第87話 【道具】あの狼用じゃないからな
【現在:開業128日目】
見習いバリスタのルウが、厳しい師匠であるグレイから、ついに『まあいい』という合格点をもぎ取った翌日のこと。
今日は配信の予定がない、ひどく静かな営業日だった。
カフェの中には、昨日のお祭り騒ぎのような祝福の余韻が、ほんのりと空気の中に溶け残っているような気がした。
石の炉ではポッカがご機嫌な様子でパチパチと火の粉を散らし、スミは昨日コハクが飛び跳ねて汚した床を、念入りにつるんと磨き上げている。
カシャッ……カシャ、カシャリ……。
そんな穏やかな店内の一角で、朝からずっと、硬質でリズミカルな音が響き続けていた。
店の隅の定位置に陣取った岩殻型古代種のドルが、黙々と何かを精製している音だ。
普段の彼なら、カフェで使うための新しいコーヒーカップや、お茶請けを乗せるためのお皿を削り出していることが多い。
だが、今日のドルの動きは、いつもとは明らかに違っていた。
削り出しているパーツが、いつもよりもずっと小さい。
そして、単なる器ではなく、複数の部品を精巧に噛み合わせるような、ひどく精密で複雑な作業をしているように見えた。
「ドル、今日は何を……」
俺がカウンターを出て、ドルの手元を横からそっと覗き込んだ時。
ちょうど、彼が最後の研磨を終え、その『作品』を完成させたところだった。
ドルの目の前に置かれていたのは、彼の背中の甲殻から精製された、鈍い銀色の光沢を放つ二つの道具。
一つは、小型のコーヒーミル。
もう一つは、小ぶりなドリップケトルだった。
どちらも、純度の高い紫水鉱で作られており、実用性と芸術性を兼ね備えたような美しい結晶模様が表面に浮かび上がっている。
「これ、コーヒーの道具……だよな? でも、ずいぶん小さい」
俺が不思議に思ってミルを手に取ろうとすると。
その道具に施された、異様なまでの「工夫」に気がついた。
ミルのハンドル部分が、人間の指で掴むためではなく、ルウの『三本指』でしっかりと握り込めるような、独特の太さと窪みを持った形状になっていたのだ。
さらに、ケトルの取っ手。
熱を通さない工夫がされているのはもちろんのこと、持ち手の表面に波打つような微細な溝がいくつも刻まれている。
それは間違いなく、ルウが魔法で伸ばす『ツタ』が、滑らずにしっかりと絡みついて固定できるように計算し尽くされたデザインだった。
昨日、ルウが人間用の道具を扱うのに悪戦苦闘し、焦って涙目になっていたのを。
ドルは店の隅から、ずっと静かに見ていたのだ。
「ドル。お前……これ、もしかしてルウのために作ったのか?」
俺が目を丸くして尋ねると。
ドルはピクリと岩の肩を揺らし、フイッとあからさまにそっぽを向いた。
そして、俺の脳内に、ひどくぶっきらぼうな字幕が落ちてくる。
──『ドル:……あの狼用じゃないからな。小さく作っただけだ』
「ははっ……!」
俺はたまらず、声を上げて笑ってしまった。
あのSSランクの巨大な銀狼が、こんな手のひらサイズのケトルを持てるわけがない。
どう考えても、ルウが深淵でカフェを開くための「専用の道具一式」だ。
こんなにも精密で、使う相手の身体的特徴を考え抜いた優しい道具を作っておきながら。
この岩殻型の職人は、恐ろしいほどの照れ隠しの塊だった。
「フン」
ふいに、カウンターの奥から、短い鼻息が聞こえた。
振り返ると、グレイが黄金の瞳を細め、どこか呆れたような、それでいて面白がるような顔でこちらを見ていた。
「お互い、素直じゃないよな」
俺がグレイに向かって小さく肩をすくめると、グレイはそれ以上何も言わず、また自分の仕事へと戻っていった。
◇
その日の午後。
壁の小扉をくぐって、ルウが今日も元気よくカフェにやってきた。
後ろには、すでに彼女の相棒と化しているコハクが、尻尾を振りながらぴたりとくっついている。
「きゅう!」
挨拶をしようと花をオレンジ色に輝かせたルウの前に。
ズザザッ。
ドルが、自分の巨体を滑らせて進み出た。
そして、無言のまま、先ほど完成させたばかりの銀色のミルとケトルを、ルウの足元へと押し出した。
「きゅ……?」
ルウは不思議そうに首を傾げ、その小さな道具にそっと触れた。
三本指が、ミルの窪みに吸い付くようにフィットする。
伸ばしたツタが、ケトルの溝にガッチリと絡みつき、驚くほど軽く持ち上がる。
それが「自分のためだけに作られたもの」だと、ルウが直感的に理解した瞬間だった。
ぽわぁぁぁぁ……っ!
ルウの頭頂部の花が、驚きから、喜び、そして深い感動へと、美しい『虹色のグラデーション』を描いて一斉に輝き出した。
――うれしい。
――ありがとう。ありがとう!
ルウは道具を抱きしめたまま、ドルのゴツゴツとした岩の顔に、自分の小さな頬をすりすりと力いっぱいに擦り付けた。
「きゅんっ! きゅんっ!」
コハクも嬉しそうにドルの周りをぴょんぴょんと跳ね回り、彼の甲殻に頭をぐりぐりと押し付けている。
──『ドル:……おい。やめろ、研磨が狂う』
字幕では文句を言いながらも、ドルはされるがままに、二匹の愛情表現を受け止めていた。
種族も、生態も全く違う古代種たち。
数千年の孤独を生き抜いた彼らが、この最下層カフェで出会い、結んだ不器用な友情の結晶。
深淵の暗闇に、もう一つの温かい場所を作るための準備が。
俺たちの手から離れたところで、また一つ、確かに整ったのだった。




