第83話 【来店】追放した男と追放された男が、カウンター越しに向かい合う
【現在:開業118日目】
チリロ、チリリン。
天井のツタの上から、チルが穏やかな鈴の音を響かせた。
配信用の魔石中継器の電源は入れていない。今日は協会が定めた療養枠の特別客が来る日だからだ。
俺は布巾でカウンターを拭き上げながら、普段と何一つ変わらないトーンで「いらっしゃい」と声をかける準備をしていた。
ザッ、ザッ。
入り口の植物アーチをくぐって、複数人の足音が店内に踏み入ってくる。
先頭を歩くのは、護衛任務を請け負った協会の高ランク探索者たちだ。
そして、彼らに守られるようにして店の中央に進み出たのは。
「…………」
かつて俺が所属していたギルド、『蒼穹の剣』の元リーダー、黒崎だった。
久しぶりに見る彼の姿に、俺は少しだけ目を細めた。
以前の彼が全身から放っていた、あの周囲を威圧するような傲慢なオーラは、欠片も残っていなかった。
頬は不自然なほど痩せこけ、目の下には消えない隈が張り付いている。
一時期は最高級品を揃えていたはずの装備も、今は手入れが行き届かず、どこかサイズが合わなくなった服のように、彼の身体から力なく浮いていた。
ギルドが解散し、地位も名誉も失った。
そこに立っていたのは、ただひどく疲弊した、一人の中年の男だった。
黒崎は俺の顔を見ると、一瞬だけ足を止め、何かを言いかけるように口を開いた。
だが、すぐに喉まで出かかった言葉を飲み込み、力なく俯いた。
俺は彼に対して、怒りも、軽蔑も見せなかった。
かといって、特別な慈悲をかけるつもりもない。
「いらっしゃい。……空いている席へどうぞ」
ただ淡々と、いつも通りのカフェの店主として接する。
それが、今の俺ができる最大限の「おもてなし」だった。
黒崎は何も言わず、重い足取りでカウンターの端にある丸太の椅子へと向かい、そこに崩れ落ちるように腰を下ろした。
護衛の探索者たちは、邪魔にならないよう店の隅へと控える。
「きゅう……?」
ふいに、足元で丸くなっていたコハクが顔を上げ、トコトコと黒崎の足元へと歩み寄った。
コハクは黒崎のブーツの匂いをすんすんと嗅ぎ、俺の方を一度だけ振り向く。
俺の脳内に、スキル【万獣統括】を通じて、コハクのひどく直感的な感情が流れ込んできた。
──『コハク:てき、いない。……つかれてる』
黒崎がかつて俺をどう扱ったかなど、今のコハクには関係ない。
彼女が読み取ったのは、ただひたすらに重く、逃げ場のない「疲労」の波長だけだった。
「きゅんっ」
コハクはそう判定を下すと、いつも他の客にするのと同じように、黒崎の足元にすりすりと身体を擦り寄せ、そのまま彼のブーツに顎を乗せて丸くなった。
「……っ」
魔獣に攻撃されると思ったのか、ビクッと肩を震わせた黒崎だったが。
足元から伝わってくるコハクの柔らかな冬毛の感触と、命の温もりに気づき、ゆっくりと身体の力を抜いていった。
俺はそれを見届けてから、カウンターの奥のグレイに視線を送った。
グレイもまた、黒崎に対して威嚇も敵意も見せなかった。
ただ黙々と最高精度のミルで豆を挽き、ポッカが沸かした完璧な温度のお湯を、細く、静かに落としていく。
深淵珈琲の芳醇な香りが、静かな店内に広がっていく。
コハクが発する柔らかな体温と、グレイが淹れるコーヒーの香り。
ここは、ただの温かいカフェだ。それ以外の何物でもない。
やがて、グレイから俺の手へと、湯気を立てるマグカップが差し出された。
俺はそれを受け取り、カウンター越しに黒崎の目の前へと差し出す。
「どうぞ」
黒崎は、俺の顔とカップを交互に見つめた後、震える両手でそのマグカップを包み込んだ。
そして、逃げるように口をつけ、一口、ゆっくりと飲んだ。
「…………」
長い、長い沈黙が落ちた。
黒崎は目を閉じ、そのまま動かなくなった。
極上のコーヒーが持つクリアな苦味と、深く透き通るような甘みが、彼の極限まで冷え切っていた神経に染み渡っていくのが、俺にも分かった。
やがて、目を開けた黒崎は。
カップの底をじっと見つめたまま、自分自身に問いかけるように、ぽつりと呟いた。
「……なんで、こんな美味いもん作れる奴を、俺は切ったんだろうな……」
掠れた、後悔の滲む声だった。
俺は、その問いには答えない。
彼が何を思い、何を悔やんでいるのか、知る必要もない。
ただ黙って、彼が空にしたカップに、静かに二杯目のおかわりを注ぐだけだ。
それから一時間ほど、黒崎はただ静かにコーヒーを飲み続けた。
やがて規定の時間が終わり、護衛の探索者が声をかける。
立ち上がった黒崎は、最後まで俺の目を見ることはなかった。
謝罪の言葉も、感謝の言葉もなかった。
ただ、カウンターの前に立ち、俺とグレイに向けて、一度だけ。
深く、深く頭を下げてから、店を去っていった。
静寂が戻った店内で、俺は彼が使っていたマグカップを手に取り、ゆっくりと水洗いを始めた。
胸の奥にあったわだかまりは、もう完全に消えていた。
「……冷めないうちに飲んでくれたなら、それでいい」
水音に紛れるほどの小さな声で呟き、俺は洗い終わったカップを、いつもの棚へと丁寧に戻した。




