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 ロナルドは楽しそうにルーイとシエルと歌うクラリスに緩やかに目を細める。

 もちろん最も美しいのはクラリスの声だが、その歌声も特徴であるロウムのルーイのさえずりも美しい。シエルの軽やかな鳴き声が加わって、なんだかまるで物語の世界に入り込んでしまったかのような不思議な感覚だ。


「随分と惚れ込んでおられるのですなぁ、あの小鳥のお嬢さんに」


 ほっほっと笑う声に顔を向ければ、微笑ましそうに目を細めたクリフと目が合った。

そんなにあからさまだっただろうか、と気恥ずかしくなりレモンティーを飲んで火照りそうになる顔をなんとかする。


「そんなに……分かりやすかっただろうか」


「ええ。初対面の僕が見ても、溶けてしまいそうな目をしていましたよ」


 レモンティーでは誤魔化しきれなかった熱を持て余すように、ロナルドはがりがりと頭を掻いた。


「ところで、クリフはどうして貴族の三男坊から細工師に?」


 話題を変えようと試みれば、クリフはくすくすと笑いながら応えてくれた。


「手に職をつけなければと思ったのです。メリッサと結婚するには、色々と立ちはだかる壁が多かったですから」


「……貴族と平民で、結ばれることは並大抵のことではなかったのでは?」


 ロナルドは真剣に問いかける。

 クリフは「そうですねぇ」と眉を下げ、再びレモンティーで喉を潤した。カランと氷が涼やかに鳴る。


「……家族と、両親とは揉めに揉めました。でも、僕は三男で継ぐものは何もなかった。両親は別の家のご令嬢のところに婿入りして、貴族社会で兄弟三人、支え合いながら生きて行って欲しかったようですが、僕が一生を添い遂げたいと思ったのはメリッサだったんです」


 クリフが左手の薬指を撫でた。そこにはくすんだ金色の指輪がひっそりと輝いている。メリッサも同じものをつけていた。


「メリッサの両親にも猛反対されました。だから、それまでの全てを置いて、僕らは家を出ました。金も何もない僕を信じてメリッサはついてきてくれた。手先が器用な自覚とこれまでの育ちで様々な宝飾品に触れる機会が多かったので、この道を志し、今に至ります」


「後悔は……しなかったのか?」


「メリッサの両親とは子どもを授かった後、和解できたんです。だからこうして王都で工房を開けた。ですが僕の両親とはそれは叶いませんでした。……とても親不孝な息子ですよ。だって、今もなお、あの日の決断を後悔一つしていないのです」


 そう告げるクリフの顔には、確かに後悔はなかった。若き日の決断を誇らしく思っているのだけが伝わって来る。


「……ただ、僕は運が良かった。金はありましたが男爵家の三男で、背負っているものがなにもありませんでしたから」


 その言葉とロナルドを見つめる静かな眼差しに小さな釘を打たれたような気がした。

 言外に、貴方は身分を気軽に捨てていい立場ではない、と言われているようで目を伏せる。


「…………部下たちを、国民を、殿下を、裏切るわけにはいかないな。何より、彼女はそれを望まないだろう」


 不思議な歌はまだ続いている。魔鳥と人の奏でる不思議なメロディは、思考の奥底にある身勝手な欲望を暴いてしまうのに、同時に理性がそれを修復しようと動き出すのを後押ししてくれる。

 ロナルドが全てを捨てて、クラリスの手を取ろうとしても、きっと彼女はその手を拒むだろう。

 だって彼女は、それを望んでいないから。今、ロナルドとクラリスの望みは同じ方向を向いていない。


「……僕が家を捨てた時、メリッサには泣かれましたよ。彼女はきっと、僕との恋は青春の思い出の一ページにするつもりだったんでしょう」


 カランコロンと彼の手で揺らされるグラスの中で涼やかに氷が音を立てる。


「……そして、僕はそれに気づいていながら、無理矢理、彼女の手を取った。数年とはいえ彼女の両親と絶縁まで追い込んで、苦労を掛けて……僕の無知で傲慢な振る舞いが何度も彼女を泣かせてしまった」


 家を捨てたことに後悔はなくても、別のところに彼の後悔があるのだと伝わって来る。

 ロナルドは再びクラリスに視線を向ける。

 楽しそうに歌う彼女の背を覆う翼は、大分生えそろい、これまでの――空を飛んで逃げないようにところどころ切られた状態の――何倍も綺麗で、本来の美しさを取り戻しつつある。

 ロナルドの恋人になってくれたクラリスだが、その先の未来を分かりやすい言葉で言えば「結婚」なんてものを、彼女が望んでいないことは、ロナルドも知っている。

 メリッサが二人の未来を望んでいなかったのをクリフが知っているのと同じように。


「…………それでも、彼女だけは絶対に必要なんだ」


 ロナルドの孤独を救ってくれたクラリスだけが、この先の人生を生きて行くのに何よりも必要なのだ。彼女のいない未来など想像さえもしたくない。

 クリフがグラスを置き、脚を組んで、その膝に組んだ手を乗せる。


「……ロナルド君。貴族というのはね、本当の意味で平民になんてなれないんだよ。その逆もまた然り」


 がらりと変わった雰囲気にロナルドは自然と背筋を正す。


「身分を捨てても、生まれというのは変わらない。……彼女、平民ではないだろう?」


「……っ」


 思わず息を呑んだ。クリフはちらりとクラリスに視線を向ける。


「立ち入ったことを聞くつもりはないよ。アランからはモニカの命の恩人で君の宝物だということと、あとアランにとっては可愛い娘ということしか聞いていないからね」


 くすくすと笑う声にわずかに緊張をほどく。


「立ち居振る舞いが、庶民のそれじゃない。きちんとした教育を受けているのだろうに、指先は使用人のようだ。……この歌声のように不思議な女性だね」


「……俺にはもったいないほどの心優しい女性です」


「そうか」


 クリフは一度、目を閉じると組んでいた足を下ろして、グラスを手に取った。


「ロナルド様、僕は道ならぬ道を選び、メリッサとここまで来ました」


 再び彼は、細工師へと戻る。王都の職人街で暮らすクリフというただの初老の男。


「年を経たからこそ、客観視できる部分があるのも事実。……もっと長い目で、広い視界を持って物事を判断すればよかったと思うことがあるのです。貴方がたはまだ若い。大きな動きで全てをさらうのではなく、小さな不安を一つ一つ、地道に解決していく事が、きっと本当は、一番の近道なのですよ」


「それは、どこへ続く道だろうか」


「もちろん、笑顔が溢れる幸せですよ」


 ほっほっとクリフは笑った。

 不思議な心地の歌はまだ続いている。

 だが聞き馴染みのあるメロディーに変わったそれは、クラリスが初めて歌ってくれた春の女神の歌だ。歌詞のない、母音だけの美しい歌をルーイが器用に真似ている。


「なんだか……不思議な歌声ですねぇ。心が落ち着いて、穏やかな心地になれる」


「彼女の歌は本当に素晴らしいんだ。全世界に自慢したい気持ちと、宝箱の中にそっとしまって内緒にしておきたい気持ちで、いつも困ってしまう」


 眉を下げたロナルドにクリフは「おやおや」と笑った。

 クラリスはまだルーイに歌を教えるのに夢中なようだ。懐中時計で確認しても時間にまだ余裕がある。


「クリフ、先ほど見せてくれたペンダント、素晴らしかった。だが、もう少し装飾の多いものはあるだろうか? 彼女に贈りたいんだ」


「もちろんございますとも。どういった場所に出向くかだけ教えて頂けますか?」


「兄と姉に彼女を見せびらかしに行くんだ」


「おやおや、それは楽しそうだ。少々、お時間をください。見繕って参ります」


 そう言ってクリフが立ち上がり、工房へと戻っていく。

 ロナルドは、クリフが戻って来るまでの間、レモンティーを飲みながら楽しそうに歌うクラリスを見つめる。


「……小さな不安を一つ一つ、か」


 どこかで少し焦っていた自分を見透かされたような気持だった。アランは何もかもお見通しだったのかもしれない。彼はとても優秀な人なのだ。

 だから、立場は違えど、道なき道を乗り越えて愛する人と結ばれた経験を持つクリフを紹介してくれたのだろう。もちろん、クリフの細工師の腕があってこそだとも思うが。


「どこから解決していくべきか……」


 頭の中で不安点と課題を思い浮かべて整理しながら、ロナルドはクラリスの歌を聴きながらクリフが戻って来るのを待つのだった。




 クリフにお礼を言って別れを告げ、クラリスたちは辻馬車を拾い、大通りへと出た。

 辻馬車を降りて、大通りから一本、奥に入ったところにあるというレストランを目指して歩いて行く。後ろからシュティーとシエルが付いてくる。

 大通りにはあんなに人がいるのに、たった一本、奥に入るだけでぐっと人が減るのは不思議だ。


「この近くに部下に教えてもらった美味しいレストランがあるんだ」


「部下の皆さんは、美味しいお店をたくさん知っていて、すごいですね」


「過酷な仕事だから、美味しいものを食べるっていうのが息抜きになる奴も多いんだよ。もちろん息抜きの仕方はそれぞれで騎士団のあの庭を手入れするのが好きな奴、食べ物は食べ物でも甘いものがとにかく好きな奴。あとは、読書、観劇、訓練、裁縫、本当にひとそれぞれだな」


 病気が大分良くなったおかげで、ロナルドも部下と気兼ねなく交流できるようになったとコーディが嬉しそうに言っていたのを思い出す。

 彼らの息抜きの方法を知っているのは、休憩時間をともに過ごすことが増えたからだろう。彼が部下の話をしてくれる時、クラリスは自分が役に立てたことを本当に本当に嬉しく、誇らしく思うのだ。

 病気が快方へと向かう度、ロナルドの世界が広がっていくのが感じられる。


「ロナルド様の息抜きはなんですか?」


「そうだなぁ……前はやはりアランとモニカと、モニカが作ってくれたごちそうを囲むのが何よりの息抜きだったよ。病気が悪化していくにつれて、回数が減って行ったから、より一層、大事な時間だった」


 ロナルドの腕に掛けた手を優しく撫でられる。


「だが、今は……君と一緒に屋根の上で過ごす夜が一番、心地よい時間だ」


 優しく細められた紫色の眼差しがクラリスを見下ろす。

 気恥ずかしいやら嬉しいやらで、クラリスはロナルドの腕に顔をくっつけて隠してみるがあまり効果はなかったようで「ははっ、真っ赤だ」と笑う声が降って来た。


「あ、あの! フェアクロフ閣下!」


 後ろから男性の声がロナルドを呼び止めた。ロナルドがわずかばかり警戒しながら足を止めて振り返る。クラリスも彼の体の陰から、そっと向こうを覗く。

 思いがけない人物にクラリスは覗いていた顔を引っ込めて、ロナルドの背に隠れるように身を小さくする。彼の腕に添えていた手でぎゅっとその袖を握りしめた。


「……イアルホール侯爵令息」


 そこにいたのは、クラリスの生家であるアシュリー伯爵家に滞在中の留学生・ジェフリー・イアルホールだったのだ。シンディがロナルドの家にやってきた日に一緒に来た紳士だ。


「覚えていて下さったのですね! はい! そうです! ジェフリー・マクシム・イアルホールです! ああ、今日もなんと素晴らしい毛並み!!」


「ジェフリー様!」


 ジェフリーを嗜めるのは、あの日も一緒にいた侍従の青年だろうか。あの時は、姉の姿に動揺して、実を言うとあまりよく覚えていない。


「何の用だ?」


 ロナルドがクラリスを庇うように前に出る。クラリスは彼の背中にぴたりとくっついたまま、どうかこのまま静かに嵐が過ぎ去っていきますようにと願う。

 シュティーがロナルドの横で姿勢を低くして、牙をむき出しにして唸り、本来の姿に戻ったシエルもロナルドの肩の上でカチカチと嘴を鳴らして威嚇する。


「だから言ったでしょう!」


「ああ、閣下! レディ、あの、誤解です、俺は別にレディをどうこうしようと思ったわけではなくてですね!」


「申し訳ありません、本当に我が主は魔物と魔獣にしか興味のない生粋の魔物馬鹿でございまして、そちらのご令嬢に危害を加える気は一切ございません! こちらが心配になるくらいに本当に魔物にしか興味がないんです! むしろ私としましては、そろそろ人間のご令嬢にも興味を持っていただきたく……あ! 失礼、話がそれました!」


 侍従の必死な声が裏通りに響く。


「……とりあえず、魔物にしか興味がないと言うことだけは分かったが」


 ロナルドがわずかばかり警戒を残しながらも剣の柄にかけていた手を下ろした。


「申し訳ありません。大通りの古書店を出たところ、そちらのラヴィネレパードの姿が見えまして、思わず追いかけて来てしまいまして……僕自身の立場を考えれば、ご令嬢が不安がるという点まで考えに至りませんでした」


 彼の声は、なんの迷いもなく、いっそ堂々と宣言している。

 クラリスは、そーっとロナルドの陰から様子をうかがう。

 ジェフリーは目を皿のように大きくして、シュティーを見つめていた。威勢よく唸っていたはずのシュティーがちょっと引いている。シエルは小さな姿に戻って。クラリスの肩に戻って来た。


「ハァ、ハァ、美しい……! ちょっとだけ、ちょっとだけ、触らせてくれないかなぁ? 臭いをかがせてくれるだけでも……!」


 なんだか怪しい呼吸が聞こえて来て、シュティーが後ずさる。


「……あー、イアルホール令息殿は、魔物関係の勉強をしにこちらに来ていたんだったか?」


「はい! 僕はとくに魔物生態学の魔物変異個体の変異理論を専攻しております!」


 ジェフリーが元気よく答える。


「変異理論というと、魔物がどうして魔獣になるかという学問だったか?」


「簡単に言えば、そういうことです」


「ふむ……ちょっと失礼」


 ロナルドがそう断って、くるりと振り返る。


「クラリス、もしよければ食事をしながら彼ともう少し話をしてみないか?」


 ひそめられた声の思いがけない提案にクラリスは首を傾げる。ロナルドのことだから、何かしらの意図があるのだろう。


「アシュリー伯爵家の内情を知ることができれば、できる対策も増えるかもしれないだろう?」


 ジェフリーは、クラリスが出て行ったあと、クラリスが暮らしていた離れに滞在しているはずだ。食事などで夫人や姉と交流することもあるかもしれない。


「……あの日、姉はどうして私を探しに来て、連れ帰らなかったのか、少し気になるんです」


「確かに……俺もそれは気にかかっているんだ。突然来たわりに、なんだかあっさりと帰って行ったからな。まあ、彼がその理由を知っているかはともかく、少し探りを入れてみよう」


 はい、とクラリスが頷くとロナルドが改めてジェフリーに向き直った。


「イアルホール侯爵令息殿、よければ食事を一緒にいかがかな? これから彼女とすぐそこのレストランに行くところだったんだ。ぜひ、魔獣を討伐する立場の者として、学問的な視点での意見を聞いてみ」


「ぜひ!!」


 ジェフリーがロナルドが言い切る前に頷いた。侍従の青年が頭を抱えているが、ジェフリーの目はキラキラと輝いていた。シュティーが何か言いたげにロナルドを見上げていた。


「では、行こう」


 改めてロナルドの腕に手を掛けて歩き出す。シュティーが不満そうに尻尾をぶんぶんと横に振りながらついてきた。シエルはクラリスの肩の上で後ろからついてくるジェフリーたちをじーっと観察していたのだった。



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