第96話 【手紙】鷹村さんから、剣の大会で入賞したと手紙が届いた
【現在:開業170日目】
今日は魔石中継器の電源を入れていない、静かなオフラインの営業日。
特区療養枠のお客さんの予約も入っておらず、最下層カフェには、身内だけのゆったりとした時間が流れていた。
すうっ、つるんっ。
スミが『きれい!』と機嫌よく床を滑り、見えない埃まで吸い取って岩肌を磨き上げている。
ぱち、ぱちぱち……。
石の炉ではポッカが『あっためる!』と炎を揺らし、特注ケトルの下で完璧な温度をキープしている。
チリロ、チロロ。
ツタの上ではチルが羽休めをしながら、心地よい環境音のようなさえずりを落としていた。
俺はカウンターの内側で、新しいコーヒー豆の麻袋を開け、ハンドピックで欠点豆を取り除く作業をのんびりと進めていた。
「きゅう……」
足元では、コハクが丸太の椅子の上で丸くなり、スースーと平和な寝息を立てている。
そんな静かな午前中のことだった。
チリリン。
入り口のアーチが揺れ、見慣れた協会の制服姿が現れた。
この特区の担当監査官である藤堂だ。
彼女は定期査察の時のようなガチガチの緊張感はなく、今ではすっかりこの空間の空気に馴染んだ様子で、柔らかい笑みを浮かべていた。
「おはようございます、深山店長。定期便の物資をお持ちしました」
「お疲れ様です、藤堂さん。わざわざありがとうございます」
俺が荷物を受け取ると、藤堂は少しだけ改まった顔つきになり、鞄の中から一通の『封筒』を取り出した。
「それと、こちらを。……地上から、店長宛てのお手紙です」
「手紙、ですか?」
俺は目を丸くした。
今の時代、連絡は端末のメッセージアプリで済ませるのが普通だ。わざわざ紙の手紙を送ってくるなんて、よほど特別な事情があるか、アナログを好む人物くらいだろう。
「はい。本部を経由して、監査部宛てに『特区の深山店長に渡してほしい』と届いたものです。……安全検査は済んでいますので、ご安心を」
藤堂はそう言って封筒をカウンターに置くと、「それでは、私はこれで」と、寝ているコハクの頭をそっとひと撫でしてから、地上へと帰っていった。
「……誰からだろうな」
俺はエプロンで手を拭き、その真っ白で厚手の上質な封筒を手に取った。
裏面を裏返すと、そこには見覚えのある、力強い筆跡で名前が記されていた。
『鷹村 宗一』
「……鷹村さん!」
俺は思わず声を上げた。
特区療養枠の、記念すべき最初のお客さん。
深層での事故で心身を壊し、剣の柄を握ることすらできず、コーヒーカップを持つ手もガタガタと震えていた、あの元Sランクの剣士だ。
彼が「また剣を握ってみる」と療養枠を卒業してから、随分と時間が経っていた。
俺ははやる気持ちを抑えながら、封を切って中の便箋を取り出した。
『深山店長、グレイさん、コハクちゃん。そして店の皆へ。
ご無沙汰しております。鷹村です』
手紙の文字は、かすれもブレもない、とても力強く整ったものだった。
あれほど手の震えに苦しんでいた彼が、これだけしっかりとした文字を書けるようになっているという事実だけで、俺の胸の奥がじんわりと熱くなった。
『突然の手紙で驚かれたことと思います。
実は先日、復帰への第一歩として、地上で開催された剣術の公式大会に出場してきました』
「……大会に」
俺はごくりと喉を鳴らした。
リハビリどころか、いきなり実戦の舞台に立ったというのか。
『正直に言えば、試合直前、控室で剣を握ろうとした時……またあの時の暗い恐怖が蘇り、手が震えそうになりました』
便箋の文字が、そこだけ少し筆圧が強くなっていた。
『でも、その時。
目を閉じると、あのカフェの薪が爆ぜる音と、チルの澄んだ鳴き声が聞こえた気がしました。
そして、手のひらには……木製のカップから伝わるコーヒーの温もりと、グレイさんの、あの力強くて優しい銀色の毛並みの感触が蘇ってきたんです』
――『好きにしろ』。
あの日、グレイがそう言って、鷹村さんに自分の首筋を撫でさせた光景が脳裏に浮かぶ。
『あの絶対的な温もりを思い出したら、不思議と震えがピタリと止まりました。
剣の柄が、ちっとも怖くなかった。
結果として……復帰戦でありながら、大会で三位に入賞することができました』
「……すごい。三位入賞か!」
俺が思わず感嘆の声を漏らすと、寝ていたコハクが目を覚まし、「きゅう?」と不思議そうにこちらへ歩み寄ってきた。
『あの場所で過ごした時間が、立ち止まっていた私の背中を強く押してくれました。
本当に、言葉では言い尽くせないほど感謝しています。
私はもう「患者」ではないので、療養枠を使うことはできません。
ですが……いつか必ず、一般の常連客として、また皆さんのコーヒーを飲みに行きたいと思っています。
その日を楽しみにしています』
手紙は、そう締めくくられていた。
「……っ」
俺は、手紙を持ったまま、深く、長い息を吐き出した。
目頭が熱い。
俺たちがやったのは、ただ温かいコーヒーとプリンを出して、静かな場所を提供しただけだ。
だけど、あの空間で過ごした時間が、鷹村さんの中で『お守り』になって、彼自身の力で再び歩き出すための支えになった。
これほど嬉しい報告が、他にあるだろうか。
「きゅんっ」
ふいに、コハクが前足をカウンターにかけ、背伸びをして俺の手元にある便箋に鼻先を近づけた。
ふんふん、と紙の匂いを嗅ぐ。
インクの匂いと、微かに残る地上の風の匂い。
そして、その奥にある、かつて自分がいっぱい寄り添って温めた『あの人』の気配。
ぽわんっ。
脳内リンクに、コハクのパッと明るくなった感情の字幕が落ちてきた。
──『コハク:しってる!』
──『コハク:プリンのひとだ!』
「ははっ、そうだよ。プリンが大好物だった、鷹村さんだ」
俺が笑ってコハクの頭を撫でてやると、コハクは嬉しそうに尻尾をふりふりと揺らした。
俺は、その手紙を丁寧に折り畳もうとして……やめた。
代わりに、カウンターの後ろにある飾り棚――協会の特区認定証が飾られている、店の誇りを示すスペースの隣に、手紙を開いた状態でそっと立てかけた。
特区としての、最高の勲章だと思ったからだ。
ゴリ……ゴリ……。
その時。
カウンターの奥で豆を挽いていたグレイの、特大のミルを回す手が、ピタリと止まった。
グレイはゆっくりと顔を上げ、俺が飾り棚に立てかけた手紙を見つめた。
「グレイ。……鷹村さん、またいつか絶対飲みに来るってさ」
俺がそう伝えると。
グレイは黄金の瞳でその手紙を一瞥し。
静かに、深く。
一度だけ目を閉じた。
字幕は、出ない。
だが、その微かに揺れた銀色の耳と、ゆっくりと吐き出された鼻息だけで十分だった。
SSランクの魔獣であり、この店の最高の店長は、自分の淹れたコーヒーが確実に客の心を温め、救ったという事実を、無言のまま誇り高く噛み締めているのだ。
「……うちの最初の卒業生、立派にやってるな」
俺が小さく呟くと、グレイは目を開け、再び力強い音を立ててミルを回し始めた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
いつかまた彼が訪れるその日のために。
ダンジョン最下層のカフェは、今日も変わらず、極上の一杯を準備し続ける。




