表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
92/100

第92話 【記念】数字がどれだけ増えても、俺たちはいつも通り

【現在:開業145日目】





チリロ、チリリン。





天井のツタの上から、チルが開店を知らせる穏やかな鈴の音を響かせた。





俺はカウンターの前に立ち、エプロンの紐をキュッと結び直してから、いつものように配信用『魔石中継器ませきちゅうけいき』のスイッチを入れた。





――その瞬間だった。





ピロロロロロロッ!!





普段なら「ポーン」と一度だけ鳴るはずの接続音が、アラートのように激しく鳴り響き、中継器の空中に投影されるホログラムの数字が、凄まじい勢いで回転を始めた。





10,000……30,000……。

数字は止まることなく跳ね上がり、ほんの数十秒で、見たこともない大台を突破した。





──────【LIVE】同接:51,200──────

※探索者協会認定・第五十階層(ごじゅっかいそう)特別安全区(特区)

: 5万人突破おめでとうおおおおお!!!

: 伝説のカフェ、ついに5万の大台!!

: ルウちゃんの深淵支店オープン記念!

: 記念枠! 記念枠やってくれ店長!!

: 深淵の奥のカフェの映像見せてください!!

: 5万人記念の特別メニューとかありますか!?

──────────────────────





「……うわぁ」





俺は思わず、その圧倒的な数字と、滝のように流れていくコメント欄を見つめて、間の抜けた声を漏らしてしまった。





同接、5万人。

それは、地上の大型スタジアムが満員になるのと同じ数の人間が、今、この瞬間に俺たちのカフェを見ているということだ。





これほどの騒ぎになった理由は、明らかだった。





前回の配信で、ルウが『深淵アビス』の奥で休眠する仲間たちのために、小さなカフェを開いたことを報告したからだ。





人類が誰も手出しできなかった深淵の最奥部。

そこで、数千年を生きる古代種が自ら、俺たちのコーヒーを淹れて仲間を待っている。





その事実が、探索者たんさくしゃたちの間で瞬く間に広まり、各種のまとめサイトやSNSで「奇跡の最下層カフェ」として大々的に取り上げられた結果が、この数字だった。





──────【LIVE】同接:53,400──────

: 記念イベント何やるの!?

: グレイ店長のスーパーラテアート!?

: コハクちゃんのもふもふ触れ合いタイム延長!?

: お祝いのスパチャ投げさせてくれええ!!

──────────────────────





コメント欄は、完全にお祭り騒ぎだった。

「記念企画」や「特別メニュー」を求める声が、画面を埋め尽くしている。





正直に言えば、これだけの人が集まってくれたのだから、何か特別なことをして期待に応えるべきなのかもしれないと、俺も一瞬だけ思った。





だが。





「きゅうっ!」





俺の足元を、金色の毛玉が弾むように駆け抜けていった。





見れば、入り口の植物アーチをくぐって、常連客である角鹿つのじかの親子が、のんびりとした足取りで店に入ってきたところだった。





コハクは嬉しそうに尻尾を振りながら、彼らをいつもの魔獣用の丸太椅子へと案内している。





角鹿の親鹿は、「5万人が見ている」ことなんて欠片も知らない。

ただ、この場所の温泉の温かさと、甘いはちみつラテを求めて、今日も深層の森から歩いてきただけだ。





石の炉では、ポッカがいつも通りにパチパチと心地よい火の粉を散らして、完璧な温度のお湯を沸かしている。

スミは、角鹿たちが落とした土を、つるんと滑って綺麗に吸い取っていった。





そして。

カウンターの奥を振り返ると。





SSランクの銀狼――グレイが。

5万人の熱狂など全く意に介することなく、ただ黙々と、明日のためのコーヒー豆の欠点豆を選別していた。





「…………」





俺は、そのいつもの風景を見て、ふっと肩の力を抜いた。

そうだ。俺たちがやるべきことは、最初から一つしか決まっていない。





俺はカメラに向き直り、一つ咳払いをしてから、静かに、けれどはっきりと語りかけた。





「皆さん、本当にありがとうございます。5万人もの人が、この小さな店を見てくれているなんて、本気(まじ)で夢みたいです」





少しだけ、言葉を切る。





「でも。……ごめんなさい。記念企画も、特別メニューも、今日はやりません」





──────【LIVE】同接:54,100──────

: え?

: やらないの?

: なんで!? 5万人だよ!?

──────────────────────





戸惑いの声が流れる中、俺は背後で寛ぐ角鹿親子に視線を向け、優しく微笑んだ。





「この店は、俺が、コハクやグレイに救ってもらった場所です。ダンジョンで傷ついた人や魔獣が、安心して休めるように作った、ただのカフェなんです」





俺はカウンターの木目を、そっと撫でた。





「数字がどれだけ増えても、それは変わりません。……ここで特別なお祭り騒ぎを始めたら、静かに休みに来てくれている常連のお客さんたちが、落ち着けなくなってしまいますから」





俺の言葉に合わせるように。





ゴリ……ゴリ……ゴリ……。





カウンターの奥から、重厚で心地よい音が響き始めた。

グレイが、特大のミルに豆を落とし、ゆっくりとハンドルを回し始めたのだ。





「俺たちがやるのは、今日も明日も、いつもと同じです」





俺は、グレイの鼻先から押し出されたカップを受け取り、ポッカが沸かしたお湯の入ったケトルを手に取った。





「目の前に来てくれたお客さんに、一杯ずつ、丁寧に、極上のコーヒーを淹れる。……ただ、それだけです」





細く、均一にお湯を注ぐ。

深淵珈琲アビス・コーヒーの、深く甘い香りが画面の向こうまで届くように、祈りを込めて。





画面の端に、すっ、と短い字幕が落ちてきた。





──『グレイ:……いつも通り』





その字幕を見た瞬間。

戸惑っていたコメント欄の空気が、ふわりと、温かいものへと変わっていった。





──────【LIVE】同接:55,000──────

: ……そうだよな。それが一番難しいんだよなぁ。

: 変わらない安心感。だから俺はここが好きなんだ。

: 特別なことなんていらない。この光景が見たかった。

: ずっとこのままでいて。俺たちの最高の居場所。

: 『いつも通り』が一番の記念企画だわ。

──────────────────────





爆発的なお祭り騒ぎは収まり。

その代わりに、深く静かな感動と賛同の声が、画面をゆっくりと流れていく。





俺は完成したはちみつラテを2つお盆に乗せ、角鹿親子の待つ席へと歩き出した。

子鹿が嬉しそうに「ピィッ!」と鳴いて、短い尻尾をパタパタと振っている。





同接5万人。

その数字の向こう側にいる一人ひとりも、きっと今、この静かな時間を一緒に味わってくれているはずだ。





何も変わらない。

数字がどれだけ増えようと、世界がどう変わろうと。





最下層カフェは、今日もただ、温かい極上の一杯を淹れ続ける。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ