第73話 【告白】彼女が何度も通ってくる本当の理由
ルウが、壁の穴を通って定期的にカフェを訪れるようになってから、およそ二週間が経っていた。
彼女は毎日のように、トコトコと穴から出てきては、定位置の丸太椅子にちょこんと座る。
大好物の甘実のはちみつラテを両手で大事そうに抱え込んで飲み、時々お礼のつもりなのか、壁の隅に淡く光る不思議な苔を生やしていく。
そのあとは、コハクと一緒に床を転げ回って遊んだり、スミの掃除を不思議そうに眺めたり。
最初の頃に比べて、彼女の頭頂部の花が緊張の『青色』に染まることはすっかりなくなり、いつも安心しきった『オレンジ色』か、嬉しい『ピンク色』に輝いていた。
今日は配信をオフにした、のんびりとした午後。
ルウはカップを空にすると、いつものように三本指の小さな手でテーブルをトントンと叩き、ごちそうさまの合図をした。
そして、自分の帰る場所――壁の穴へと向かって、短い足で歩き出す。
「きゅうっ」
コハクが尻尾を振りながら、お見送りのためにその後ろをついていく。
いつも通りの、平和な帰り際。
……のはずだったが。
「…………」
ルウは、壁の穴の前に立つと、ぴたりと足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返り、カフェの店内を見つめる。
石の炉でパチパチと燃えるポッカの炎。
天井を照らす、湯の花の淡い結晶の光。
漂うコーヒーの香ばしい匂いと、コハクの温かい気配。
それらを一つ一つ、目に焼き付けるように見回してから、ルウは穴に向き直る。
だが、中に入ろうとして――また、振り返る。
ここ数日、彼女は帰る時にいつもこうだった。
まるで、穴の向こう側へ行くことを、ひどく恐れているかのように。
「……ルウ。いつも名残惜しそうだな」
俺はカウンターを拭く手を止め、優しく声をかけた。
ビクッ。
その瞬間。
ルウの頭頂部の花が、安心のオレンジ色から、急速に色を変えた。
困惑の紫を通り越し、一瞬で染まり上がったのは、深く、暗い『藍色』。
それは、彼女に出会ってから一度も見たことのない、深い『悲しみ』と『絶望』を示す色だった。
「ルウ……?」
俺は眉をひそめ、無意識のうちにスキル『万獣統括』のチャンネルを、彼女へと深く合わせた。
いつもの、短い字幕(BeastCaption)が落ちてくるのを待つ。
だが。
俺の脳内に流れ込んできたのは、言葉ではなかった。
「っ……!?」
それは、鮮明な『映像』だった。
文字通り、ルウの持っている「記憶」そのものが、俺の視界を強制的に上書きするように流れ込んできたのだ。
――暗闇。
完全な、漆黒。
天井の発光結晶すら存在しない。
光の概念が死に絶えた、五十階層のさらに奥深く、深淵の底。
そこにあるのは、永遠に続く冷たい岩肌と、ひっそりと息を潜めるように生える植物たちだけ。
ルウは、その完全な暗闇の中で生まれ、育った。
光を知らない。温かさを知らない。自分以外の、動く誰かの体温を知らない。
果てしない孤独。
音のない世界。
ただ、冷たい岩の感触だけが、彼女のセカイの全てだった。
――そこへ、ある日。
岩盤の向こうから、微かな「音」と「匂い」が漏れてきた。
彼女は必死で岩を削った。来る日も来る日も、小さな三本指の手から樹液の血を流しながら。
そして開いた小さな穴から、彼女は『それ』を見た。
生まれて初めて見る、温かいオレンジ色の光。
鼻腔をくすぐる、信じられないほど甘くて芳醇な匂い。
そして、自分に向かって微笑みかけてくれる、別の生き物の姿。
俺のカフェは、彼女にとって「生まれて初めて見た光」であり、「初めて温かいものを飲んだ場所」であり、「初めて自分以外の存在に触れた場所」だったのだ。
映像が途切れ、俺はハッと息を吹き返した。
視界が元に戻る。
目の前には、藍色の花を咲かせ、小さな体をガタガタと震わせているルウの姿があった。
「……そうか」
俺は、小さく呟いた。
彼女が毎日、危険を冒してまで壁の穴を通って通ってくるのは、単にラテが美味しいからじゃない。
帰る時に何度も振り返るのは、遊び足りないからじゃない。
あの、何もない完全な暗闇に、たった一人で戻るのが――たまらなく、怖いのだ。
「きゅうぅ……」
俺の足元から、コハクが悲しそうな声を上げて歩み出た。
俺のスキルを通じて、コハクもルウの感情を察取ったのだろう。
コハクはルウの隣に並ぶと、自分の体を彼女の小さな体に、ぴたりと押し付けた。
ルウがビクッと震えるが、コハクは離れない。
──『コハク:こわくない』
──『コハク:わたし、いる』
俺はゆっくりとしゃがみこみ、コハクの背中と、ルウの苔むした小さな肩を、同時にそっと撫でた。
指先が、コハクの柔らかな冬毛の奥へと沈み込む。
そして、手のひらを通して、ルウの冷え切った体へと、俺とコハクの体温をじんわりと分け与えていく。
撫でるたびに、コハクの喉の奥からゴロゴロという深い振動音が鳴り、さらさらと毛が擦れる音が響く。
その温かい命の鼓動が、ルウの震えを少しずつ、確かに鎮めていった。
「ルウ。お前を、俺たちの店にずっと置いてやることはできない」
俺は、優しく、けれどはっきりと告げた。
「お前にはお前の、深淵の世界がある。俺たちが過剰に手を出すのは、お前の生き方を奪うことになっちまうからな」
藍色だった花が、少しだけ紫に揺れる。
突き放されたと思ったのかもしれない。
だが、俺はそのまま振り返り、石の炉で揺れる火の精霊に声をかけた。
「でも……少しだけなら、お前の世界に持っていけるぞ。……ポッカ」
──『ポッカ:よんだ?』
「ああ。ポッカ、少しだけ光の量を上げて、あの壁の穴のすぐそばまで行ってくれないか」
俺の意図を察したのか、ポッカは『まかせて!』と嬉しそうに炎を揺らし、石の炉からふわりと飛び出した。
そして、ルウが帰るための壁の穴のすぐ脇の岩棚に、ちょこんと陣取った。
ぽわんっ、と。
ポッカが、いつもの保温モードよりも少しだけ明るく、周囲を照らすように光を放つ。
すると。
壁の穴を通じて、ポッカの温かいオレンジ色の光が、深淵側の暗闇の通路へと、ほんの少しだけ真っ直ぐに漏れ出したのだ。
「光のお裾分けだ」
俺は、ルウに向かって笑いかけた。
「うちの店が開いている間は、ずっとポッカにそこを照らしてもらう。……これなら、向こうに帰っても、真っ暗じゃないだろ?」
ポッカの光は、深淵の完全な暗闇を昼間のように照らせるわけじゃない。
でも、足元の岩肌を淡くオレンジ色に染め、振り返ればいつでも「あそこに温かい場所がある」と分かるだけの、確かな道標にはなる。
「…………」
ルウは、壁の穴から向こう側の世界に漏れ出している、その一条の光をじっと見つめた。
冷たくて恐ろしかった彼女の暗闇に、小さな、けれど絶対に消えない温もりが差し込んでいる。
やがて。
ルウの頭頂部の花が、深い藍色から、ゆっくりと、鮮やかな『ピンク色』へと変わっていった。
彼女は俺とコハクに向かって、深く、深くお辞儀をした。
そして、光の差し込む穴の中へと、迷うことなく足を踏み入れた。
「きゅんっ!」
コハクが、穴の前に立って尻尾を大きく振った。
──『コハク:またね!』
穴の向こう側。
オレンジ色の光に照らされた通路で、ルウが一度だけ振り返り、ピンク色の花を嬉しそうに揺らしたのが見えた。
「ああ、また明日な」
俺は小さく手を振り返す。
カウンターの奥では、グレイが静かにコーヒーカップを拭きながら、俺たちのやり取りを見守っていた。
字幕は出ない。だが、その黄金の瞳は、どこまでも穏やかだった。
深淵の暗闇に、ほんの少しだけ届いた俺たちのカフェの光。
それは、分厚い壁を越えて、二つの世界が確かに繋がった証だった。




