第68話 【邂逅】苔と蔦に覆われた、花の咲く小さな魔獣
【現在:開業84日目】
壁の小さな穴越しのやり取りは、あれから数日間にわたって続いていた。
俺が夜の間に、甘実のシロップを垂らした小さな木の器を穴の前に置いておくと、翌朝には決まって空になっている。
そして器の代わりのように、見たこともない銀色の苔や、淡く光る不思議な種子が、ちょこんと置かれているのだ。
療養枠で来店した楠木さんにその苔のサンプルを見せると、「地上では見たことのない成分です!」と目を輝かせて持ち帰っていった。
そして、今日。
俺が定休日の朝に温泉エリアのメンテナンスへ行くと、壁の穴は、俺が顔を覗き込めるほどの大きさにまで広がっていた。
向こう側にいる存在が、少しずつ、少しずつ岩を削り続けて、ついに俺たち側の世界へと繋がる「通り道」を完成させたのだ。
俺はそっと岩盤に手をつき、広がった穴の奥の暗闇を覗き込んだ。
「…………」
暗闇の中に、二つの小さな光点があった。
瞳だ。
その瞳が、怯えるように、けれど吸い寄せられるように、じっとこちらを見つめている。
俺はスキル『万獣統括』のチャンネルを、その小さな瞳へと合わせた。
障害物がなくなったことで、感情の解像度が一気に跳ね上がる。
――怖い。でも、見たい。
――光。温かい。いい匂い。
――もっと、近くに行きたい。
俺の心に流れ込んでくるのは、そんな切実な波長だった。
コーヒーの香りと、ポッカが温めたお湯の熱気が、彼らの孤独な暗闇をどれほど癒やしていたのかが痛いほど伝わってくる。
「大丈夫だよ。……出ておいで」
俺が極力刺激しないよう、穏やかな声で呼びかけると。
カサ、カサリと、乾いた葉が擦れるような音を立てて、暗闇の中から『それ』がゆっくりと姿を現した。
それは、俺の膝丈ほどの小さな、人型の魔獣だった。
二足歩行で、全身が深緑色の苔と蔦に覆われている。
そして、頭頂部には一輪の小さな花が咲いていた。
俺が最初に気がついたのは、その花の色だった。穴から出てきた時点では、まるで深海の底のような『暗い青色』をしていた。
同時にスキルが拾う感情の波長も、氷のように硬く尖った、強い恐怖の形をとっている。
俺はしゃがみ込み、ゆっくりと、敵意がないことを示すように両手を差し出した。
「怖くないよ。ここは温かい場所だ」
その言葉と俺の手のぬくもりが伝わったのか。
頭頂部の花の色が、暗い青から、ゆっくりと『明るい黄色』へと変化していくのが見えた。
同時に、スキルを通じて流れ込んでくる波長も、硬い恐怖から、くすぐったいような柔らかな好奇心の波長へとシフトしていく。
どうやら、声を持たないこの魔獣は、体の植物……特にあの花の色を変化させることで、自身の感情を表現しているらしい。
俺の脳内に、スキルを通じて一つの名前が浮かび上がった。
『ルウ』。
ダンジョンの最深部で、植物と共に生まれた「樹精型古代種」。
人間の言語を介さず、俺の『万獣統括』でしか意思疎通ができない、はるか昔からこの深淵を生きてきた存在。
ルウは、明るい黄色の花を揺らしながら俺を見上げると、背中の蔦から小さな光る花を一つもぎ取り、おずおずと差し出してきた。
今までの贈り物と同じ仕草だ。
――入れて。ここに入れて。
言葉の代わりに、そんな懇願の波長が伝わってくる。
だが、その時だった。
カウンターの奥で休んでいたグレイが、ゆっくりと立ち上がった。
ズシン、と。
SSランクの巨大な銀狼が足を踏み出すだけで、店内の空気が一瞬で張り詰める。
グレイはゆっくりと温泉エリアに近づき、黄金の瞳で、足元の小さなルウを見下ろした。
「っ……」
ルウの頭頂部の花が、一瞬にして元の『暗い青色』に戻った。
俺のスキルが拾う感情は、圧倒的な恐怖と絶望で完全に塗り潰されている。
小さな体がガタガタと震え、今にも後ろの穴に逃げ戻ってしまいそうだ。
古代種とはいえ、その戦闘力は皆無に等しい。SSランクの頂点に立つグレイの威圧感は、ルウにとって死の宣告に等しかったはずだ。
だが。
グレイは牙を剥くことも、威嚇の唸り声を上げることもなく。
短く、一言だけ字幕を落とした。
──『グレイ:……座れ』
それは、いつもの、どんな客に対しても提示する絶対的なルール。
グレイはルウを「侵入者」でも「敵」でもなく、このカフェの「客」として認識したのだ。
その字幕の意味は分からなくても、グレイから敵意が消え去ったことはルウにも伝わったらしい。
ルウの頭頂部の花が、恐怖の青から、困惑を示す『紫色』を経て、やがて安堵を表す柔らかな『薄い緑色』へと変わっていった。
ガタガタと鳴っていた震えが、ゆっくりと収まっていく。
俺は、ホッと息を吐き出し、改めてルウに手を差し出した。
「いらっしゃい、ルウ。……うちのカフェへ」
ルウは、差し出した俺の指先に、苔に覆われた三本指の小さな手を、そっと重ねた。
指先から伝わってくるのは、森の土の匂いと、ひんやりとした、けれど確かな命の温度だった。




