第69話 【初めての一杯】古代種が甘いラテで花を咲かせた
【現在:開業84日目】
壁の穴から現れた小さな樹精型古代種のルウは、恐る恐る、俺たちのカフェの中へと足を踏み入れた。
配信用のカメラはオフにしてある。今は、この初めての来客を、店全体で静かに迎え入れる時間だった。
ルウにとって、この空間にある全てが初めて見るものばかりのようだ。
石の炉の中でパチッ、とポッカの炎が爆ぜると、ビクッと肩を揺らして飛び退く。
床をスミが「つるんっ」と滑っていくのを見て、まん丸の目をさらに丸くする。
天井のツタの上からチルが「チリリン」と歓迎のさえずりを落とすと、頭の葉っぱをウサギの耳のようにピンと立ててそちらを見上げた。
「きゅんっ」
そんなルウの足元に、コハクがトコトコと歩み寄った。
ルウはビクッと身を強張らせたが、コハクはルウの周りをぐるりと回りながら、フンフンとその匂いを嗅ぎ始めた。
俺の鼻にも、ルウの体から漂ってくる匂いが届く。
それは、獣の匂いではない。雨上がりの深い森の土と、ひんやりとした清浄な苔の、どこか落ち着く匂いだった。
──『コハク:あんしん。てき、いない』
琥珀キツネ特有の安全判定を終えたらしい。
コハクはパタパタと尻尾を振ると、ルウのすぐ横にちょこんと座り込み、その足元に体を擦り寄せた。
コハクの柔らかな温もりに触れ、ルウの小刻みな震えが、ふっと収まっていくのが分かった。
「偉いぞ、コハク」
俺はしゃがみこみ、コハクの背中を優しく撫でた。
指先が、柔らかな冬毛の奥へとふわりと沈み込む。手のひらを通じて、じんわりとした小さな命の確かな体温が伝わってくる。
コハクは目を細め、ゴロゴロと深い喉鳴らしの音を立てながら、さらさらと毛が擦れる音を店内に響かせた。
その穏やかな音と空気に、ルウの頭頂部の花も、少しずつ緊張を解くように色を和らげていく。
「さて。まずは座ってもらわないとな」
俺が声をかけると、ルウはグレイが先ほど『座れ』と視線で指示した、魔獣用の低い丸太の客席へと、ちょこんと腰を下ろした。
俺はカウンターに戻り、彼女のための飲み物の準備を始めた。
さすがに、深淵珈琲のブラックは、森の奥で静かに生きてきた彼女には刺激が強すぎるだろう。
ポッカの絶妙な火加減で温められたミルクに、角鹿たちが森から運んでくれた特製の甘実シロップをたっぷりと溶かし込む。
最後にふわふわのフォームミルクを乗せれば、甘く優しい香りが湯気とともにふわりと立ち上った。
「お待たせ。うちの特製、はちみつラテだ」
俺がカップをルウの前に置くと、彼女は三本指の小さな手で、マグカップを両手で包み込むように持った。
そして、顔を近づけ、くんくんとその匂いを嗅ぐ。
その瞬間、ルウの頭頂部の花の色が、パッと明るい『オレンジ色』に変わった。
俺のスキルが拾う波長も、強い興味と、甘い香りに対する期待で大きく揺れている。
ルウは、恐る恐る、カップの縁に口をつけた。
こくり。
一口、喉を鳴らして飲み込む。
「…………!」
次の瞬間だった。
ルウの全身を覆っていた苔が、ぶわっ! と静電気を帯びたように逆立った。
さらに、頭頂部に咲いていた花が、信じられないほど鮮やかな『虹色』に輝き始めたのだ。七色の光が、薄暗い足元を万華鏡のように照らし出す。
俺のスキル『万獣統括』に、ルウの感情が爆発的な勢いで流れ込んでくる。
言葉にするなら、こうだ。
――あまい。あったかい。
――こんなの、わたしの世界にはない。
――もっと。もっと飲みたい。
──『ルウ:あまい。あったかい。もっと』
脳内リンクに落ちてきた、ひらがなだけの詩的な字幕。
ルウは夢中になってラテを飲み進め、あっという間にカップを空にしてしまった。
そして、空っぽになったカップを両手で大事そうに抱えながら、キラキラと輝く虹色の花を揺らして、俺を見上げてきた。
「ははっ、そんなに気に入ってくれたなら嬉しいよ。またいつでも淹れてやるからな」
俺が笑いかけると、ルウはコクコクと何度も頷いた。
◇
しばらくコハクと遊んだ後、ルウは帰るために壁の穴へと向かった。
だが、穴に入る直前、彼女は振り返り、カフェの壁際――ゴツゴツとした岩肌に、三本指の手をそっと触れた。
すると。
彼女の手が触れた場所から、淡く発光する不思議な『銀色の苔』が、まるで霜が降りるような速度で急速に生え広がり、壁面を薄く美しく覆っていったのだ。
「これは……」
言葉を持たず、お金という概念も知らない彼女なりの、精一杯の「お礼」なのだろう。
自分にできること。植物を育て、この空間を少しでも美しくすること。
(※後日、この銀色の苔が、楠木さんの研究に途方もない価値をもたらすことになるのだが、それはまた別の話だ)。
ルウは壁の穴をくぐり、自分の世界である深淵へと戻っていく。
だが、暗闇の中に消えるまでに、彼女は何度も何度も振り返り、カフェの温かい明かりを名残惜しそうに見つめていた。
「また来いよ」
俺が手を振ると、暗闇の奥で、花の色が嬉しい感情を示す『ピンク色』に染まるのが見えた。
壁の向こうの気配が遠ざかった後、俺はふと、カウンターの奥へと視線を向けた。
グレイは、いつもと変わらぬ様子で、黙々と巨大なコーヒーミルの手入れをしている。
──『グレイ:……別に』
俺が何も言っていないのに、画面端にそんな字幕が落ちてきた。
照れ隠しだ。
なぜなら俺は、見てしまったからだ。
グレイが、先ほどまでルウが座っていた丸太の椅子を、長い鼻先で「スッ」と数センチだけ動かしたのを。
次に彼女が来た時、もっと座りやすく、もっとカウンターから飲み物を受け取りやすい、絶妙な位置へと。
「……優しいな、店長は」
俺の呟きは、ポッカの薪が爆ぜる音に紛れて、静かに溶けていった。




