第80話 【拡張】格子の向こうの気配が、前より鮮明に読める
【現在:開業108日目】
今日は魔石中継器の電源を入れていない、静かな営業日。
俺はカウンターの内側で、抽出が終わったコーヒーの器具をゆっくりと水洗いしていた。
ふと、顔を上げる。
視線の先にあるのは、温泉エリアの奥に設置された、あの「格子付きの窓」だ。
窓の向こう側は、かつての地下の楽園であり、今は光を失った深淵。
俺たちが設置した湯の花結晶の淡い光と、ポッカのお裾分けの熱だけが、一条の道標のようにその暗闇を照らしている。
あの日、ルウの頭頂部の花に触れ、数千年前の記憶の奔流を垣間見てからというもの。
俺のスキル【万獣統括】は、以前とは比べ物にならないほど、その「感度」を上げていた。
意識して深く潜らなくてもいい。
ただそこに立っているだけで、格子の向こう側に広がる深淵から、微かな生命の反応を拾えるようになっているのだ。
俺は布巾で手を拭き、ゆっくりと格子の前に立った。
軽く目を閉じ、壁の向こう側へとスキルの意識を向ける。
以前なら「暗闇の中に、得体の知れない何かがいるような気がする」といった、漠然とした恐怖や気配を感じるだけだった。
だが、今は違う。
分厚い五十階層の岩盤と、強固な格子越しであっても、その感情の輪郭をはっきりと指先でなぞるように読むことができるのだ。
深淵の遠い、ずっと遠い奥底。
そこで休眠している、名も知らぬ古代種たちの「夢のような感情の断片」が、冷たい風に乗るように微かに漂ってくる。
そこには、絶望も、怒りも、悲しみもなかった。
ただ、とても長い間止まったままの、ひどく静かな「待機」の感覚だけが横たわっている。
いつか来るかもしれない光を、途方もない時間をかけて待ち続けている命の瞬き。
俺は、この感度が上がったスキルの「使い道」を、すでに一つ見つけていた。
ルウやドルが深淵を移動する時、俺が格子越しにスキルを伸ばせば、周囲の安全を遠隔で確認し、彼らを導いてやれるのだ。
実際、つい昨日のことだった。
深淵の奥からカフェに向かっていたルウが、ちょっとした地盤の変化でいつもの道を見失い、迷いかけたことがあった。
格子越しに、彼女の激しい不安を示す『青い波長』を拾った俺は、すぐにスキルを通じて呼びかけた。
言葉ではない。
『こっちだ。温かい光と、コーヒーの匂いがする方へおいで』という、感覚的な方向のナビゲーションだ。
暗闇の中で怯えていたルウは、俺がスキルで繋いだその「見えない糸」を頼りに歩き出し、無事に迷うことなくカフェまで辿り着くことができた。
ルウが格子の小扉をくぐり抜け、頭の花を安心の『オレンジ色』に輝かせて俺の足元に抱きついてきた時、俺は確信した。
俺の存在が、壁を隔てた「二つの領域を繋ぐ翻訳者」として、機能し始めているのだと。
「……俺のスキルは、誰かを倒すための力じゃないんだな」
俺は、格子の向こうの暗闇を見つめながら、静かに呟いた。
「誰かと誰かを繋ぐための、力なんだ」
かつて地上でギルドに所属していた頃。
戦闘の役に立たない、魔獣の感情が分かるだけの俺のスキルは、「無能の証」だと切り捨てられた。
俺自身も、他の探索者たちのように戦えない自分を、どこか卑下していた部分があったと思う。
けれど、今は違う。
この力は、剣や魔法で敵を打ち倒すためのものじゃない。
光を失った世界で迷子になっている命を、温かい場所へと導くための力。
言葉の通じない相手と、一杯のコーヒーを挟んで心を通わせるための力なのだ。
「きゅうっ!」
不意に、足元から元気な鳴き声が弾けた。
見下ろすと、コハクが「わたしもよんでる! きこえる?」と言わんばかりに、ピョンと俺の膝の上に飛び乗ってきた。
そのまま、立ち上がった前足で俺の胸元をトントンと叩き、顔をぐりぐりと押し付けてくる。
「おわっ、と。なんだコハク、急に」
俺が苦笑しながら、テストも兼ねてコハクにスキルを向けてみると。
そこにあったのは、深淵の静寂とは真逆の、ひどく直球で騒がしい感情だった。
──『コハク:あかり、こっちみて!』
──『コハク:とおく、みないで。わたし、ここにいる。なでて!』
「ははっ……ごめんごめん。ちゃんと見てるよ、お前のことも」
俺はしゃがみこみ、コハクの背中を両手で優しく包み込むように撫でた。
指先が、柔らかな金色の冬毛の奥へとふわりと沈み込む。
手のひらを通してじんわりと伝わってくる、小さな太陽のような確かな体温。
俺が撫でるたびに、コハクは満足そうに目を細め、喉の奥からゴロゴロという深い振動音を鳴らし始めた。
さらさらと毛が擦れる音が、店内の静かな空気に溶けていく。
振り返ると、カウンターの奥ではグレイが黙々と、明日のためのコーヒー豆の選別を行っていた。
字幕は出ないが、その黄金の瞳は「早く仕事に戻れ」とでも言いたげに、こちらをちらりと見つめている。
石の炉ではポッカが心地よい熱を発し、スミがつるんと床を滑り、チルが短くさえずった。
俺のスキルの感度がどれだけ上がろうと。
壁の向こうの暗闇に、新しい繋がりができようと。
最下層カフェの、この平和で温かい日常の風景は、今日も何も変わらない。




