2‐102香りの薬で心竅をひらく
「これ、御香ですよね? 香炉とかで焚くやつだとおもうんですけど」
「実は大抵の御香はもともと生薬としてつかわれているんですよ。都にて診察した患者は額の血管が膨張して、縦縞になっていました。先例のない症状なので推測に過ぎませんが、患者は毒によって心竅を塞がれたものと考えられます」
「心竅というと」
藍星は袖から勉強帳を取りだす。
「ええっと、心は神に通ずるので、思考とか自律神経とか認知とか頭の働きのことですね。心竅が塞がってしまうと物忘れが酷くなって、家族のことが解らなくなったり、服をきたりお箸をつかったりということまでできなくなってしまうとか」
「その通りです。毒に塞がれた心竅をひらくには開竅薬というものをつかいます」
ほんとうは最たる開竅薬は牛黄だが、牛は虎に喰われる。だから、このたびの調薬では芳香のあるほかの薬を選んだ。
「よき味が薬であるようによき香もまた、薬です」
霊猫香は特に白澤の書にある蠱毒の解毒薬にもふくまれる薬種だ。
(かならず、虎を討つ)
頭のなかで白澤の書がいっせいに解かれ、雪崩れうつ。
ありとあらゆる知識を組みあわせて、慧玲は薬の布陣を敷く。軍隊を進めて禁毒の虎をかこみ、追いつめて、息の根を絶つ。
(負けてたまるか)
虎肉は下茹でを終えたら味つけをして、生薬と一緒に煮こむ。こちらでは柴胡、蒼朮、茯苓、附子といった神経を鎮静させ水毒を解く効能のある生薬を選んだ。
虎血の毒は水を介して身中に取りこまれ、水腫となって潜伏を続けている。
よって水腫を絶つ。
附子は鳥兜の子根で水の排出をうながす薬だ。有毒植物だが、修治して毒を抑制しているので患者の身に危険はない。さらに鳥兜には人狼や人虎を退けるという伝承もある。
「ね、ねっ、これって角煮ですよね」
藍星がわくわくして声を弾ませる。
「その通りです。角煮というと脂身のある豚ばらが定番ですが、じつは馬を始めとした赤身の角煮も絶品なんですよ」
肉がほろほろになったところで火を落とした。すでに角煮としてはできあがっているが、会場についてから調理の工程をもうひとつ重なる。
支度を終えたところで、鴆が確認にきた。
「都中部にある会場で明日の日中(午後十二時)から薬の接種を始めるが、準備はできたかな」
「問題ございません、薬はすべて調いました」
慧玲はたすきを解いて、晴れやかに振りむく。だが鴆は違うとばかりに頭を振った。
「帝姫として、公の場に姿を現す心構えだよ」
虚をつかれる。考えてもみなかった。とうぜんのように身分をふせて、裏かたに徹するつもりだったのだ。
「待ってください。私は渾沌の帝とともに処刑されたことになっているはずです」
「だからだよ。誤解を払拭する、うってつけの機会だ」
藍星がそうだったように渾沌の皇帝を怨んでいるものは少なくない。帝姫が処刑されていなかったと知られては民が混乱し、薬膳を食べてもらうどころではなくなる。
「渾沌の姑娘が提供する薬なんて民に要らぬ不信感を抱かせてしまいます」
「渾沌の姑娘? 違うな、貴女は白澤の姑娘だろう」
鴆は藍星に視線をむける。藍星はびくっとしてから、威嚇する猫のように髪の毛を逆だてた。鴆はかまわずに喋りかける。
「明藍星、君はどう考える?」
藍星は鴆の意を理解して眼を見張ってから、袖を掲げる。
「慧玲様は慧玲様で、……白澤です。渾沌の姑娘などではありません」
慧玲は唇をひき結ぶ。
鴆の考えていることは理解できる。
女帝となるには処刑された廃姫という身分であってはならない。まずは民に帝姫として認めさせて、廃された継承権を取りもどす――始めるならばそこからだ。
「わかりました。そのかわり、いただきたいものがございます」
慧玲の意外な要望を聴き、鴆は眉宇を跳ねあげたが、納得したとばかりに唇の端を持ちあげた。






