第92話 【記念】数字がどれだけ増えても、俺たちはいつも通り
【現在:開業145日目】
チリロ、チリリン。
天井のツタの上から、チルが開店を知らせる穏やかな鈴の音を響かせた。
俺はカウンターの前に立ち、エプロンの紐をキュッと結び直してから、いつものように配信用『魔石中継器』のスイッチを入れた。
――その瞬間だった。
ピロロロロロロッ!!
普段なら「ポーン」と一度だけ鳴るはずの接続音が、アラートのように激しく鳴り響き、中継器の空中に投影されるホログラムの数字が、凄まじい勢いで回転を始めた。
10,000……30,000……。
数字は止まることなく跳ね上がり、ほんの数十秒で、見たこともない大台を突破した。
──────【LIVE】同接:51,200──────
※探索者協会認定・第五十階層特別安全区(特区)
: 5万人突破おめでとうおおおおお!!!
: 伝説のカフェ、ついに5万の大台!!
: ルウちゃんの深淵支店オープン記念!
: 記念枠! 記念枠やってくれ店長!!
: 深淵の奥のカフェの映像見せてください!!
: 5万人記念の特別メニューとかありますか!?
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「……うわぁ」
俺は思わず、その圧倒的な数字と、滝のように流れていくコメント欄を見つめて、間の抜けた声を漏らしてしまった。
同接、5万人。
それは、地上の大型スタジアムが満員になるのと同じ数の人間が、今、この瞬間に俺たちのカフェを見ているということだ。
これほどの騒ぎになった理由は、明らかだった。
前回の配信で、ルウが『深淵』の奥で休眠する仲間たちのために、小さなカフェを開いたことを報告したからだ。
人類が誰も手出しできなかった深淵の最奥部。
そこで、数千年を生きる古代種が自ら、俺たちのコーヒーを淹れて仲間を待っている。
その事実が、探索者たちの間で瞬く間に広まり、各種のまとめサイトやSNSで「奇跡の最下層カフェ」として大々的に取り上げられた結果が、この数字だった。
──────【LIVE】同接:53,400──────
: 記念イベント何やるの!?
: グレイ店長のスーパーラテアート!?
: コハクちゃんのもふもふ触れ合いタイム延長!?
: お祝いのスパチャ投げさせてくれええ!!
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コメント欄は、完全にお祭り騒ぎだった。
「記念企画」や「特別メニュー」を求める声が、画面を埋め尽くしている。
正直に言えば、これだけの人が集まってくれたのだから、何か特別なことをして期待に応えるべきなのかもしれないと、俺も一瞬だけ思った。
だが。
「きゅうっ!」
俺の足元を、金色の毛玉が弾むように駆け抜けていった。
見れば、入り口の植物アーチをくぐって、常連客である角鹿の親子が、のんびりとした足取りで店に入ってきたところだった。
コハクは嬉しそうに尻尾を振りながら、彼らをいつもの魔獣用の丸太椅子へと案内している。
角鹿の親鹿は、「5万人が見ている」ことなんて欠片も知らない。
ただ、この場所の温泉の温かさと、甘いはちみつラテを求めて、今日も深層の森から歩いてきただけだ。
石の炉では、ポッカがいつも通りにパチパチと心地よい火の粉を散らして、完璧な温度のお湯を沸かしている。
スミは、角鹿たちが落とした土を、つるんと滑って綺麗に吸い取っていった。
そして。
カウンターの奥を振り返ると。
SSランクの銀狼――グレイが。
5万人の熱狂など全く意に介することなく、ただ黙々と、明日のためのコーヒー豆の欠点豆を選別していた。
「…………」
俺は、そのいつもの風景を見て、ふっと肩の力を抜いた。
そうだ。俺たちがやるべきことは、最初から一つしか決まっていない。
俺はカメラに向き直り、一つ咳払いをしてから、静かに、けれどはっきりと語りかけた。
「皆さん、本当にありがとうございます。5万人もの人が、この小さな店を見てくれているなんて、本気で夢みたいです」
少しだけ、言葉を切る。
「でも。……ごめんなさい。記念企画も、特別メニューも、今日はやりません」
──────【LIVE】同接:54,100──────
: え?
: やらないの?
: なんで!? 5万人だよ!?
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戸惑いの声が流れる中、俺は背後で寛ぐ角鹿親子に視線を向け、優しく微笑んだ。
「この店は、俺が、コハクやグレイに救ってもらった場所です。ダンジョンで傷ついた人や魔獣が、安心して休めるように作った、ただのカフェなんです」
俺はカウンターの木目を、そっと撫でた。
「数字がどれだけ増えても、それは変わりません。……ここで特別なお祭り騒ぎを始めたら、静かに休みに来てくれている常連のお客さんたちが、落ち着けなくなってしまいますから」
俺の言葉に合わせるように。
ゴリ……ゴリ……ゴリ……。
カウンターの奥から、重厚で心地よい音が響き始めた。
グレイが、特大のミルに豆を落とし、ゆっくりとハンドルを回し始めたのだ。
「俺たちがやるのは、今日も明日も、いつもと同じです」
俺は、グレイの鼻先から押し出されたカップを受け取り、ポッカが沸かしたお湯の入ったケトルを手に取った。
「目の前に来てくれたお客さんに、一杯ずつ、丁寧に、極上のコーヒーを淹れる。……ただ、それだけです」
細く、均一にお湯を注ぐ。
深淵珈琲の、深く甘い香りが画面の向こうまで届くように、祈りを込めて。
画面の端に、すっ、と短い字幕が落ちてきた。
──『グレイ:……いつも通り』
その字幕を見た瞬間。
戸惑っていたコメント欄の空気が、ふわりと、温かいものへと変わっていった。
──────【LIVE】同接:55,000──────
: ……そうだよな。それが一番難しいんだよなぁ。
: 変わらない安心感。だから俺はここが好きなんだ。
: 特別なことなんていらない。この光景が見たかった。
: ずっとこのままでいて。俺たちの最高の居場所。
: 『いつも通り』が一番の記念企画だわ。
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爆発的なお祭り騒ぎは収まり。
その代わりに、深く静かな感動と賛同の声が、画面をゆっくりと流れていく。
俺は完成したはちみつラテを2つお盆に乗せ、角鹿親子の待つ席へと歩き出した。
子鹿が嬉しそうに「ピィッ!」と鳴いて、短い尻尾をパタパタと振っている。
同接5万人。
その数字の向こう側にいる一人ひとりも、きっと今、この静かな時間を一緒に味わってくれているはずだ。
何も変わらない。
数字がどれだけ増えようと、世界がどう変わろうと。
最下層カフェは、今日もただ、温かい極上の一杯を淹れ続ける。




