第93話 【始まり】倉橋先輩が「絶対飲め」と言ったコーヒー
【現在:開業150日目】
チリロ、チリリン。
天井のツタの上から、チルが澄んだ鈴の音を響かせた。
今日は魔石中継器のスイッチを入れた、通常通りの配信営業日だ。
──────【LIVE】同接:56,800──────
※探索者協会認定・第五十階層特別安全区(特区)
: うぽつー!
: 今日も癒やしを求めてやってきたぜ
: ルウちゃんの深淵支店、どうなってるかな
: おや、入り口に誰か来たぞ?
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「いらっしゃい――あ、藤堂さん」
俺が入り口のアーチに向けて声をかけると、協会の制服をきっちりと着込み、分厚いファイルを胸に抱えた若い女性が、ビクッと肩を跳ねさせた。
「た、ただいまより! 探索者協会・監査部による、第五十階層特別安全区の定期査察を実施いたします!」
裏返りそうなほどの大きな声で宣言したのは、歩く六法全書・倉橋さんの後任として着任した新米監査官の藤堂だ。
倉橋さんが本部へ異動になり、この店の担当を外れてから約二週間。
今日は、彼女が初めて「単独」でこの特区の監査に訪れる日だった。
「お疲れ様です。どうぞ、中へ」
俺が促すと、彼女はロボットのようにカクカクとした歩みで店内へと入ってきた。
その視線は、俺には向いていない。
カウンターの奥で黙々と豆を選別しているSSランクの銀狼――グレイと、丸太の椅子で欠伸をしているコハクを、限界まで見開いた目でがっちりとロックオンしている。
頭では安全だと分かっていても、本能が警鐘を鳴らしてやまないのだろう。
配信のカメラが回っているという緊張感も相まって、彼女の顔はガチガチに強張っていた。
──────【LIVE】同接:58,100──────
: 新しい監査官の人だ!
: ガチガチに緊張してて草
: 倉橋さんとはまた違うベクトルで真面目そうだな
: まあ普通はSSランク魔獣がいたらこうなるわなww
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「そ、それでは、水質検査と、魔獣の動線確認を……っ!」
藤堂は震える手でファイルを開き、チェック項目を一つ一つ、杓子定規に確認し始めた。
水質ヨシ。衛生環境ヨシ。温度管理ヨシ。
彼女が動くたびに、スライムのスミが足元をススッと滑って通り抜け、石の炉からポッカが『なにしてるのー?』と顔を出す。
その度に「ひぃっ!」と小さな悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えながら、彼女はなんとか全ての査察項目を終え、カウンターの前に戻ってきた。
「い、異常ありません……。特区の指定基準は、全て満たされています」
報告を終えた藤堂は、ふらふらとした足取りで、大きく息を吐き出した。
極度の緊張から解放され、立っているのがやっとという様子だ。
「お疲れ様です。一人での初監査、無事に終わりましたね」
俺が労いの言葉をかけると、カウンターの奥で待機していたグレイが、静かに動き出した。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
特大のミルで豆を挽く、重厚で心地よい音が店内に響く。
ポッカが完璧な温度に保ったお湯を、グレイが細く、均一に注いでいく。
もこもこと膨らむ深淵珈琲の粉から、深く、甘い香りが立ち上り、ガチガチだった店内の空気を優しく包み込んでいく。
やがて、グレイの鼻先から俺の手へと、湯気を立てるカップが押し出された。
「どうぞ、藤堂さん。査察の後の、一杯です」
俺がカウンター越しにカップを差し出すと、藤堂は目を丸くして固まった。
「えっ……? あ、あの、私は職務中で……それに、そのコーヒーは、まさかその……銀狼様が……?」
SSランクの魔獣が淹れたコーヒー。
普通の探索者なら、毒でも入っているのではないかと疑って、絶対に口にはしない代物だろう。
だが、藤堂は少しだけ迷った後。
意を決したように、両手でそのカップを受け取った。
「……倉橋先輩が、引き継ぎの最後に言っていたんです」
彼女は、カップの温もりを手のひらで確かめながら、ぽつりと呟いた。
「『あの店の査察が終わったら、必ず、出されたコーヒーを飲め。……そうすれば、私がなぜあの特区を守りたかったのか、理由が分かる』と」
あの堅物の先輩が、そこまで言う理由。
藤堂は、恐る恐るカップに口をつけ、そして、ゆっくりと一口、コーヒーを口に含んだ。
「…………」
その瞬間。
彼女の肩から、憑き物が落ちたように、すうっと力が抜けていくのが分かった。
極上のコーヒーが持つ、クリアな苦味と深く透き通るような甘み。
それは、緊張でこわばりきっていた彼女の神経を、まるでお湯で解きほぐすように、優しく、確かに鎮静化させていった。
「……っ」
藤堂は目を見開き、カップの中の黒褐色の液体を、信じられないものを見るような目で見つめた。
そして、もう一口、今度は自分から進んで深く味わうように飲む。
「……美味しい……」
ガチガチに強張っていた彼女の表情が、ふわりと緩んだ。
それは、監査官としての仮面が剥がれ落ちた、一人の人間の、心からの安堵の笑顔だった。
「きゅんっ!」
ふいに、コハクが丸太の椅子から飛び降り、藤堂の足元へとすりすりと身体を擦り寄せた。
『てきじゃない、つかれてる』というコハクなりの優しい判定だ。
スミも足元へ滑り寄り、藤堂のブーツについたダンジョンの土を、つるんと吸い取って綺麗に磨き上げる。
「あ……ふふっ、くすぐったい……」
先ほどまでは魔獣の気配に怯えていたはずの彼女が。
今は、足元にじゃれつくコハクとスミを見て、心から楽しそうに笑い声を漏らしていた。
──────【LIVE】同接:62,000──────
: 監査官さんの笑顔、いただきました!
: 倉橋さんの言葉、エモすぎるだろ……
: ちゃんと引き継がれてるんだな。この場所の良さが
: これでこの店も安泰だな!
: コハクちゃんの接待スキル高すぎww
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コメント欄も、新しい監査官の誕生を温かく祝福している。
「……先輩の言葉の理由が、分かりました」
藤堂は、空になったカップをカウンターに置くと、真っ直ぐに俺の目を見た。
その目には、もう魔獣に対する理不尽な恐怖はない。
「ここは……本当に、温かい場所なんですね」
「ええ。いつでも、誰でも休める場所です。……またいつでも、飲みに来てくださいね、藤堂さん」
俺が微笑むと、彼女は今度は「監査官」としてではなく、一人の「客」として、深く、綺麗なお辞儀をした。
歩く六法全書が残していった、新しい繋がり。
最下層カフェの温かな日常は、また一人、大切な常連客を迎え入れて、ゆっくりと続いていく。




