第81話 【完成】全ての素材が揃い、究極の回復アロマが生まれた
【現在:開業112日目】
チリロ、チリリン。
天井のツタの上から、チルが澄んだ鈴の音を落とす。
スミが床をつるりと滑って磨き上げ、石の炉ではポッカがぱちぱちと心地よい音を立てて火の粉を揺らしている。
俺は魔石中継器のスイッチを入れ、いつものようにカメラに向かって手を挙げた。
──────【LIVE】同接:43,800──────
※探索者協会認定・第五十階層特別安全区(特区)
: うぽつー!
: 今日も癒やされに来たぞ
: ポッカの火、見てるだけであったかい
: お、今日は誰か来るみたいだな
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「いらっしゃい。今日も最下層は平和ですよ」
俺が挨拶を終えたのとほぼ同時だった。
入り口の植物アーチをくぐって、一人の女性がカフェに足を踏み入れた。
「こんにちは、灯さん。グレイ店長も」
協会が定めた療養枠の特別客、楠木さんだ。
初めてこの店に来た時の彼女は、分厚い防毒マスクで顔の半分を覆い、少しの物音にも怯えるように肩をすくませていた。
ダンジョンの過酷な環境で発症した「嗅覚過敏」と重度の精神疲労。
それが、かつての彼女を縛り付けていた呪いだった。
だが、今の彼女は違う。
マスクはどこにもない。
すっぴんだった頬には薄く化粧が施され、その表情は、憑き物が落ちたように明るく、晴れやかだった。
「いらっしゃい、楠木さん。……今日はなんだか、荷物が多いですね」
俺が言うと、彼女は嬉しそうに頷き、抱えていた大きめのトランクをカウンターの上にそっと置いた。
カチャリ、と留め金を外し、中からいくつかの小さなガラス瓶を取り出して並べる。
「今日は、いつもの入浴剤の改良の相談じゃないんです。……ついに、完成したんですよ」
楠木さんは、誇らしげに一つの小瓶を俺の前に押し出した。
中には、透き通るような淡い紫色の液体が入っている。
「それは……新しいアロマですか?」
「はい。この最下層カフェから生まれた素材だけを配合した、『究極の回復アロマ』です」
彼女は、小瓶の隣に、使った素材のサンプルを一つずつ並べていった。
グレイが淹れる深淵珈琲の、香ばしい焙煎粉末。
この五十階層で採取できる、清浄な空気を含んだハーブ。
ルウが壁に生やしてくれた、淡く光る苔から抽出した森のエキス。
ドルが甲殻から精製した、不純物ゼロの紫水鉱の微粉末。
そして、ポッカが温める温泉から採れた、湯の花結晶のミネラル。
「信じられますか? これらすべてが、このお店の周りだけで揃ったんです」
楠木さんは、並べた素材を愛おしそうに見つめた。
「このアロマは、嗅ぐだけで痛んだ神経を優しく鎮静化させて、精神的な疲労を根本から癒やす効果があります。強い刺激で麻痺させるんじゃなくて……冷え切った心を、お湯でゆっくりと解きほぐすような、そんな優しい効き目なんです」
彼女はそこで言葉を区切り、自分の胸にそっと手を当てた。
「最大の実証データは、私自身です。……あの、息をするのすら苦しかった嗅覚過敏が、このアロマのおかげで、今はもう、ほとんど寛解したんですから」
その言葉の重みに、俺は息を呑んだ。
どれほどの苦しみを抱えて、彼女がこの最下層まで通い続けてきたかを知っているからこそ、その「寛解」という言葉が持つ奇跡の大きさが分かった。
「きゅうっ!」
ふいに、俺の足元からコハクが飛び上がり、カウンターの上に前足をかけた。
コハクは楠木さんの差し出した小瓶に鼻先を近づけ、すんすんと匂いを嗅ぐ。
そして、目をキラキラと輝かせて、金色の尻尾をちぎれんばかりに振り始めた。
──『コハク:いいにおい! すごく、いいにおい!』
──『コハク:あかりとおなじ、あったかいにおいがする!』
魔獣の中でも特に匂いに敏感なコハクが、ここまで手放しで喜ぶのは珍しい。
「ははっ、コハクのお墨付きなら間違いないですね。……おめでとうございます、楠木さん。本気で、すごい偉業ですよ」
俺が心から拍手を送ると、楠木さんの目から、ふいにポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「っ……私、このアロマで……同じように見えない傷で苦しんでいる探索者たちを、救えるかもしれないんです」
彼女は両手で顔を覆い、震える声で言葉を紡いだ。
「暗くて、冷たくて、怖いダンジョンの中で……心が折れそうになった時に、この匂いを嗅げば、ここに帰ってきたような安心感をもらえる。……そんなアロマを作れたのは、全部、全部、このお店のおかげなんです……!」
「俺は、何もしてませんよ」
俺は苦笑しながら、ゆっくりと首を振った。
「俺はただ、コーヒーを淹れてただけです。素材を見つけて、何度も失敗して、諦めずにこれを完成させたのは、楠木さん自身の力じゃないですか」
俺がそう言うと、カウンターの奥から、静かにコーヒーカップが滑り出してきた。
グレイが、いつものように完璧な所作で淹れた、楠木さんのための一杯だ。
カップの横には、画面端にぽつんと短い字幕が落ちていた。
──『グレイ:……当然だ』
「ふふっ……あははっ」
その、あまりにも堂々とした自信満々な字幕に、楠木さんは涙を拭いながら吹き出した。
「そうですね。……店長さんの極上のコーヒーがなかったら、始まらなかったんですから」
──────【LIVE】同接:51,200──────
: 楠木さん、本当におめでとう!!
: マスク外して笑ってるの見て、こっちまで泣きそう
: このカフェから生まれた奇跡だな
: 絶対買う。早く商品化してくれ!!
: 店長の『当然だ』がイケメンすぎる
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配信のコメント欄も、楠木さんの偉業を讃える温かい祝福の言葉で埋め尽くされていた。
壁の向こうの暗闇から、こちらに繋がった小さな光。
それが今度は、この店から地上へと持ち帰られ、別の誰かを救う光になろうとしている。
「……本当に、ありがとうございました」
帰り際。
アーチの前に立った楠木さんは、俺とグレイに向かって、深々と、九十度の綺麗なお辞儀をした。
「このお店がなかったら、私はきっとまだ、あの暗い部屋で、マスクの中で泣いていたと思います。……私に、もう一度前を向く力をくれて、ありがとうございました」
顔を上げた彼女の笑顔は、この地下五十階層に咲いたどんな花よりも、眩しく美しかった。
「またいつでも、息抜きに来てください。……店長が、極上のコーヒー淹れて待ってますから」
俺が手を振ると、石の炉のポッカが『またね!』と温かい火の粉を散らして見送った。
アーチをくぐって地上へと帰っていく彼女の背中は、もう少しも震えていなかった。




