第82話 【通知】追放した張本人から、療養枠の申請が届いた
【現在:開業115日目】
本日の営業が終わり、配信用の魔石中継器の電源も落とした、夜の静かな時間。
店内には、少し落ち着いたコーヒーの残香と、石の炉でポッカが微かに爆ぜるパチパチという音だけが響いている。
スミが静かに床を磨き回り、丸太の椅子の上では、遊び疲れたコハクが丸くなってスースーと寝息を立てていた。
俺はカウンターの内側に立ち、洗い終わったカップを布巾で丁寧に拭き上げながら、一日の締め作業をこなしていた。
ふと、エプロンのポケットに入れた端末が、ブルッと短く震えた。
探索者協会から支給されている、業務用の連絡アプリの通知だ。
「倉橋さんからかな……?」
そう思いながら画面を開いた俺は、表示された差出人の名前を見て、布巾を動かす手をピタリと止めた。
画面に映し出されていたのは。
かつて俺が所属していたギルド、『蒼穹の剣』の元リーダー。
俺を「無能」と切り捨てて追放した、あの男の名前だった。
『黒崎』
文字を見た瞬間、俺の胸の奥で、チリッと小さな音が鳴った。
あのパーティーが崩壊したというニュースを端末で見たのは、開業してまだ一ヶ月が経った頃だったか。
俺を追い出した後、彼らは深層での連携ミスから主力メンバーが離脱し、責任の擦り付け合いの末に、事実上の解散に追い込まれた。
かつての栄光は、今やネットの掲示板で嘲笑されるだけの、無惨な過去の遺物だ。
リーダーだった黒崎は、全ての責任を押し付けられる形で業界から干され、多額の賠償金と精神的な疲弊で再起不能になった……そんな噂を、倉橋さんから聞いた記憶がある。
俺にとっては、もう完全に清算したはずの過去だ。
今の俺には、グレイという最高の相棒がいて、コハクがいて、ルウやドルといった深淵の隣人たちがいる。
この最下層に、かけがえのない温かい居場所がある。
もう、あの時の理不尽な怒りに囚われることはない。
だが、あの日、冷たい雨の中で背を向けられた記憶が消え去ったわけではない。「何も感じない」と言えば、それは嘘になる。
俺は小さく息を吐き、静かに画面のメッセージを開いた。
『療養枠を使わせてくれ』
送られてきたのは、その一言だけだった。
謝罪もない。
かつての仲間に、どんな顔をして頼んでいるのかという説明すらない。
だが、その短すぎる言葉の裏に、今の彼が置かれている、出口のない閉塞感が透けて見える気がした。
プライドの塊だったあの男が、地位も、仲間も失い、最後に縋ったのが、自分が捨てた「無能」の店だという事実。
俺は、端末の画面をじっと見つめたまま、数秒間の沈黙に沈んだ。
復讐してやろうとか、追い返してざまあみろと言ってやろうとか、そんな暗い喜びは不思議と湧いてこなかった。
ただ、この店にあの男を迎え入れる覚悟があるかどうかを、自分自身に問うていた。
「……俺は、探索者じゃない」
ぽつりと、誰に言うでもなく呟く。
俺は、この『最下層カフェ』の店主だ。
どんな過去があろうと、どんな人間だろうと、扉を叩いた客を拒む理由は、俺にはない。
俺は端末を操作し、黒崎からのDMを、そのまま特区の管理者である倉橋さんへと転送した。
そして、メッセージを一つだけ添える。
『審査基準を満たしているなら、通してください。俺は、客を選びません』
送信ボタンを押す。
それは、個人的な感情とは完全に切り離された、カフェの店主としての判断だった。
「ふぅ……」
少しだけ重くなった息を吐き出し、端末をエプロンのポケットにしまう。
その時だった。
ふと視線を感じて振り返ると。
カウンターの奥で、明日の準備をしていたはずのグレイが、手を止めてこちらを見つめていた。
静かで、深い黄金の瞳。
おそらくグレイは、俺の表情に浮かんだ微かな変化や、呼吸の揺らぎを、完全に見抜いていたのだろう。
俺が少しだけ無理をして、心を落ち着かせようとしていたことも。
だが、グレイは何も聞かなかった。
俺を問い詰めることも、心配するような字幕を出すこともしない。
彼はただ、ゆっくりと顔を戻し、新しい豆をミルに入れ始めた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
静かな店内に、豆を挽く心地よい重低音が響く。
そして、沸かしたてのお湯を、細く、静かに注いでいく。
俺のための、まかないのコーヒー。
今日のグレイの所作は、いつもよりも、ほんの少しだけ、ゆっくりと丁寧だった。
お湯がコーヒーの粉に触れ、ふわりと膨らむ。
同時に、深淵珈琲特有の、深く甘い香りがカウンターを満たしていった。
スッ、と。
俺の目の前に、湯気を立てるマグカップが差し出される。
「……ありがとう、店長」
俺は両手でカップを包み込み、その温もりを手のひらで感じながら、ゆっくりと一口飲んだ。
「……っ」
極上の、完璧な味だった。
クリアな苦味の奥に、スッと通り抜けるような深い甘み。
それは、冷えかけていた体の隅々にまで染み渡り、こわばっていた神経を優しく解きほぐしていく。
俺は息を長く吐き出し、目を閉じた。
チリッと鳴っていた胸の奥の痛みが、温かいコーヒーと共に、静かに、確実に溶けていくのが分かった。
大丈夫だ。
誰が来ようと、何も変わらない。
俺は明日も、この場所で、ただ極上のコーヒーを淹れるだけだ。




