第76話 【覚醒】万獣統括が、感情の奥にある記憶を拾った
【現在:開業100日目】
今日は週に一度の定休日。
入り口のアーチには「準備中」の札を掲げ、配信用のカメラも電源を落としてある。
地下五十階層の静かな朝。
天井の発光結晶が放つ柔らかな青白い光だけが、穏やかに店内を照らしていた。
「きゅう……っ」
足元で、コハクが満足そうに喉を鳴らす。
丸太の椅子にはルウがちょこんと座り、両手で大事そうにはちみつラテのカップを抱えていた。
出会ったばかりの頃の、あの張り詰めたような緊張感はもうない。
ルウの頭頂部に咲いた花は、安心を告げる柔らかなオレンジ色に染まっている。
彼女の隣には当然のようにコハクが陣取り、二匹で並んで座るのがここ最近の日課になっていた。
俺はカウンター越しに、そんな二匹の様子を眺めながら、ふと思いついた。
「ルウ。その花、少し触ってもいいか?」
ルウは不思議そうに首を傾げたが、拒む様子は見せない。
俺はカウンターから身を乗り出し、彼女の頭の上に咲いた一輪の花に、何気なく、そっと指を触れた。
その、瞬間だった。
――ドクン。
心臓が大きく跳ねる。
スキル【万獣統括】が、俺の意図を遥かに超えた深度で、勝手に発動した。
「っ……あ……!?」
視界が、真っ白に弾ける。
いつもの短い字幕ではない。
圧倒的な情報量を持った、鮮明な「映像」が、津波のように脳内へ流れ込んできたのだ。
見えたのは、数千年前の、このダンジョンの姿だった。
かつての五十階層は、今とは比較にならないほど明るかった。
天井を埋め尽くす発光結晶の数は桁違いに多く、その光は眩しいほどに白い。
さらには岩盤の隙間から、地上からの本物の光が、幾筋もの梯子のように微かに届いていた。
そこには、一つの「世界」があった。
ルウと同じ樹精型の古代種たちが、豊かな緑を育んでいる。
ドルのような岩殻型の古代種たちが、黙々と岩を削り、道具を作っている。
他にも見たこともない知的な魔獣たちが、互いに言葉ではない何かで通じ合い、小さなコミュニティを作って暮らしていた。
ここは捨てられた最下層などではなかった。
誇り高き命たちが集う、地下の楽園だったのだ。
だが。
映像は、唐突に暗転する。
激しい地響き。
ダンジョンの構造そのものが激変し、地上へと繋がっていた光の通り道が、無情にも塞がれていく。
天井の発光結晶が次々と砕け落ち、世界は急速にその輝きを失っていった。
楽園だった場所は、一瞬にして完全な暗闘に沈んだ。
コミュニティは崩壊し、古代種たちは散り散りになる。
互いの姿も見えない、絶望的な孤独。
そこから、長い、長い、数千年にも及ぶ孤立の時代が始まったのだ。
「……は、ぁ……っ!!」
意識が、強引に現実へと引き戻された。
「はぁ……はぁ、はぁ……っ……」
膝をつき、カウンターに縋り付く。
頭が割れるようにズキズキと痛む。
これまでのスキルの使用とは、次元が違う負荷だ。
「今の、は……」
荒い呼吸を整えながら、俺は冷静に整理しようと試みた。
俺のスキルが「進化」したわけじゃない。
おそらく、ルウが特別なんだ。
樹精型古代種であるルウの体は、植物そのものだ。
樹木が年輪に環境情報を刻むように、彼女の細胞一つ一つにも、数千年分の環境データが蓄積されている。
彼女たちにとって「記憶」とは脳の機能ではなく、体全体に染み込んだ「感覚の堆積」なのだ。
俺のスキルは、感情を読む力。
だが、ルウの場合は感情と記憶が不可分に一体化している。
だから、感情の奥底に深く触れた瞬間、記憶の映像までが引きずり出されてしまったのだ。
「俺のスキルが変わったんじゃない。……ルウの『体』が、特別だったんだな」
不意に、視界の端で何かが揺れた。
ルウが心配そうに俺の顔を覗き込み、頭の花は不安に震える藍色に染まっていた。
「大丈夫だ、ルウ。……ちょっと、お前の昔のことが見えただけだよ」
俺は震える手で、もう一度ルウの頭を撫でた。
今度は深く潜らないように、意識を優しく表面に留める。
花の色が、ゆっくりとオレンジ色に戻っていく。
流れ込んでくる感情の波長も、穏やかな安心へと溶けていった。
ふと、背中に温かいものが触れた。
振り返ると、カウンターの奥から動かずにいたグレイが、俺のすぐ後ろに立っていた。
彼の巨大な尻尾が、俺の背中にそっと、支えるように触れている。
──『グレイ:……冷めるぞ』
画面端に落ちた、短い字幕。
それが、不器用な彼なりの「大丈夫か」という気遣いであることを、俺は知っていた。
「ああ。淹れたてのコーヒー、無駄にはしたくないしな」
俺がグレイの毛並みに手を沈めて礼を言うと、グレイは何も言わずに目を閉じる。
記憶の中にあった、あの輝かしいコミュニティ。
それが今、どうなっているのか。
俺はルウを撫でながら、静かに考えを巡らせ始めた。




