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
「ちゅんちゅん!」
小鳥姿になったシエルも優しく声をかける。
シャドウゲッコーは、ゆっくりゆっくりびくびくしながら出て来て、クラリスの手に頭を乗せた。クラリスの手のひらくらいの頭をもう片方の手で優しく撫でる。
「少しだけ痛いけれど、苦しみを取り除いてあげますから。……シエル」
「ちゅん!」
シエルがシャドウゲッコーの頭の付け根を嘴で傷つけた。ロナルドが慎重にあの時と同じ魔石を取り出す。
するとやはりシャドウゲッコーの体がスルスルっと縮んでクラリスの手の平におさまるサイズになった。
顔を上げたシャドウゲッコーの大きな目は、綺麗な銀色で黒い体も星のように銀色の斑点が浮かんでいる。尻尾は細長いのではなく、狐の尻尾みたいにふっくらしている。
「まあ、とても綺麗」
「……君には本当に、敵わんなぁ」
ロナルドがぼりぼりと頭を掻きながら言った言葉にクラリスは、ふふっと笑みを返すのだった。
コーディが「さすがです」と苦笑しながらこちらにやって来る、のをジェフリーが追い越してきた。
「うわぁ、うわぁ、うわぁ!」
語彙力を失ってしまったジェフリーがそっとクラリスの手のひらの上のシャドウゲッコーをあらゆる角度でのぞき込む。シャドウゲッコーは敵意がないと分かっているのか、疲れてしまっているのか、おそらく半々だろう。じっとしている。
「図鑑でしか見たことのなかったシャドウゲッコーを生でお目に掛かれる日がくるなんて……っ」
ジェフリーが涙ぐんでいる。
「すごく貴重な魔物なんですよ! すばしっこいから捕獲が難しいですし、この小ささと色ですから、熱帯の森の中で見つけることがそもそも困難で! これまでずっと幻の生き物だと思われていて、実はほんの二十年ほど前にようやく確かに存在する種として認められたばかりの魔物でして!」
「よくご存知ですね。……では、この石に関しても、ご存知ではないですか?」
コーディの手がジェフリーの手首をがしりと掴んで止めた。シャドウゲッコーに伸ばされていたジェフリーの手が止まる。
コーディのもう片方の手がガラス瓶を持っていて、その中にこのシャドウゲッコーから取り出された魔石が入っていた。
「コーディ?」
ロナルドもなんのことか分かっていないようで、不思議そうに事務官を呼んでいる。クラリスはシャドウゲッコーを手に乗せたまま、ロナルドの背後に隠れる。
すると少し遅れてシンディも不穏な空気を感じ取って、クラリスの下にやって来た。シエルはクラリスの肩の上、シュティーはロナルドの横で成り行きを見守っている。
「アシュリー伯爵令嬢、お尋ねしたいことがあります」
「は、はい」
シンディが呼ばれたことに驚いた様子で返事をする。
「先日、貴女が師団長に託した手紙の中に同封されていたイアルホール侯爵令息からの紙は彼が書いたものですか?」
「……はい。ジェフリー様にお願いするに当たって、書いていただきました」
「あの紙に触れたのは、誰と誰ですか?」
「私の侍女のレイラが用意して、私が渡しました。目の前で書いていただいて、その場で同封して、封をしたのでこの三人になります」
シンディが戸惑いながらも迷いなく答える。
「……イアルホール侯爵令息が書いた紙からは、この石と似通ったにおいが感知されたんです。心当たり、ありますか?」
コーディは油断なく探るようにジェフリーの顔をのぞき込む。ジェフリーは困ったように眉を下げて視線を右へ、左へとさまよわせた。
「一回目の広場での襲撃事件の際、貴方はあそこにいましたね? そして、こめかみを怪我している」
「ええ、石か何かが飛んできて、運悪く」
「奇遇ですね。一回目の事件の際、魔獣を操っていると思しき人物の頭にうちの者が魔石を全力でぶつけているんです。手で頭を押さえていたので、負傷箇所は間違いありません。そして救護所の治療記録にも貴方の怪我に関する記録は残っています」
「……えーっと、もしかして、僕、容疑者になってます?」
コーディの目は油断なくジェフリーを見据えていて、普段の優しい彼しか知らないクラリスは、シンディと一緒になってロナルドの陰に隠れるしかできない。
「いや、あの、ええとですね、あのー、なんと言えばいいか……」
「ジェフリーが犯人? コーディ、どういうことだ?」
ロナルドも詳しいことは知らないようで、困惑している様子だった。
「この石の魔力とジェフリー・イアルホール侯爵令息の魔力、においが非常に似ているんです」
コーディがもう片方の手に持つ瓶を揺らせば、中で魔石がころころと転がる。
「先日、師団長がアシュリー伯爵令嬢から頂いた手紙に入っていたジェフリー・イアルホール侯爵令息のメモに残っていたにおいとこの魔石のにおい、同じではないですが非常に近いにおいがするんです。それは僕以外の嗅覚に優れた騎士にも確認してもらっていますが、確証がありませんでしたのでお話はまだしていませんでした」
「なるほど……それでジェフリー、君は犯人ではないとのことだが」
「はい。僕は違います……でも、心当たりはあるんです、正直なところを申し上げますと」
「心当たり?」
「はい。犯人は僕の……従兄弟だと思います」
「従兄弟?」
こくこくとジェフリーが頷く。
「アシュリー伯爵令嬢、ジェフリーには従兄弟がいるのか?」
「ええと……確かジェフリー様は私の叔母の旦那様のお姉さまの息子で、私とは血のつながりはありません。ジェフリー様のご両親に関しては、あまり存じ上げず……」
シンディもクラリス同様、貴族関係は教わったはずだが、他国の血縁関係のない親戚までは把握しきれていないのだろう。シンディの声は頼りなく揺れている。
「シンディ嬢が知らなくても無理はありません。父方の従兄弟ですから、シンディ嬢というか、アシュリー伯爵家とはほぼ何も関係がありませんから」
ジェフリーが申し訳なさそうにシンディに頭を下げた。シンディはどうしていいか分からないと言った様子でジェフリーを見つめている。
「父親同士が双子なんです。鏡があるのかと錯覚するほどそっくりで、僕もあいつも父親に似たものですから、驚くほどよく似ています。だからもしかすると魔力のにおいも似ているのかもしれません」
「……従兄弟」
コーディが呟く。
「まあ、正直なところ、事件を起こした本人ではないなとは思ってはいるんですが」
「そうなのか?」
「においが根本的な部分で違うので」
コーディがしかめ面で応える。
獣人族の嗅覚特化の種族ではないと分からない情報だが、だからこそ、その精度は確かでもある。
「とりあえず本所までご同行頂いて、お話しをお聞きしたいのですが?」
「第二師団に行けるんですか!? 行きます! 話します! なんでも話します!」
ぱぁっと顔を輝かせて、自分を掴むコーディの手を取ったかと思えば、ぶんぶんと握手するジェフリーにコーディが「間違ったかも」という顔をした。
「任意同行を求められて、こんなに喜ぶなんて……きっと世界で彼だけだわ」
シンディが呆れたようにつぶやく言葉にクラリスとロナルドは、苦笑を零す。
「だが、本所に連れて行くのはな……騒ぎを大きくしたくない。とりあえず我が家で頼む」
「そ、そんなぁ!」
ロナルドの言葉にジェフリーが肩を落とす。
きっと、騎士団に連れて行ってもらえなくて、ここまでがっかりするのもジェフリーだけだろう。
「シンディ嬢は、どうする? よければ俺から直接、伯爵夫人に説明をしようか? もちろんクラリスのことは伏せておくが」
「いえ! いけません!」
シンディが慌てて首を横に振る。
「母には絶対に内緒にしてほしいのです。母に知られたら家から出してもらえなくなります。母は心配性なので……」
「だが」
ロナルド様が困り顔で頬を指で掻く。助けを求めるような視線が向けられてクラリスは頷く。
「奥様は、一人娘のお嬢様を本当に大切にしておいでで、前に紙で指を切った時もそれはもう取り乱されて大変だったのです」
「友人へ手紙を書くのをあと少しで禁止されるところだったのですわ……」
シンディがため息交じりに詳細を付け加えた。
シンディのことに関しては、ミランダはクラリスに対するアラン並みに過保護な人なので(クラリスがうっかり針で指をさしてしまった時、彼は同じくらい騒いでいたのだ)、今回の騒動を知ったら、シンディは間違いなく外出を禁じられるだろう。
「隠蔽は僕にお任せ下さい。伯爵夫人に知らせるのは、クラリス嬢に関しても危険が伴いますので、僕も隠したほうがいいと思います」
「僕も協力できる部分は協力しますので」
コーディとジェフリーがこちらにやって来た。
「確かに、誠意を見せ続けるのが得策とは限らないな。分かった。今日連れて来ているのは三番隊だし、彼らは口が堅いから安心してくれ」
「我が儘を申し上げているにも係わらず、ご配慮、ありがとうございます」
シンディが頭を下げるとロナルドが顔を上げてくれと慌てる。お嬢様、とクラリスが促せばシンディはおずおずと体を起こした。
「とりあえず、ここは色々危ないし、移動しよう。あとは三番隊に任せてしまって大丈夫だろうか?」
「はい。被害はこの部屋だけのようですから」
「ではそうしよう。足元に気を付けて」
「あの、ロナルド様」
歩き出そうとしたロナルドを呼び止める。どうした、とロナルドが首を傾げた。
「この子は、どうしましょうか……」
クラリスは、肩の上でシエルにぴたりとくっつくシャドウゲッコーを指さす。
「「あ」」
あまりに大人しいものだから、ロナルドとコーディもその存在を失念していたらしい。
「あー……とりあえず、おいで」
コーディが声をかけ、捕獲用のガラス瓶を取り出してその口を近づけるが、シャドウゲッコーはぷるぷる震えてシエルの翼の下に顔を突っ込んでいる。シエルも翼を広げて迎え入れている。
「怖い思いをしたからなぁ……まあ、クラリスがいれば悪さはしないだろう。このまま連れて行こう」
「ああ。頼む」
コーディが一礼して一足先に部屋を出ていく、クラリスはロナルドに、シンディはジェフリーに腕を借りて、ガラスや天井、壁の破片が散らばる部屋を慎重に後にしたのだった。




