第89話 【異動】歩く六法全書の最後の仕事
【現在:開業135日目】
チリロ、チリリン。
静かな最下層の朝。
入り口のアーチに掛けてあるツタの上から、チルが澄んだ鈴の音を響かせた。
今日は魔石中継器の電源を入れていない、オフラインでの営業日だ。
俺はカウンターの内側で、新しい豆の仕分け作業をしていた手を止め、入り口の植物アーチへと顔を向けた。
「いらっしゃい――」
いつものように声をかけようとした俺は、アーチをくぐってきた人物を見て、少しだけ目を丸くした。
現れたのは、見慣れた防護コート姿の探索者協会・監査官、倉橋さんだ。
だが、今日は彼一人ではなかった。
倉橋さんの少し後ろを、歩幅を合わせるようにして付いてくる人影がもう一つ。
協会の制服をきっちりと身に纏い、腕に分厚いファイルの束を抱え込んだ、若い女性だった。
彼女は、眼鏡の奥の瞳を限界まで見開き、ガチガチに身体をこわばらせながら、店内の光景を信じられないといった様子で見回している。
「……倉橋さん、いらっしゃい。その後ろの方は?」
俺が尋ねると、倉橋さんはいつものようにカウンターの前まで歩み寄り、短く息を吐いた。
「今日から、この特区の担当を引き継ぐことになった後任だ。藤堂、挨拶を」
「は、はいっ!」
促された若い女性――藤堂と呼ばれた新人の監査官は、ビクッと肩を跳ねさせると、俺に向かって九十度の完璧なお辞儀をした。
「ほ、本日からこの第五十階層特別安全区の監査補佐を務めさせていただきます、藤堂と申します! よ、よろしくお願いいたします!」
元気な声だったが、その声の端々は、隠しきれないほどに震えていた。
無理もない。彼女の視線の先、カウンターの奥には、エプロン姿とはいえ、圧倒的な存在感を放つSSランクの魔獣――グレイが立っているのだから。
頭では「ここは安全な特区だ」と理解していても、本能が警鐘を鳴らしてやまないのだろう。
彼女が胸に抱えたファイルが、カタカタと微かに音を立てて震えている。
「きゅう?」
不意に、丸太の椅子で丸くなっていたコハクが、見慣れない客の気配に気づいて顔を上げた。
トコトコと軽い足音を立てて、藤堂の足元へと近づいていく。
そして、彼女のブーツの匂いをすんすんと嗅ぎ始めた。
「ひぃっ……!」
藤堂は、短い悲鳴を飲み込み、その場で完全に石像のように硬直してしまった。
おそらく彼女は、座学で魔獣の生態についてしっかりと学んできた、真面目な優等生なのだろう。
だからこそ、無害そうに見えるコハクから発せられる高ランク魔獣特有の魔力の波長に気づき、動けなくなっているのだ。
「あはは、大丈夫ですよ、藤堂さん。コハクは噛んだりしませんから」
俺が苦笑しながらフォローを入れると、コハクは「てきじゃない」と判断したのか、藤堂のブーツにすりっと一度だけ身体を擦り付け、満足そうに丸太の椅子へと戻っていった。
藤堂は、へなへなとその場に崩れ落ちそうになるのを、必死に踏みとどまっている。
「……おい、藤堂。来る前に言ったはずだぞ。ここのルールは独特だ。地上の常識は一切通用しないとな」
倉橋さんが、呆れたような、しかしどこか面倒見の良い先輩のような口調で嗜めた。
「も、申し訳ありません、倉橋先輩……! あ、頭では分かっているのですが、いざ本物の高ランク魔獣を目の前にすると、その、足が……」
「慣れろ。ここはそういう店だ。……私も最初はそうだった」
倉橋さんのその言葉に、俺は思わずクスリと笑ってしまった。
確かに、彼が初めてこの店に来た時も、グレイを前にして相当な警戒心をむき出しにしていた。今ではすっかり常連客の顔をしているが。
「それにしても、引き継ぎってことは……倉橋さん、ついに担当を外れるんですか?」
俺が本題を切り出すと、倉橋さんは静かに頷いた。
「ああ。先日、本部から正式な辞令が下りた。……来月から、協会の運営管理部門、その執行部へ異動になる」
「執行部って……それ、めちゃくちゃ出世じゃないですか!」
俺は目を丸くした。
協会の執行部といえば、探索者に関する法律やダンジョン管理のルールそのものを決定する、事実上のトップ層だ。
歩く六法全書と呼ばれていた、いかにも彼らしい大抜擢の昇進だった。
「おめでとうございます、倉橋さん! いや、これからは倉橋『理事』とか呼んだ方がいいですか?」
「からかうな。現場の担当から外れるというだけだ」
倉橋さんは気まずそうに視線を逸らしたが、その表情は決して悪くはなかった。
「そういうわけだ。今日が、私がこの店の『担当監査官』として来る最後の日になる。この藤堂は真面目で優秀だが、いかんせん杓子定規で融通が利かないところがある。……この特区の空気に慣れるまでは、しばらく私が並走して指導するつもりだ」
「先輩! 融通が利かないというのは心外です。私はただ、協会の定めた安全規定と衛生基準を厳格に遵守しようと……っ!」
藤堂が慌てて反論しようとしたが、その直後。
足元を綺麗にしようと近づいてきたスライムのスミに気づき、「ひゃああっ!?」と再び硬直してしまった。
さらに石の炉からは、火の精霊であるポッカが『お客さん?』とばかりに顔を出し、パチパチと火の粉を散らしている。
どうやら、この生真面目な新米監査官が最下層の空気に慣れるには、もう少しだけ時間がかかりそうだ。
俺は、藤堂の様子を見て小さく笑いながら、再び倉橋さんに向き直った。
「でも、よかった。倉橋さんが本部で偉くなってくれたら、俺たちとしてはすごく心強いですよ」
「……どういう意味だ?」
「だって、倉橋さんがルールを作る側に回ってくれれば、うちみたいな変な店が、これからもっと守られやすくなりますからね」
俺が真っ直ぐにそう言うと、倉橋さんはわずかに目を見開いた。
最下層で魔獣がコーヒーを淹れ、古代種がお茶を飲みに来る。
そんな前代未聞のカフェが、今日まで誰にも邪魔されずに営業を続けられたのは、間違いなく彼が矢面に立ち、特区という盾を作ってくれたからだ。
あの日、路地裏に放り出された俺に、居場所を与えてくれた恩人。
彼が上に立つということは、この店にとってこれ以上ないほどの希望だった。
「……余計な世話だ。私はただ、協会の利益と秩序のために仕事をしているだけだ」
倉橋さんは、いつものように顔をしかめてそっぽを向いた。
だが、その口元は、隠しきれないほどにわずかに緩んでいた。
「さあ、無駄話は終わりだ。藤堂、査察を始めるぞ。項目のチェックを頼む」
「は、はいっ! ええと、まずは水源の確保と、水質検査の……」
震える手でファイルを開く藤堂を促し、倉橋さんが店内の確認を始める。
その背中は、いつもの監査の時と同じようにピンと伸びていたが、どこか少しだけ、肩の荷が下りたような軽やかさがあった。
俺はカウンターの奥に視線を送り、グレイと小さく頷き合う。
歩く六法全書の、担当としての最後の仕事。
それを最高の一杯で労うために、俺たちは静かにコーヒーの準備を始めた。




