第84話 【問い】『怒らないのか』
【現在:開業118日目】
黒崎と護衛の探索者たちが帰った後、カフェにはいつもの穏やかな静寂が戻っていた。
本日の営業は完全に終了。
使い終わったカップを洗い、床を磨き上げ、明日のための豆の選別を終える頃には、すっかり夜の深い時間になっていた。
丸太の椅子の上では、遊び疲れたコハクが丸くなってスースーと寝息を立てている。
石の炉ではポッカが小さな火種となって眠りにつき、スミもカウンターの隅でつるんと丸くなっていた。
俺はエプロンを外し、温泉エリアへと足を運んだ。
静かに波打つお湯の音と、立ち上る白い湯気。
天井に群生する湯の花結晶が、青白い淡い光を落としている。
「……ふぅっ」
俺は一番温度の低い浴槽に肩まで浸かり、深く、長い息を吐き出した。
今日一日の、特別な疲労感がお湯に溶け出していくのを感じる。
目を閉じると、黒崎が帰る間際に一度だけ見せた、あの深いお辞儀の光景が脳裏に蘇ってきた。
かつて俺を「無能」と切り捨て、冷たい雨の中に放り出した男。
だが、今日店にやってきた彼は、かつての傲慢さを全て失い、ただ疲弊しきった抜け殻のようになっていた。
ギルドも、仲間も、地位も失った彼に、これ以上怒りをぶつける意味なんて、もうどこにもなかった。
天井の結晶をぼんやりと見上げていると、不意に、隣の特大浴槽から静かな水音が聞こえた。
SSランクの銀狼――グレイだ。
彼は巨大な体を特大浴槽に沈め、顎をお湯の表面ギリギリに乗せて、静かにくつろいでいた。
温泉の熱で湿った銀色の毛並みが、お湯の中でふわりと漂っている。
そのグレイが、ゆっくりと黄金の瞳を開け、こちらを見た。
俺の視線と絡み合う。
そして、俺の脳内に、スキル【万獣統括】を通じて短い字幕が落ちてきた。
──『グレイ:怒らないのか』
「……え?」
俺は思わず、間の抜けた声を出してしまった。
グレイが自分から、しかも俺の感情や過去に踏み込むような質問をしてくるのは、極めて稀なことだったからだ。
出会ったあの日から、彼は俺の過去に興味を持たなかった。
ただ目の前にあるコーヒーの味と、この店の平穏だけを求めていたはずだ。
だが、その黄金の瞳は、静かに、けれど確かに俺の内側を見透かすように真っ直ぐに向けられている。
俺は少しだけ苦笑し、お湯の中を歩いて、グレイのいる特大浴槽の縁へと近づいた。
そして、彼の巨大な首元の毛並みに、そっともたれかかる。
温泉のお湯をたっぷりと吸い込んだ銀色の毛は、普段の滑らかさとは少し違い、ずっしりとした心地よい重みと温かさを持っていた。
「……怒ってないわけじゃないよ」
俺は、グレイの体温を感じながら、静かに口を開いた。
「あの日、路地裏に放り出された時の絶望とか、みじめさとか。……今でも覚えてる」
グレイは黙って聞いている。
「でもさ。……あいつはもう、全部失って、十分すぎるほど過去の報いを受けてた。それに……あいつを憎んで怒っている間に、俺のコーヒーが冷めるだろ?」
俺がそう言うと、グレイの喉の奥から「フン」と短い鼻息が漏れた。
「過去のことに囚われて、今ここにある温かい時間を台無しにする方が、俺にとってはよっぽど損なんだ。……あいつに怒りをぶつける時間があるなら、俺は一杯でも多く、美味いコーヒーを淹れたい」
グレイの鼻先から、ぷく、ぷく、とお湯の泡が弾けた。
──『グレイ:……変な奴だ』
画面の端に落ちたその字幕には、どこか呆れたような、それでいて心地よい響きがあった。
「お互い様だろ」
俺は笑いながら、グレイの濡れた首筋を優しく撫でた。
「世界で一番恐ろしいはずのSSランクの魔獣が、毎日エプロンをつけて、お客さんのためにラテアートを描いてるんだからな」
短い沈黙が落ちた。
バフッ!!
ふいに、湯船の中でグレイの巨大な尻尾が一度だけ大きく揺れ、水しぶきが俺の顔にバシャリと掛かった。
「うおっ! ちょ、お湯!」
俺が慌てて顔を拭うと、グレイは目を細め、喉の奥で「グルル……」と低く、深い振動音を鳴らしていた。
字幕は出ないが、それは間違いなく、彼なりの笑い声だった。
俺は顔についた水滴を拭いながら、たまらず吹き出した。
なんてことのない、温かい夜。
けれど、俺にとっては、この時間が何よりも愛おしかった。
俺は再び、グレイの銀色の毛並みに、今度は自分の頬をそっと寄せた。
湿った毛の感触の奥から、ドクン、ドクンという、巨大で力強い命の鼓動が伝わってくる。
絶対に揺らぐことのない、圧倒的な安心感。
「……ここにいられるのは、お前のおかげだ。グレイ」
俺は、目を閉じながら静かに呟いた。
「お前が俺を食わずに、最初の客になってくれたから。……俺は今、ここでこうして息をしてるんだ。ありがとう」
グレイからの字幕は、出なかった。
ただ。
お湯の中に沈んだ彼の巨大な尻尾が、今度は水しぶきを立てることなく。
ゆっくりと、俺の背中を包み込むように、もう一度だけ揺れた。
言葉はいらない。
この温もりと、互いに分け合う時間だけで、十分すぎるほど通じ合っている。
最下層カフェの静かな夜は、深い信頼と共に、穏やかに更けていった。




