5-2
「私とクラリスの父、カーティス・アシュリーは……すべてに無関心な人です。娘の私にも正妻であった母、ミランダにも。いえ、それどころか実の両親、妹、友人、人間関係だけではなく服や食べ物、お金や権力、美しい景色、本、絵、世界のすべてに無関心でした。まるで人形のように感情の起伏もない人でした」
シンディは淡々と告げる。
「その父が唯一、執着したのがクラリスのお母様であるシェリー様でした」
「クラリスのお母上は下町の歌姫だったと聞いた」
ロナルドの問いにシンディは頷く。
「シェリー様が連れられてきた時はまだ私も母のお腹の中でしたので、これは後々、使用人たちに聞いた話だと前置きしておきます」
「ああ」
「ある日、父は数少ない父を見放さなかったご友人に連れられて、王都の下町の酒場へとお忍びで出かけたそうです。そこで歌うシェリー様に一目惚れし、なんとその場で強引に連れ去って来たらしいのです。もともと我が家の離れは、客人が滞在するように作られたもので、使用人たちがいつでも使えるように管理していたので、シェリー様はそこに閉じ込められました」
「家の者は誰も止めなかったのか?」
「もちろん止めたそうです。一緒に行ったご友人も家令もメイド頭も侍従も、当時、健在だった祖父母も止めたのです。仮に父とシェリー様が愛し合っていたならともかく、出会ったその場で連れ去って来たのですから、これは立派な誘拐です」
確かにその通りだとクラリスは今更気が付いた。連れ去られてきたと母から聞いていたのに、そんなことを考えたこともなかった。
「母も、止めたそうですが……父は誰の言葉も聞き入れず、シェリー様を離れに監禁したのです。父の味方は父の乳母だけでした。……その後、何度かシェリー様を逃がそうと試みたそうですが、父が使用人に怪我をさせ、さらには心中騒ぎを起こして、家のことを諦め、騎士を呼ぼうとした祖父に、母を……ミランダを殺すと脅し、誰も彼も諦めるほかなかったのです」
「伯爵夫人を……殺す、と?」
クラリスは初めて聞く事実に声が震える。
ロナルドが気遣うようにテーブルの下でクラリスの手を握ってくれた。
「その時、母は私を身籠っていました。だから余計に誰も何もできず、シェリー様が『逃げないから』と庇って下さり、自ら翼を切ったのです」
シンディはそこで言葉を切って「失礼します」と告げるとハーブ水を飲んだ。コトリ、とグラスがテーブルの上に戻る小さな音が静まり返った部屋に響く。
「……クラリス」
「は、はい」
急に名前を呼ばれて背筋を正す。
「私ね……貴女のお母様の歌が好きだったの」
「え?」
思いがけない言葉に目を瞠る。
シンディは青い瞳を優しく細め思い出を辿るように窓の外へ顔を向けた。
「私も幼かったから、あまり思い出はないけれど、離れのお庭でシェリー様が歌っているのを庭の木の陰に隠れて聞くのが好きだったの。七歳くらいから、お話をすることもあったのよ。貴女はいつも、シェリー様のお膝で眠っていたわ」
シンディの声はその眼差しと同じく優しかった。
「私のお母様はね、本当はとても優しくて、明るくて、素敵な貴婦人だったの。お母様がお父様のいない時はシェリー様とお話ししている姿もよく見かけたわ」
「夫人とシェリー様は仲が良かったのか?」
「それは、さすがに分かりません。でも母もシェリー様もお互いに負い目があって、仲良しこよしとはいかなかったとは思います」
「それは……そうだろうな」
ロナルドが何とも言えない顔で口を結んだ。
正妻と愛人。この二つが相容れるのはなかなかに奇跡的なことだと思う。
ミランダとカーティスは政略結婚で、二人の間にどのような感情があったかは知らない。
でも普通なら夫が愛人を連れてきたら、追い出しにかかるか、離縁をするだろう。だが父がしたのは誘拐で、ミランダはシェリーに庇ってもらったという恩がある。
母とミランダは、どんな話をしていたのだろう。
「……でも、シェリー様は十年前、風邪をこじらせて亡くなってしまったわ。父はあらゆる医者を呼びつけて、様々な薬や治療を試したけれど、シェリー様はあっという間に儚くなってしまった。……遺されたのは、まだ八歳の歌うことしか知らない貴女だけ」
窓の外を見ていた青い瞳がクラリスに向けられた。
その目が悲しみに揺れている。
「……お、お嬢様は母が……母が、父に私を『いらない』と言ったのはご存知ですか?」
「ええ。知っているわ……だって私もその場にいたもの」
「……え?」
「あの場にはね、お見舞いに行った母と私もいたの。母のことも覚えていない?」
クラリスは記憶を思い起こしてみるが、頭の中に浮かぶのはベッドに横たわる母とその手を握る父の姿だけで、ミランダとシンディの姿はどこにも見当たらない。
「覚えていなくても無理はないわ。私の記憶の中でも父がうるさいもの」
シンディは苦い笑みを浮かべた。
「……でしたら、あの、母が私を『いらない』といった、前後のこと、何か知ってらっしゃいますか?」
クラリスの問いにシンディはもう一度、ハーブ水を飲むと立ち上がった。
何をするのかとクラリスが瞬きをしている間に、シンディはこちらにやって来て、驚いたことにクラリスの横に膝をついた。
伸びて来た細い手がクラリスの手を握ろうとしているのに気づいて、ロナルドの手がその場を譲る。
レースの手袋に包まれた細い手がクラリスの手を握った。
「……『わたし、もうあの子、いらないわ』」
それはあの日の母の言葉だった。
「『だから、捨てて来て』」
ナイフが胸に突き立てられたかのような痛みが走って、シンディの手を払いのけようとしたのに、シンディの細い手は痛いくらいの力でクラリスの手を握りしめている。
「……『わたしの、わたしが、くらした、トゥイグ地区の、教会の孤児院に、あの子をすててきて、お願い』」
シンディは、一言一言を噛みしめるように告げるとはぁっと大きく息を吐きだした。
クラリスの手を握りしめるシンディの手が震えている。
「シェリー様はね、貴女を逃がしたかったの」
「私、を、逃がす……?」
意味が分からなくて、クラリスは答えを求めてシンディを見つめる。
「私も詳しくは知らないけれど、その教会の孤児院はシェリー様が育った場所らしいの。優しいシスターとたくさんの家族がいたと教えてくれたわ。貴女をそこに逃がしたかったの……アシュリー伯爵家から貴女を解放したかったの」
「お母さんが……いらないって言ったのは……っ」
制御しきれない、名さえも分からない感情に問いかける声が震えてしまった。
「その孤児院、今も時々、慰問するのだけれど……とても素敵な場所なのよ。本当にみんなが家族みたいに暮らしているの。温かい場所よ。うちよりずっと、ずっとね。……父はシェリー様の言う事なら何でも聞いたでしょう? 自分の死期を悟ったシェリー様は、だから父に『いらない』と告げて『お願い』したの。貴女を孤児院に捨てるように。強い言葉を使ったのは、父が貴女を疎ましく思っていたから、そういう言葉の方が言うことを聞くと思ったのでしょう」
「でも……でも、私はアシュリー伯爵家に残されましたっ」
母の願いは果たされなかった。
「……お母様がそうしたのよ」
「どうしてですか?」
「貴女を守るためよ」
シンディは迷いなく答えた。
シンディの片手がクラリスの目元に伸びて来て、親指が触れた。
「ここにほくろがあれば、きっと今の貴女は父が出会った時のシェリー様そのものよ。母も我が家のシェリー様を知る使用人たちも、貴女が恐ろしいくらいにシェリー様にそっくりなのを知っているわ」
「ならどうして、伯爵夫人はクラリスに冷たく当たった? なぜクラリスにメイドの仕事をさせた?」
背後でロナルドが静かに問いかける。
「……フェアクロフ侯爵令息様。先ほども申し上げた通り、私の母は本当は優しくて、明るくて、素敵な貴婦人だったのです。でも……だんだんと壊れてしまったのです」
シンディは悲しそうに目を伏せた。
「……罪悪感で、壊れてしまったの」
ぽつりとこぼされた一言がクラリスには聞こえた。
「お母様はね、貴女に生きる術を教えたかったのだと思うわ。なんでもできれば、どこででも生きていけるもの。だけど、お母様は、自分を助けてくれたシェリー様を助けられなかったこと、そして、自分に見向きもしなかった夫、愛されもしないただの飾りでしかなかった伯爵夫人としての立場、跡継ぎを産めなかった悲しみ……あの狂った父から貴女を守らなければという重責。いろんなものに押しつぶされて……それで貴女にシェリー様の影を見て、怖くなってしまったの。自分が責められているように感じたのかもしれない。『あなたを助けてあげたのに』ってシェリー様が言う声が聞こえると、前に一度だけ、侍女にこぼしているのを聞いたわ」
「お母さんは、そんなこと言いません……!」
クラリスの言葉にシンディは顔を上げて頷いた。
「ええ。私もそう思うわ……でもお母様の心は限界だったの」
「どうして君は、伯爵夫人がクラリスに当たるのを止めなかった?」
剣のある声が責めるようにシンディに向けられた。シンディが唇を結んで俯いた。
「君はクラリスを伯爵夫人から守らなかった。今までの言葉をどこまで信じればいい?」
「……おっしゃる、通りで」
「閣下」
ジェフリーの声がシンディの言葉を遮った。
顔を向ければ、ジェフリーは真っ直ぐにロナルドを見つめている。
「シンディは、過去、クラリス嬢と年の変わらぬ幼子だったこと……そして、シンディ嬢にとってミランダ夫人が、彼女にとって愛する母親だったこと。その愛する母親が壊れていくのを必死に止めようとしていた幼い少女だったこと……」
ロナルドが息を詰めたのが聞こえた。
「忘れないでください」
最後にそう付け足して、ジェフリーが困ったように眉を下げた。
「そう、だな。すまない」
「いいえ、私が何もしてこなかったのは、事実です」
シンディが首を横に振った。
クラリスは、姉の伏せられた猫の耳を見つめる。
「でも、お嬢様は……」
クラリスが口を開いた時だった。
「全員、伏せろ!」
ロナルドの叫びと同時に衝撃を感じ、クラリスはシンディを巻き込んで床に転がった。




