第90話 【別れ】初めて聞いた、あの人の「ありがとう」
【現在:開業135日目】
新米監査官である藤堂の、ガチガチに緊張した査察が、ようやく終わろうとしていた。
水源のクオリティ、魔獣の動線管理、衛生状態。
藤堂は、手元の分厚いファイルと照らし合わせながら、時折グレイやコハクの姿を見てビクッと肩を跳ねさせつつも、なんとか全てのチェック項目を確認し終えた。
「い、異常ありません、倉橋先輩! 特区の指定基準を、全て高い水準で満たしています!」
報告を受けた倉橋さんは、藤堂のファイルを一瞥して静かに頷いた。
「ご苦労。これで、後任への引き継ぎと……私の担当としての最後の監査は終了だ」
倉橋さんがそう宣言すると、店内に漂っていた僅かな緊張感が、ふわりと解けたような気がした。
「お疲れ様です、倉橋さん。藤堂さんも」
俺が声をかけると、カウンターの奥で待機していたグレイが、静かに動き出した。
極上の豆を、ミルへと落とす。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……という重厚で心地よい音が、仕事終わりの静かなカフェに響き渡った。
今日淹れるのは、特別な祝いのメニューでも、新しいアレンジコーヒーでもない。
倉橋さんがこの店に来るたびに頼んでいた、いつもの『深淵珈琲』のホットだ。
少し厚手で、装飾のないシンプルな陶器のカップ。
それが、実用性を重んじるこの堅物な監査官の「専用カップ」として、いつの間にか定着していた。
グレイは、ポッカが完璧な温度に保ったお湯を、細く、均一に注いでいく。
もこもこと膨らむコーヒーの粉から、深く、どこか心を落ち着かせるような香ばしい匂いが立ち上った。
完成したその一杯が、俺の手を介して、カウンター越しに差し出される。
「どうぞ。いつものやつです」
「ああ。いただく」
倉橋さんは、いつものようにカウンターの端にある丸太の椅子へと腰を下ろした。
防護コートの襟を少しだけ緩め、両手でカップを包み込む。
そして、立ち上る湯気と香りをゆっくりと吸い込んでから、静かに一口、コーヒーを口に含んだ。
「…………」
長い沈黙。
その間、藤堂は「あの厳格な倉橋先輩が、魔獣の淹れたコーヒーをあんなに無防備に飲んでいる」という事実に、目を丸くして固まっていた。
倉橋さんは目を閉じ、ただ静かに、その味を噛み締めているようだった。
思えば、彼が初めてこの店にやって来た時のことは、今でもはっきりと覚えている。
「現行法で言うと真っ黒だ」と、冷徹な事実だけを突きつけてこの店を活動停止にしようとした彼。
グレイが置いたカップの音に反射的に大剣へ手を伸ばし、それでも『客、座れ。冷める』という不器用な字幕と極上の一杯に、すっかり毒気を抜かれてしまった姿。
「歩く六法全書」と呼ばれ、ルールと秩序だけを重んじていた彼が、この理外のカフェを『特異点』として認め、今日まで誰よりも強固に守ってくれたのだ。
やがて、倉橋さんはゆっくりと息を吐き出し、最後の一滴まで綺麗にカップを空にした。
コトリ、と。
空になったカップが、カウンターの上に置かれる。
倉橋さんは立ち上がり、防護コートの乱れを正すと、藤堂に向かって短く指示を出した。
「藤堂、お前は先に戻って報告書をまとめておけ。私は野暮用を済ませてから帰る」
「は、はいっ! 失礼いたします!」
藤堂は俺たちに向かって深々とお辞儀をし、逃げるような早足で入り口の植物アーチをくぐっていった。
店内に残ったのは、俺とグレイ、そして倉橋さんだけになる。
倉橋さんは、帰り支度をするわけでもなく、真っ直ぐに俺の方へと向き直った。
その表情は、いつもの監査官としての厳しい顔ではなく、一人の不器用な男の顔だった。
「深山」
静かな声で、名前を呼ばれる。
「はい」
俺が背筋を伸ばして応えると、倉橋さんは少しだけ視線を落とし、それから、はっきりと口を動かした。
「……ありがとう」
「えっ……」
俺は、思わず目を見開いた。
あの堅物が。決して個人的な感情を表に出さず、常に「協会の利益のためだ」と嘯いていたあの人が。
今、はっきりと感謝の言葉を口にしたのだ。
「この店があったおかげで……」
倉橋さんは、カウンターの奥のグレイ、そして足元で寝ているコハクを順番に見やり、最後に俺の目を見た。
「俺の仕事が、楽しかった時期ができた」
それは、彼なりの最大限の賛辞であり、本音だった。
ルールと書類に埋もれていた彼の日々に、この理不尽で温かいカフェが、確かな彩りを与えていたのだ。
「倉橋さん……」
俺が何か言葉を返そうとする前に、倉橋さんはフイッと踵を返した。
「査察は終わりだ。これ以上、長居する理由はない」
照れ隠しのように早口で言い捨て、彼がアーチへと向かって歩き出す。
だが、その背中は、入り口をくぐる直前でピタリと止まった。
「……また、飲みに来る」
顔は向けないまま。
ただそれだけを言い残し、歩く六法全書は、静かに地上へと帰っていった。
◇
アーチの揺れが収まり、カフェにいつもの静寂が戻る。
「……行っちゃいましたね、店長」
俺がぽつりと呟くと、グレイは何も言わず、カウンターの上に残された『倉橋専用』のカップを、長い鼻先でそっと手繰り寄せた。
そして、そのカップを洗い場へと移し、いつもの何倍も丁寧に、時間をかけて水洗いを始めた。
キュッ、キュッ、と。
陶器を磨く静かな音が響く。
洗い終わったカップを布巾で拭き上げたグレイは、そのカップを口にくわえると、ゆっくりと立ち上がった。
彼が向かったのは、カウンターの後ろにある食器棚。
その、一番上の段だった。
そこは、普段の営業ではすぐには手が届かない場所。
けれど、誰の手垢もつかない、一番綺麗で、大切に保管される場所だ。
コトリ。
グレイは、一番上の棚の特等席に、そのシンプルな陶器のカップを静かに置いた。
字幕は、出ない。
言葉の代わりに、SSランクの魔獣が示した、一人の人間の男に対する最大限の敬意と、別れの挨拶だった。
俺は、棚を見上げるグレイの巨大な背中を見つめながら、小さく笑いをこぼした。
「……大事にしまってくれたところ悪いけどさ。店長」
俺は、布巾を畳んでカウンターの端に置いた。
「あの人、最後にああ言ってたからな。……きっと、すぐまた使うことになるかもな」
グレイは振り向かず、ただ短く「フン」と鼻を鳴らした。
その尻尾が、ほんの少しだけ嬉しそうに揺れたのを、俺は確実に見逃さなかった。
出会いと別れが交差する、地下五十階層。
最下層カフェの、静かで温かい一日は、今日もゆっくりと更けていく。




