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4-3



「おいで」


 窓から顔を出せば、大きな手が差し出されてクラリスは迷いなくその手を両手で掴んだ。そうすればひょいといつも通り、屋根の上に持ち上げられる。


「ロナルド様は、力持ちですね」


「いざとなったら君とモニカとアランを抱えて走って逃げられるくらいにはな」


 そう言ってロナルドは、カラカラと笑った。

 ロナルドに手を引かれ、先にどべっと寝ていたシュティーの下へ行く。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 シュティーのお腹の傍に置かれたクッションに腰を下ろす。ロナルドも隣に座り、ごろんと寝ころんだ。

 クラリスを追いかけて来たシエルは、ちゅんちゅんと楽しそうに夜空を飛んでいる。

 夕食後、クラリスはロナルドに練習した歌をピアノの演奏とともに披露した。ロナルドはとても喜んでくれて、途中からは皿洗いを終えたモニカとアランも来て、三人はクラリスの歌と演奏を楽しんでくれた。

 今はお互いにシャワーを済ませて、いつもの屋根の上の内緒の時間だ。

 ロナルドが不在の間は、彼との大人の階段を上ったキスを思い出して、どうにもならなかったクラリスだったが、本人を目の前にするとそれよりも「大好き」の気持ちが溢れて、彼との時間を大切にすることに集中しているのか、悶えなくて済んでいる。


「クラリス」


「はい」


「……あー、その、この間の茶会なんだが」


 ロナルドは、何か言いづらそうにしている。どうしたのだろう、とクラリスは首を傾げ、その横顔を見つめる。


「そこに、シンディ嬢がいたんだ」


「お嬢様が?」


「ああ。そこでジェフリーからの手紙だと言って、これを渡された」


 ロナルドがポケットから取り出した手紙を差し出してくる。受け取れと言うことだろうか、とおずおずとそれを掴む。


「中、読んでみてくれ」


 クラリスは言われるがまま中の便せんを取り出す。シンディが好んで使っていた香水の香りがした。


「ごめんなさい、あの……暗くて」


「そうだった、すまない。『光よ』」


 ロナルドが呪文を唱えれば、彼の手の上に優しい光を放つ、光の球が浮かぶ。

 その光の下でクラリスは、改めて便せんに視線を落とす。


「……これ」


「何か、思い当たることはあるか?」


 クラリスはふるふると首を横に振った。


「父が、おかしいことは知っているつもりですが……」


 クラリスは「狂気」という文字を指先で辿る。


「私の記憶にある父は……十年前、母が死んだあと」


「うん」


 ロナルドの大きな手がクラリスの手紙を持つ手にそっと触れた。クラリスはその手を握り返す。


「母の亡骸に縋って泣き崩れて、棺に納めた後も離れなくて、暴れて大変だったんです」


「それだけ、愛していたのか?」


「……多分、ですけど。母の遺体がどこかに運び出された後、父は母の部屋の物を全て持ち出しました。壁紙をはがす時の、あの、父の血走った眼は、今も、怖くて……っ」


「クラリス」


 ロナルドが手を離し、代わりに抱き寄せてくれる。クラリスはその胸にすがるように彼のシャツを握りしめた。


「自分で、剥がしたのか?」


「はい。遺品を箱に詰めるのも、壁紙をはがすのも……ベッドを運ぶときだけ使用人に手伝わせていましたがそれ以外は全て父が、自分でやったのです」


「すごい執着だな」


 クラリスは頷く。


「……お母上は、伯爵のことをどう思っていたんだ?」


「正直なところ、想い合っているようには……。父は母に嫌われたくないので、母が『仕事をしない人は嫌い』、『毎日会いに来る人も嫌い』と言ったので、月に二回ほどしか離れには来なかったのです」


「では、お母上は伯爵を好いていたわけではない、と?」


「私が、見ていた限りでは。……母はいつも父が来る日は、私を私の部屋のクローゼットに隠してくれていました」


「どうして? まさか、父親は君に暴力を?」


「いえ、そんなことをしたら母に嫌われるどころではないのは、父も理解していたようですが……毎回『あれはもういらないんじゃないか』と母に聞くんです。それで母が私を隠すようになったんです」


「でも君はお母上に瓜二つなんだろう?」


「父にとっては母じゃないと意味がないんだと思います。むしろ父は、母の愛情を独り占めする私を憎んでいた節さえあります」


 クラリスを抱き寄せる腕に力が込められたのが分かった。空から降りて来たシエルがロナルドの肩に着地し、心配そうに顔をのぞき込んでくる。


「……ロナルド様。私、一つだけ誰にも話せていないことがあるのです」


「誰にも話せていないこと?」


 ロナルドのシャツを握りしめる手に力を込める。


「アシュリー伯爵家の人々は使用人も、夫人も姉も知っていることです」


 大きな手がクラリスの背中を優しく撫でてくれる。


「……あのね、ロナルド様」


 彼の胸に顔を埋めたままクラリスは口を開く。


「うん」


「私……私、『いらない子』なんです」


 怖い、怖い、怖い。

 誰かに伝えるために言葉にするのが怖かった。

 でも、ロナルドは大丈夫。きっと、大丈夫。そう自分を奮い立たせて、震えそうになる唇を一度噛みしめ、先を紡ぐ。


「父にとって、伯爵夫人にとって……そして、母に、とって」


「そんなことはない。だって君の母上は、伯爵にいつも、君は必要だと答えていたんだろう?」


「…………『わたし、もうあの子、いらないわ』」


 泣かないと決めていたのに、声が震えて、目頭が熱くなる。


「おかあさん、さいごに、そう、いったの……っ」


 死ぬな、と手を握りしめる父の手を握り返して、母はそう言った。

 父が「わかった」と頷く声を背に、クラリスは逃げ出した。

 そして、その数時間後、母は息を引き取った。


「……父に言われても、どこも痛くなかった……っ、でも、お母さんの言葉は、ずっと、心に刺さったままで……っ」


 ロナルドの両腕がクラリスを強く抱きしめてくれる。


「十年、その悲しみをひとりで抱えていたんだな。十年前、君の傍にいられたらよかった」


 ぽろぽろと零れる涙を止めることができなくて、クラリスはロナルドの首に腕を回して縋りつけば、ひょいと抱き上げられて膝に乗せられた。


「クラリス、何度でも言うよ。俺には君が必要だ」


「わた、わたしも、ロナルド様が、ひつようです……!」


 頭上でロナルドが笑ったのが分かった。大きな手が優しく頭を撫でてくれる。


「クラリス、それでも君は、お母上が好きなんだろう?」


 こくん、とその言葉に頷いた。


「それはきっとお母上も同じだったと俺は思う。君がお母上の話をする時、とても嬉しそうで、幸せそうだ。愛して、愛された記憶がそこにあるんだと伝わって来る」


 こくんこくん、と頷く。


「……これは俺の推測でしかないし、都合の良い妄想かもしれないけど、お母上が最後に伯爵にそう告げたのは、何か『理由』があったんじゃないか?」


「……理由?」


 クラリスは少しだけ彼に縋りつく腕の力を緩める。


「だって、八年間、お母上はクラリスを愛してくれていた。伯爵の言葉を否定して、大切な君を守り続けていた。……いらないなら、もっと早い時期に捨てるよ」


 それは彼の過去からくる確信を持った言葉だと気づいて、クラリスは顔を上げた。紫色の眼差しは困ったようにクラリスを見つめている。


「俺の場合、優しいモニカが拾ってくれたわけだから、むしろ良かったけどな。あのまま母の傍で育てられていたら、気が狂っていたかもしれないし」


 間接的とはいえ、侯爵夫人の苛烈な性格を知るクラリスは否定はできなくて、かといって肯定も出来ず、眉を下げるにとどめた。

 ロナルドの手が伸びて来て、濡れた頬をぬぐってくれる。


「でも、お母上はクラリスが大切だった。だから、何か理由があるんじゃないかと俺は思ったんだ。シンディ嬢からの手紙もそう思わせるんだがな」


「あ、お手紙……!」


 クラリスはふと手紙を持っていないことに気づいて、慌てて辺りを見回すと屋根を滑って落ちかけていたそれをシエルが咥えて持って来てくれた。


「ありがとう、シエル」


 ロナルドがお礼を言って受け取り、ズボンのポケットにしまう。

 シエルは得意げに「ちゅん!」と鳴いて、クラリスの肩の上に戻って来た。その小さな体を指先で優しく撫でる。


「その前後で、お母上は他に何か言っていなかったのかい?」


 少し躊躇いがちにロナルドが問いかけて来る。


「……あの時は、父が母の傍に張り付いていて、私は部屋の入口から覗くことしか許されていませんでした。父がずっと『死ぬな』『死なないでくれ』と騒いでいて……母は喋る気力もほとんどなくて、なんとか絞り出すように父にそう告げていたように思います。それで父が『分かった』と返事をして、私はショックでその場を逃げ出したんです」


「辛いことを思い出させたな。すまない」


 ふるふるとクラリスは首を横に振った。


「ロナルド様は、絶対に私を『いらない』って言わないから、だから、お話しできたんです。それに……お伝えしないと、私、いつまでもそのことを引きずって、顔を上げられないから」


「クラリスは偉いな」


 大きな手が優しく頭を撫でてくれる。それだけでもクラリスは、なんでも頑張れそうだ。


「もし……クラリスがよければ、シンディ嬢と話をしてみないか? 幸い、ジェフリーという繋ぎ役がいるから、伯爵夫人に知られることなく会うこともできると思う」


 ロナルドが直接、シンディを呼び出せば色んな意味で大変なことになるが、魔獣生態学というものを学ぶジェフリーなら、魔獣討伐を専門をする第二師団長と連絡を取っていても不思議ではないし、留学生である彼なら町の案内という理由でも、男性なので出かける令嬢の護衛という理由でも、シンディを連れ出す事が出来るのだと理解する。


「……ロナルド様も一緒にいてくださいますか?」


「当たり前だ。君を一人にする理由はない」


 ロナルドが頷いて、額にキスをしてくれる。

 クラリスを見つめる紫色の眼差しは、とろけそうなほどに優しくて、クラリスは自分を奮い立たせる。決めた覚悟を伝えなければ、それは何も決まっていないのと同じなのだから。


「ロナルド様と……幸せになるには、」


 今度は緊張で震える手をぎゅっと握りしめる。


「アシュリー伯爵家とも向き合わないといけないから、だから、あの……っ」


 紫色の瞳が見開かれ、彼が息を呑んだのが聞こえた。

 伝わっただろうか。彼との未来を描いて行きたいと、目を背け続けていた現実を見る覚悟をしたと。


「ご、ご迷惑をおかけすることは、多々あると思うのですが……が、頑張りますので、どうか、ずっと、お傍に置いて、むぐっ」


 最後まで言い切ることは出来なかった。ロナルドの唇がクラリスの唇を塞いだからだ。シエルがびっくりして飛び立つ。


「それは……!」


 彼が喋ると唇が触れあう。


「俺との関係に、結婚を前提としてくれるということか……?」


 近すぎて紫色の瞳がよく見えない。

 だが、彼の言葉はあまりにしっかりとした輪郭を持っていて、クラリスは言葉を詰まらせる。

 このままここで頷いてしまったら、明日には結婚誓約書を提出しそうなロナルドの勢いにクラリスは戸惑う。

 急に駆け落ちしようとか言い出す恋人は、行動力が有り余っているし、それに伴う権力と財力も厄介なことに持ち合わせているのだ。


「ひ、ひとつ、一つ、色々なことを解決していきましょうね……?」


 彼の気持ちを否定したいわけでも、拒絶したいわけでもないので、クラリスは一生懸命言葉を選んだ。


「……一緒に?」


「一緒に」


「ずっと?」


「ずっと」


 伺うような視線は、やっぱり可愛くてクラリスはまだ何か言おうとするロナルドの唇にキスをした。

 彼からもキスのお返しがあるかしら、と思ったがロナルドは真顔で固まっていた。瞬きもせず、じっとクラリスを見つめているので、なんだかだんだん照れくさくなってきて、クラリスは誤魔化すように笑った。


「えへへ、ちゅーしちゃいま、んむっ」


 またもクラリスはロナルドに唇を塞がれてしまった。

 頭を撫でてくれていた手は後頭部をがっしりとおさえ、もう片方の手はクラリスの腰を逃がすまいとでも言うように抱き寄せる。

 三秒後に気づいた時には、クラリスはまたもロナルドからの大人のキスに翻弄されることになった。

 逃げようにもクラリスの細腕が魔獣を倒すことを生業にする騎士に勝てるわけもなく、そのシャツを握りしめて引っ張るくらいのことしかできない。

 呼吸が出来なくて、合間に「鼻で息をするんだ」と言われても、彼に鼻息をかけてしまうことが恥ずかしくてままならない。

 ようやく離れてくれたとクラリスが深く息を吸った時、ロナルドの唇はあろうことかクラリスの首筋に触れた。

 羞恥と混乱に頭が爆発したクラリスは、呆気なく意識を飛ばしてしまったのだった。




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