第85話 【弟子】深淵にも温かい場所を作るために
【現在:開業122日目】
本日の営業が終了し、店内に穏やかな静寂が戻った、のんびりとした午後。
配信用の魔石中継器の電源は落としてある。
石の炉ではポッカが小さな火種となってパチパチと心地よい音を立て、スミはカウンターの隅でつるんと丸くなって休んでいた。
カウンターの端にあるお気に入りの丸太椅子には、ルウがちょこんと座っている。
彼女は、小さな両手で大切そうに抱え込んだはちみつラテのマグカップを、名残惜しそうに最後の一口まで綺麗に飲み干したところだった。
俺はカウンターを拭く手を止め、その様子を眺めながら、ずっと温めていた提案を切り出すことにした。
「なぁ、ルウ。……もしよかったら、俺からコーヒーの淹れ方を習ってみないか?」
「きゅ……?」
ルウは不思議そうに首を傾げた。
頭頂部に咲いた安心のオレンジ色の花が、かすかに小刻みに揺れる。
「この間の記憶で、お前の仲間たちが深淵の奥で眠っているって分かっただろ? だけど、もしルウが美味しいコーヒーを淹れられるようになったら……。深淵の奥にも、お前自身の手で、うちの店みたいな温かい場所を作れるようになるんじゃないかって思ったんだ」
俺は、ルウの小さな目を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「いつか、長い眠りから目を覚ますお前の仲間たちのために。最初に出迎える場所を、お前が作れたら素敵だろ?」
その瞬間だった。
ぽわん、と。
ルウの頭頂部の花が、驚きを示す鮮やかな『黄色』へと一瞬で染まった。
彼女は小さな三本指の手を胸の前にぎゅっと握りしめ、言葉のない波長を俺のスキル【万獣統括】へと送ってくる。
――わたしが?
――あたたかい、ばしょを?
「ああ、お前ならきっとできるよ。ドルが道具を作ってくれるって言ってたしな。まずは基本の焙煎とドリップから、俺が全部教えてやる」
俺が微笑むと、ルウの頭の花の色が、黄色からゆっくりと、これまで見たこともないような『虹色のグラデーション』へと変化していった。
それは、彼女の胸の奥底に灯った、小さな希望と強い決意の現れだった。
花弁が嬉しそうにゆらゆらと揺れる。
「よし、じゃあ早速始めてみようか。まずは豆を挽くところからだ」
俺はカウンターの上に、手回し式の小さなコーヒーミルを取り出した。
だが、ここで最初の課題が持ち上がる。
ルウの身体は俺の膝丈ほどしかなく、手も苔に覆われた三本指だ。人間の大人が使う道具をそのまま扱うには、どうしても少し不自由だった。
ルウは丸太椅子から身を乗り出し、一生懸命にミルのハンドルを掴もうとした。
けれど、指がうまく引っかからず、力を入れようとするとミルごとコロンとひっくり返りそうになってしまう。
「きゅうぅ……」
花の色が、一瞬で落ち込みを示す『紫色』に変わりかける。
「焦らなくていいよ。どうすればやりやすいか、一緒に考えよう」
俺が声をかけた、その時だった。
ルウは何かを思いついたように、小さな目を輝かせた。
「きゅうっ!」
彼女が短く鳴くと、苔むした細い腕から、スルスルと鮮緑色の『ツタ』が伸びていった。
そのツタは生き物のようにミルのハンドルへと巻き付き、がっちりと固定される。
ルウは自分の腕を動かす代わりに、そのツタを器用に伸縮させ、ミルのハンドルを回し始めた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
ツタは彼女の身体の一部のようになめらかに動き、ミルをしっかりと支えながら、驚くほど安定した速度でハンドルを回転させていく。
「おお……すごいな、ルウ! 本気で天才か?」
これには俺も目を見開いた。
植物を操る樹精型の古代種ならではの、独自のスタイル。これなら手の不自由さは完全にカバーできる。
褒められたルウの頭の花が、一気に得意げな『薄緑色』へと跳ね上がった。
だが、ここからが本当の試練だった。
続いて、生豆を煎る『焙煎』の練習だ。
網のロースターに緑色の生豆を入れ、石の炉の上で細かく振りながら火を通していく。
ポッカにお願いして、練習用の安定した弱火をキープしてもらう。
「ルウ、豆の色をよく見るんだ。だんだん黄色くなって、それから茶色に変わっていく。パチパチって音が鳴ったら、それが豆が爆ぜた合図だからな」
ルウは、ロースターをツタで支えながら、真剣な顔で炉の炎を見つめていた。
しかし、集中するあまり、ロースターを振る手をぴたりと止めてしまう。
一瞬の後。
ロースターから、モウモウと黒い煙が立ち上った。
「あ、ルウ、手を止めちゃダメだ! 焦げる!」
慌ててロースターを火から遠ざけたが、時すでに遅し。
網の中には、コーヒーの香ばしい匂いではなく、鼻を突くような焦げ臭い煙と共に、真っ黒な炭のようになってしまった豆が転がっていた。
「きゅうううぅ……」
ルウの頭の花が、焦りとパニックを示す『赤茶色』に染まり、雫のような露が花弁にぷつぷつと浮かび上がる。
完全に涙目だ。
「ははは、大丈夫、大丈夫。最初はみんな焦がすんだよ。俺だって、最初は炭ばっかり作ってたんだから」
俺は笑いながら、ルウの苔むした小さな頭を優しく撫でた。
手のひらから伝わる彼女の緊張を解きほぐすように、ゆっくりと何度も撫でる。
その時、ずっとカウンターの横で練習を見守っていた金色の毛玉が、我慢できずに動き出した。
「きゅんっ! きゅんっ!」
──『コハク:るう、がんばれ!』
──『コハク:がんばれ! がんばれ!』
コハクは丸太椅子の上にピョコンと飛び乗ると、ルウの小さな体に、自分の温かい身体をぐりぐりと力いっぱいに押し付け始めた。
脳内に響き渡る、コハクのひたすらまっすぐな応援の字幕。
俺はしゃがみこみ、コハクの背中も一緒に撫でてやった。
指先が、金色の柔らかな冬毛の奥へとふわりと沈み込んでいく。
手のひらを通してじんわりと伝わってくる、ハチミツのような甘い命の確かな体温。
コハクが喉の奥からゴロゴロという深い振動音を鳴らすたびに、さらさらと毛が擦れる音が響き、その極上の温もりがルウの焦りを優しく溶かしていくのが分かった。
ルウの頭の花が、赤茶色から、少しだけ落ち着いた『紫色』へと戻っていく。
「よし、次はドリップの練習だ。お湯を細く、均一に落とすんだぞ」
気を取り直して、ドリップケトルを持たせる。
やはりツタを使ってケトルを傾けるのだが、お湯のコントロールが本当に難しい。
お湯がドバッと一気に出てコーヒーの粉を溢れさせてしまったかと思えば、今度は慎重になりすぎてポタポタと途切れてしまう。
お湯の温度を測るのを忘れて、沸騰したての熱湯を注いでしまうこともしばしばだった。
失敗するたびに、ルウの頭の花は、緊張の『青』、困惑の『紫』、落ち込みの『濃い藍色』へと、くるくると忙しく色を変える。
感情の起伏が丸見えで、ひどく愛らしかった。
「ほら、コハクも応援してるぞ。もう一杯だけ、今度はゆっくり淹れてみよう」
──『コハク:るう、つぎはいける! わたし、のむ!』
何十回目かの挑戦で、ようやく、少しだけ形の整った液体がカップに溜まった。
お湯の温度はバラバラで、抽出時間もめちゃくちゃな、お世辞にも上手とは言えない不格好な一杯だ。
俺はそれを、ルウと、小さな器に分けたコハクの前に置いた。
「よし、みんなで味見してみよう」
俺が一口飲む。
……苦味が強く、酸味がツンと尖った、いびつな味だった。
コハクもペロリと舐めて、少しだけ酸っぱそうに目を細めている。
だけど。
ルウが自分で淹れたそのコーヒーをツタで口元に運び、恐る恐るひと舐めした瞬間。
ぽわぁぁ……っ!
彼女の頭頂部の花が、これまでで一番鮮やかな、満開の『ピンク色』へと爆発するように輝いた。
――にがい。
――でも、あたたかい。
――うれしい。
言葉にならない至福の波長が、俺のスキルを通じて胸いっぱいに流れ込んでくる。
「ははっ、苦いけど温かいな。ルウ、これから毎日、少しずつ練習していこう」
「きゅうっ!!」
ルウは満面の笑みを浮かべるように花を大きく揺らし、俺の手に自分の苔むした頬を嬉しそうにすりすりと擦り付けてきた。
深淵の暗闇に、いつか届くはずのもう一つの温もり。
最下層カフェに誕生した、小さな小さな見習いバリスタの挑戦は、こうして温かな一歩を踏み出したのだった。




