表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
86/100

第86話 【師弟】蒸らし0.5秒ずれただけで『やり直し』

【現在:開業125日目】





チリロ、チリリン。





天井のツタの上から、チルが今日という一日の始まりを告げる。



俺は魔石中継器のスイッチを入れ、いつものように配信用のカメラを起動した。





──────【LIVE】同接:44,200──────

※探索者協会認定・第五十階層(ごじゅっかいそう)特別安全区(特区)

: うぽつー!

: 今日も最下層は平和そうだね

: 画面越しでも落ち着く空間

: おや? グレイ店長の横に何かあるぞ?

──────────────────────





「いらっしゃい。今日も最下層カフェは、のんびりと営業中ですよ」





カメラに向かって手を振る。



視聴者たちがすぐに気づいた通り、今日のカウンターの奥は、いつもと少しだけ配置が違っていた。





いつもなら俺が立つはずの、グレイの真横のポジション。

そこに、ドルが岩を削って作ってくれた小さな特製の「木製踏み台」が置かれている。





トコトコと短い足音を立てて、その踏み台の上に登ったのは、樹精型古代種じゅせいけいこだいしゅのルウだった。





彼女の苔むした細い腕からは、鮮緑色のツタがするすると伸びて、ドル特製の軽量ケトルの取っ手をがっちりと掴んでいる。





その真隣には、圧倒的な存在感を放つ灰銀の大狼――グレイが、エプロンをきりっと締めて座っていた。





グレイが「教える」と口にしたわけではない。

だが、自分の聖域であるカウンターの奥にルウが立ち、道具を並べるのを黙認しているということは、彼がルウを「弟子」として受け入れたのと同義だった。





──────【LIVE】同接:46,100──────

: ルウちゃんが店長の隣に立ってる!?

: もしかしてコーヒーを淹れる練習?

: 見習いバリスタ誕生の瞬間か!

: 贅沢すぎる師匠だけど、店長めちゃくちゃ威圧感あるなww

──────────────────────





「それじゃあルウ、今日もドリップの練習を始めようか」





俺が声をかけると、ルウの頭頂部に咲いた花が、やる気に満ちた鮮やかな『黄色』に染まった。





「きゅうっ!」





ルウはツタを器用に操り、ドルが作った小型のミルで挽いたばかりの深淵珈琲アビス・コーヒーの粉を、ドリッパーへと丁寧にセットした。

ポッカが完璧に管理してくれたお湯の入ったケトルを、ゆっくりと持ち上げる。





まずは、コーヒーの味を大きく左右する『蒸らし』の工程だ。

粉全体に、ほんの少しだけお湯を行き渡らせ、二十秒間待つ。





ルウは真剣な目で手元を見つめ、ツタをわずかに傾けた。

細い一筋のお湯が、コーヒーの粉の中心へと注がれる。





粉がふわりと膨らみ、香ばしい香りが立ち上る。

そこまでは、完璧だった。





ルウはお湯を止め、じっと二十秒が経過するのを待つ。

だが、緊張のあまり、ほんのわずかに、本当にコンマ数秒だけ、お湯を注ぎ再開するタイミングが早くなってしまった。





その瞬間。

グレイの黄金の瞳が、鋭く光った。





すっ、と画面の端に容赦のない字幕が落ちてくる。





──『グレイ:やり直し』





「きゅ……っ!?」





ルウの頭の花が、一瞬で緊張の『青色』に染まった。





──────【LIVE】同接:48,000──────

: ええええ!? 今のダメだったの!?

: 蒸らしの時間がコンマ数秒早かった気がする

: 店長の目と耳、誤魔化しが一切効かないな……

: スパルタ店長だww

──────────────────────





「大丈夫、大丈夫。次はタイミングをしっかり数えような」





俺がフォローを入れ、ドリッパーの粉を新しいものに交換してやる。





ルウは気を取り直して、もう一度ケトルを持ち上げた。

今度は秒数を完璧に数え、蒸らしを終える。

続いて、中心から円を描くようにお湯を細く注いでいく工程だ。





ルウはツタの伸縮を極限までコントロールし、慎重にお湯の太さを均一に保とうとしていた。

お湯が途切れることなく、滑らかな放物線を描いて落ちていく。





だが、注ぎ終えた瞬間に、グレイは鼻先でケトルの温度計を突いた。





──『グレイ:やり直し』





「きゅううぅ……」





ルウの頭の花が、困惑と悲しみの『紫色』へと変わっていく。





「あー……お湯の温度が、一回目より1℃だけ高くなっちゃってたみたいだな。ポッカの熱が少しだけ強く入ったか」





グレイの指導には、一切の妥協がなかった。



蒸らしのタイミングがコンマ五秒ずれただけで、やり直し。

お湯の温度が一度違っただけで、やり直し。

注ぐ円の軌道がほんのわずかにブレただけでも、即座に『やり直し』の字幕が非情に突きつけられる。





何十杯もの試行錯誤が繰り返されるうちに、ルウの頭の花は、青色と紫色を激しく行き来し始めた。

やがて、花弁の表面に、じわりと雫のような透明な露が浮かび上がる。

言葉はなくても、完全に涙目になっているのが丸分かりだった。





──────【LIVE】同接:51,500──────

: ああ、ルウちゃんが涙目に……!

: がんばれ、がんばれルウちゃん!

: 店長、本気(まじ)で容赦がなさすぎるww

: 職人の世界は厳しいなぁ

: でもこれ、店長がルウを一人前として認めてるからこその厳しさだよね

──────────────────────





「きゅうぅ……きゅうぅ……」





小さな体を細かく震わせるルウを見て、俺の足元にいた金色の毛玉が、ついに我慢できずに動き出した。





「きゅんっ! きゅんっ!」





──『コハク:るう、泣かないで!』

──『コハク:わたし、応援する! がんばれ!』





コハクは小さな踏み台の横にピョコンと飛び乗ると、ルウの短い足元に、自分の温かい身体をぎゅーっと力いっぱいに押し付け始めた。





俺は、そのコハクとルウのすぐ側にしゃがみこみ、コハクの背中を両手で優しく撫でてやった。





指先が、金色の柔らかな冬毛の奥へとふわりと沈み込んでいく。



手のひらを通してじんわりと伝わってくる、小さな太陽のような確かな命の体温。





俺が何度もゆっくりと撫でていると、コハクは目を細め、喉の奥からゴロゴロという深い振動音を響かせ始めた。

さらさらと毛が擦れる音が店内に広がり、その極上の温もりが、コハクの身体を通じてルウへと伝わっていく。





ルウの身体の震えが、少しずつ、確かに収まっていく。

頭の花の色も、悲しみの紫から、徐々に落ち着きを取り戻すようにオレンジ色へと溶けていった。





「よし、ルウ。もう一回だけ、今度は肩の力を抜いてやってみよう」





「きゅうっ……!」





ルウは露を袖で拭うようにして、もう一度だけ、ツタを伸ばしてケトルを握り直した。





コハクの温もりと、俺の手の感触が、彼女に最後の勇気を与えたのだろう。

ルウの目は、先ほどまでのパニックが嘘のように、ひどく静かに澄み渡っていた。





すう、とお湯が注がれる。





完璧な蒸らし。

完璧な温度。

そして、ツタの微細な振動を完全に抑え込んだ、極細の均一な湯の軌道。





コーヒーの粉が、まるで生き物のように美しく、こんもりとドーム状に膨らんでいく。

最後の一滴が落ちるまで、ルウの集中力は一切途切れなかった。





トトトト……と、ドルの鉱石カップに、美しい黒褐色の液体が溜まっていく。

抽出が、終わった。





ルウは静かにケトルを置き、緊張のあまり花を真っ青に染めたまま、グレイを見上げた。





店内に、張り詰めたような静寂が落ちる。

視聴者たちもコメントを止め、画面越しにその結末をじっと見守っていた。





グレイはゆっくりと首を伸ばし、ドルのカップに鼻先を近づけた。

ふん、と香りを嗅ぎ、それから長い舌を伸ばして、完成したコーヒーをペロリと一口、味わう。





「…………」





長い、長い沈黙。

グレイは目を閉じ、静かにその味を噛み締めていた。





やがて、ゆっくりと黄金の瞳が開かれる。

画面の端に、ぽつんと、新しい字幕が落ちてきた。





──『グレイ:……まあいい』





その瞬間だった。





ぽわぁぁぁぁぁ……っ!!!





ルウの頭頂部の花が、これまでで一番鮮やかな、満開の『ピンク色』へと爆発するように一斉に輝いた。

嬉しさのあまり、小さな足で踏み台の上をぴょんぴょんと跳ね回っている。





──────【LIVE】同接:56,400──────

: 合格でたああああああ!!!

: 店長から『まあいい』をもぎ取ったぞ!!

: ルウちゃんおめでとう!!!

: 画面の前で本気(まじ)で拍手しちゃったわ

: よかった……本当によかった……!

──────────────────────





コメント欄は、文字通り割れんばかりの祝福の嵐で埋め尽くされた。





「やったな、ルウ! 最高の出来だ!」





俺がカウンター越しに身を乗り出し、よく頑張ったと彼女の苔むした頭を優しく撫でると。

ルウは満面の笑みを浮かべるように花を揺らし、俺の手のひらに、自分の小さな頬を嬉しそうに何度もすりすりと擦り付けてきた。





指先から伝わってくるのは、ひんやりとした、けれど真摯にやり遂げた命の、確かな熱量。





グレイはそんな俺たちを横目に、フンと鼻を鳴らして、いつものように自分の仕事へと戻っていった。

その尻尾が、お湯の中で一度だけ、嬉しそうにバフッと揺れたのを俺は見逃さなかった。





深淵の奥へ、いつか届くはずのもう一つの光。

小さな見習いバリスタは、厳しい師匠のもとで、確かにまた一歩、大きな成長を遂げたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ