第95話 【再来】倉橋さんが『客として』コーヒーを飲みに来た
【現在:開業160日目】
チリロ、チリリン。
天井のツタの上から、チルが穏やかな鈴の音を響かせた。
今日は魔石中継器のスイッチを入れた、通常通りの配信営業日だ。
──────【LIVE】同接:61,500──────
※探索者協会認定・第五十階層特別安全区(特区)
: うぽつー!
: 今日も癒やしの時間がやってきた
: コハクたん今日もへそ天で可愛い
: お、入り口から誰か来たぞ
: この足音、藤堂監査官かな?
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「いらっしゃい――あ、藤堂さん」
俺が入り口の植物アーチに向けて声をかけると、協会の制服をきっちりと着込んだ若い女性監査官が、ビシッと直立不動の姿勢で姿を現した。
この特区の担当を引き継いでから随分経つというのに、相変わらずガチガチに緊張している。
「ふ、深山店長! ほ、本日は定期査察ではありません! 私はあくまで、護衛および案内役として同行いたしました!」
「……護衛?」
俺が首を傾げた、その時だった。
藤堂の背後から、見慣れた厚手の防護コートを羽織った初老の男が、静かにアーチをくぐってきた。
「……相変わらず、ここは外の喧騒が嘘のように静かだな」
その低い声と、鋭いけれどどこか落ち着いた眼差し。
かつてこの店の担当監査官を務め、今は本部の執行部へと栄転していった『歩く六法全書』――倉橋さんだった。
「倉橋さん! お久しぶりです」
俺が嬉しくなって声を上げると、コメント欄も一気に沸き立った。
──────【LIVE】同接:64,800──────
: 倉橋ニキきたあああ!!!
: 久しぶり!! 偉くなったんだよな!
: 相変わらず渋くてかっこいい
: 護衛付きってことは、ガチのVIP待遇じゃん
: 仕事で来たの?
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「お久しぶりです。今日は執行部からの視察ですか?」
「……いや」
俺の問いに、倉橋さんは短く首を振った。
そして、防護コートの襟を少しだけ緩め、深く息を吐き出す。
「今日は、非番だ。……純粋に『客』として、ここのコーヒーを飲みに来た」
その言葉に、俺は小さく目を見開いた。
あの仕事の鬼だった倉橋さんが、完全にプライベートな時間を削って、わざわざ五十階層の底まで足を運んでくれたのだ。
だが、同時に少しだけおかしさが込み上げてきた。
這裡是指定危険区域の最下層。いくら特区とはいえ、一般の人間が休日のカフェ巡り感覚でフラリと来られる場所ではない。
俺は、あえて意地悪な笑みを浮かべて冗談めかしたツッコミを入れた。
「非番って……倉橋さん、仕事以外でこんな危険な最下層に来ていいんですか? まさか、後輩の藤堂さんを私用で連れ回す『職権乱用』じゃ……?」
「なっ……! ち、違う! 職権乱用などではない!」
倉橋さんがビクッと肩を跳ねさせ、あからさまに視線を泳がせた。
「こ、これは……特区の安全性を非番の視点から抜き打ちで確認するという大局的な……ごほん! と、とにかく、藤堂には正規の護衛依頼として私の私費で報酬を出している! 規定には一切抵触していない!」
普段は冷静沈着で隙のない『歩く六法全書』が、しどろもどろになって早口で弁明する。
その後ろで、藤堂がすかさず小声で暴露した。
「深山店長……倉橋先輩、昨日から『明日は特区のコーヒーを飲むぞ』ってすごくそわそわしてました」
「藤堂ッ!!」
倉橋さんが顔を赤くして振り返る。
──────【LIVE】同接:66,200──────
: 職権乱用www
: 倉橋ニキがしどろもどろにwww
: 歩く六法全書がポンコツ化してる
: 藤堂ちゃんの暴露ナイス!
: どんだけここのコーヒー楽しみにしてたんだよw
: 可愛すぎるだろこのおじさん
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俺はたまらず吹き出した。
「ははっ、冗談ですよ。……いらっしゃいませ。空いている席へどうぞ」
俺は「監査官」に対する顔ではなく、純粋な「常連客」に対する笑顔で彼を迎え入れた。
倉橋さんが、咳払いを一つして、いつものカウンターの端にある丸太の椅子へと歩みを進める。
すうっ、つるんっ。
スミが『きれい!』と足元の泥を瞬時に吸い取り、床を磨き上げる。
ぽわんっ。
石の炉ではポッカが『あっためる!』と炎を揺らし、冷えた空気をじんわりと温める。
そこへ、コハクがトコトコと駆け寄ってきた。
倉橋さんのブーツの匂いをふんふんと嗅ぎ、首を傾げる。
──『コハク:しってる』
──『コハク:ひさしぶり』
コハクは嬉しそうに短い尻尾をふりふりと揺らし、倉橋さんの足元に柔らかな冬毛をすりすりと押し付けた。
「……お前も、元気そうだな」
倉橋さんは完全に毒気を抜かれたように口元を緩め、不器用な手つきでコハクの頭をそっと撫でた。
そして。
カウンターの奥で待機していたSSランクの銀狼――グレイが、ゆっくりと立ち上がった。
グレイは、豆を挽くよりも先に、カウンターの後ろにある食器棚へと振り返る。
そして、その一番上の段。
普段の営業では手が届かない、誰の手垢もつかない特等席に大切に保管されていた『一つのカップ』を、長い鼻先でそっと手繰り寄せた。
少し厚手で、装飾のないシンプルな陶器のカップ。
倉橋さんが異動になる最後の日、グレイが自ら洗い、あの場所にしまい込んだ『倉橋専用』のカップだった。
──────【LIVE】同接:68,500──────
: あっ……!
: あの時のカップだ!
: 一番上の棚から降ろしてきた……っ
: グレイ店長、ちゃんと保管してたんだな(涙)
: エモすぎる。最高の再会じゃん
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グレイはそのカップをカウンターに置くと、無言のまま、特大のミルを回し始めた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
重厚な粉砕音。
ポッカが完璧な温度でキープした湧き水が、静かに注がれていく。
トトトトト……という小気味よい水音と共に、深淵珈琲の芳醇な香りが店内に満ちた。
やがて、湯気を立てる黒褐色の液体が注がれた専用カップが、長い鼻先でスッと倉橋さんの前へと押し出される。
──『グレイ:飲め』
画面の端に落ちた、たった二文字の字幕。
それは、最下層のボス魔獣からの、この上ない歓迎の合図だった。
「……ああ。いただくよ」
倉橋さんは、微かに震える手でそのカップを両手で包み込んだ。
そして、目を閉じ、深く香りを吸い込んでから、ゆっくりと一口飲む。
「…………」
長い沈黙。
本部での激務。ルールと秩序を守るための、血の滲むようなプレッシャー。
その全てが、極上のコーヒーの苦味と透き通るような甘みによって、彼の強張った神経からスッと抜け落ちていくのが分かった。
「……美味い」
ただ一言。
その呟きの中に、彼がこの場所をどれほど求めていたかが詰まっていた。
カウンターの奥で、グレイは何も言わない。
ただ、その巨大な尻尾が、ほんの一度だけ。
バフッと、嬉しそうに揺れたのを、俺は見逃さなかった。
◇
それから一時間ほど。
倉橋さんはコハクの温もりに触れながら、ただ無言でコーヒーのおかわりを飲み、静かな時間を堪能していた。
やがて、藤堂が「そろそろお時間が……」と声をかけると、倉橋さんはゆっくりと立ち上がった。
「深山」
帰り際。
防護コートの襟を正した倉橋さんが、真っ直ぐに俺の目を見た。
「執行部として、協会の制度改正案を一つ通した」
「改正案、ですか?」
「ああ。君たちのこの特区は、今や多くの探索者にとっての『象徴』になりつつある。だが、無闇に人を入れればこの秩序は崩壊する」
倉橋さんは、チラリとグレイを見た後、静かに告げた。
「だから、妥協案を作った。……お前たちの特区に、年一回の『公開日』を設ける」
「……公開日?」
俺が目を丸くすると、倉橋さんは頷いた。
「一年に一度、限られた時間だけ。協会の厳格な管理と護衛のもとで、少数の一般探索者がこの特区を見学できるようにする制度だ。……もちろん、店側の負担にならない範囲でな」
──────【LIVE】同接:72,000──────
: ファッ!?
: 年一回の公開日!?
: つまり、俺らでも行けるチャンスができるってこと!?
: 倉橋ニキ、有能すぎるだろおおおお!!
: 最高の法改正キターーー!!
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コメント欄が、信じられないほどの熱狂で爆発した。
「……公開日。なるほど、それならうちの日常を壊さずに、待ってくれている人たちを迎え入れられるかもしれませんね」
俺が微笑むと、倉橋さんは「詳細は後日、藤堂から通達させる」とだけ言い残し、アーチへと背を向けた。
「また来る。……次も、このカップで頼む」
それだけを言い残し、歩く六法全書は、藤堂と共に静かに地上へと帰っていった。
俺は、カウンターに残された専用カップを手に取り、小さく笑った。
「公開日、か。……もしやるなら、開業一周年の記念日あたりがいいかもしれないな」
俺たちの居場所が、また一つ、新しい未来へと繋がっていく。
温かいコーヒーの余韻の中で、そんな予感が静かに胸を膨らませていた。




