第86話 【師弟】蒸らし0.5秒ずれただけで『やり直し』
【現在:開業125日目】
チリロ、チリリン。
天井のツタの上から、チルが今日という一日の始まりを告げる。
俺は魔石中継器のスイッチを入れ、いつものように配信用のカメラを起動した。
──────【LIVE】同接:44,200──────
※探索者協会認定・第五十階層特別安全区(特区)
: うぽつー!
: 今日も最下層は平和そうだね
: 画面越しでも落ち着く空間
: おや? グレイ店長の横に何かあるぞ?
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「いらっしゃい。今日も最下層カフェは、のんびりと営業中ですよ」
カメラに向かって手を振る。
視聴者たちがすぐに気づいた通り、今日のカウンターの奥は、いつもと少しだけ配置が違っていた。
いつもなら俺が立つはずの、グレイの真横のポジション。
そこに、ドルが岩を削って作ってくれた小さな特製の「木製踏み台」が置かれている。
トコトコと短い足音を立てて、その踏み台の上に登ったのは、樹精型古代種のルウだった。
彼女の苔むした細い腕からは、鮮緑色のツタがするすると伸びて、ドル特製の軽量ケトルの取っ手をがっちりと掴んでいる。
その真隣には、圧倒的な存在感を放つ灰銀の大狼――グレイが、エプロンをきりっと締めて座っていた。
グレイが「教える」と口にしたわけではない。
だが、自分の聖域であるカウンターの奥にルウが立ち、道具を並べるのを黙認しているということは、彼がルウを「弟子」として受け入れたのと同義だった。
──────【LIVE】同接:46,100──────
: ルウちゃんが店長の隣に立ってる!?
: もしかしてコーヒーを淹れる練習?
: 見習いバリスタ誕生の瞬間か!
: 贅沢すぎる師匠だけど、店長めちゃくちゃ威圧感あるなww
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「それじゃあルウ、今日もドリップの練習を始めようか」
俺が声をかけると、ルウの頭頂部に咲いた花が、やる気に満ちた鮮やかな『黄色』に染まった。
「きゅうっ!」
ルウはツタを器用に操り、ドルが作った小型のミルで挽いたばかりの深淵珈琲の粉を、ドリッパーへと丁寧にセットした。
ポッカが完璧に管理してくれたお湯の入ったケトルを、ゆっくりと持ち上げる。
まずは、コーヒーの味を大きく左右する『蒸らし』の工程だ。
粉全体に、ほんの少しだけお湯を行き渡らせ、二十秒間待つ。
ルウは真剣な目で手元を見つめ、ツタをわずかに傾けた。
細い一筋のお湯が、コーヒーの粉の中心へと注がれる。
粉がふわりと膨らみ、香ばしい香りが立ち上る。
そこまでは、完璧だった。
ルウはお湯を止め、じっと二十秒が経過するのを待つ。
だが、緊張のあまり、ほんのわずかに、本当にコンマ数秒だけ、お湯を注ぎ再開するタイミングが早くなってしまった。
その瞬間。
グレイの黄金の瞳が、鋭く光った。
すっ、と画面の端に容赦のない字幕が落ちてくる。
──『グレイ:やり直し』
「きゅ……っ!?」
ルウの頭の花が、一瞬で緊張の『青色』に染まった。
──────【LIVE】同接:48,000──────
: ええええ!? 今のダメだったの!?
: 蒸らしの時間がコンマ数秒早かった気がする
: 店長の目と耳、誤魔化しが一切効かないな……
: スパルタ店長だww
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「大丈夫、大丈夫。次はタイミングをしっかり数えような」
俺がフォローを入れ、ドリッパーの粉を新しいものに交換してやる。
ルウは気を取り直して、もう一度ケトルを持ち上げた。
今度は秒数を完璧に数え、蒸らしを終える。
続いて、中心から円を描くようにお湯を細く注いでいく工程だ。
ルウはツタの伸縮を極限までコントロールし、慎重にお湯の太さを均一に保とうとしていた。
お湯が途切れることなく、滑らかな放物線を描いて落ちていく。
だが、注ぎ終えた瞬間に、グレイは鼻先でケトルの温度計を突いた。
──『グレイ:やり直し』
「きゅううぅ……」
ルウの頭の花が、困惑と悲しみの『紫色』へと変わっていく。
「あー……お湯の温度が、一回目より1℃だけ高くなっちゃってたみたいだな。ポッカの熱が少しだけ強く入ったか」
グレイの指導には、一切の妥協がなかった。
蒸らしのタイミングがコンマ五秒ずれただけで、やり直し。
お湯の温度が一度違っただけで、やり直し。
注ぐ円の軌道がほんのわずかにブレただけでも、即座に『やり直し』の字幕が非情に突きつけられる。
何十杯もの試行錯誤が繰り返されるうちに、ルウの頭の花は、青色と紫色を激しく行き来し始めた。
やがて、花弁の表面に、じわりと雫のような透明な露が浮かび上がる。
言葉はなくても、完全に涙目になっているのが丸分かりだった。
──────【LIVE】同接:51,500──────
: ああ、ルウちゃんが涙目に……!
: がんばれ、がんばれルウちゃん!
: 店長、本気で容赦がなさすぎるww
: 職人の世界は厳しいなぁ
: でもこれ、店長がルウを一人前として認めてるからこその厳しさだよね
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「きゅうぅ……きゅうぅ……」
小さな体を細かく震わせるルウを見て、俺の足元にいた金色の毛玉が、ついに我慢できずに動き出した。
「きゅんっ! きゅんっ!」
──『コハク:るう、泣かないで!』
──『コハク:わたし、応援する! がんばれ!』
コハクは小さな踏み台の横にピョコンと飛び乗ると、ルウの短い足元に、自分の温かい身体をぎゅーっと力いっぱいに押し付け始めた。
俺は、そのコハクとルウのすぐ側にしゃがみこみ、コハクの背中を両手で優しく撫でてやった。
指先が、金色の柔らかな冬毛の奥へとふわりと沈み込んでいく。
手のひらを通してじんわりと伝わってくる、小さな太陽のような確かな命の体温。
俺が何度もゆっくりと撫でていると、コハクは目を細め、喉の奥からゴロゴロという深い振動音を響かせ始めた。
さらさらと毛が擦れる音が店内に広がり、その極上の温もりが、コハクの身体を通じてルウへと伝わっていく。
ルウの身体の震えが、少しずつ、確かに収まっていく。
頭の花の色も、悲しみの紫から、徐々に落ち着きを取り戻すようにオレンジ色へと溶けていった。
「よし、ルウ。もう一回だけ、今度は肩の力を抜いてやってみよう」
「きゅうっ……!」
ルウは露を袖で拭うようにして、もう一度だけ、ツタを伸ばしてケトルを握り直した。
コハクの温もりと、俺の手の感触が、彼女に最後の勇気を与えたのだろう。
ルウの目は、先ほどまでのパニックが嘘のように、ひどく静かに澄み渡っていた。
すう、とお湯が注がれる。
完璧な蒸らし。
完璧な温度。
そして、ツタの微細な振動を完全に抑え込んだ、極細の均一な湯の軌道。
コーヒーの粉が、まるで生き物のように美しく、こんもりとドーム状に膨らんでいく。
最後の一滴が落ちるまで、ルウの集中力は一切途切れなかった。
トトトト……と、ドルの鉱石カップに、美しい黒褐色の液体が溜まっていく。
抽出が、終わった。
ルウは静かにケトルを置き、緊張のあまり花を真っ青に染めたまま、グレイを見上げた。
店内に、張り詰めたような静寂が落ちる。
視聴者たちもコメントを止め、画面越しにその結末をじっと見守っていた。
グレイはゆっくりと首を伸ばし、ドルのカップに鼻先を近づけた。
ふん、と香りを嗅ぎ、それから長い舌を伸ばして、完成したコーヒーをペロリと一口、味わう。
「…………」
長い、長い沈黙。
グレイは目を閉じ、静かにその味を噛み締めていた。
やがて、ゆっくりと黄金の瞳が開かれる。
画面の端に、ぽつんと、新しい字幕が落ちてきた。
──『グレイ:……まあいい』
その瞬間だった。
ぽわぁぁぁぁぁ……っ!!!
ルウの頭頂部の花が、これまでで一番鮮やかな、満開の『ピンク色』へと爆発するように一斉に輝いた。
嬉しさのあまり、小さな足で踏み台の上をぴょんぴょんと跳ね回っている。
──────【LIVE】同接:56,400──────
: 合格でたああああああ!!!
: 店長から『まあいい』をもぎ取ったぞ!!
: ルウちゃんおめでとう!!!
: 画面の前で本気で拍手しちゃったわ
: よかった……本当によかった……!
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コメント欄は、文字通り割れんばかりの祝福の嵐で埋め尽くされた。
「やったな、ルウ! 最高の出来だ!」
俺がカウンター越しに身を乗り出し、よく頑張ったと彼女の苔むした頭を優しく撫でると。
ルウは満面の笑みを浮かべるように花を揺らし、俺の手のひらに、自分の小さな頬を嬉しそうに何度もすりすりと擦り付けてきた。
指先から伝わってくるのは、ひんやりとした、けれど真摯にやり遂げた命の、確かな熱量。
グレイはそんな俺たちを横目に、フンと鼻を鳴らして、いつものように自分の仕事へと戻っていった。
その尻尾が、お湯の中で一度だけ、嬉しそうにバフッと揺れたのを俺は見逃さなかった。
深淵の奥へ、いつか届くはずのもう一つの光。
小さな見習いバリスタは、厳しい師匠のもとで、確かにまた一歩、大きな成長を遂げたのだった。




