第67話 【贈り物】壁の穴から伸びてきた、苔に覆われた指先
【現在:開業80日目】
昨夜の、あの控えめで規則的なノックの音が、まだ耳の奥に残っているような気がした。
朝、俺はいつものように温泉エリアのメンテナンスへと足を運んだ。
配信用カメラのスイッチはまだ入れていない。今日は開店前に、スミと一緒に水路の状態を確認しておく必要があったからだ。
立ち上る真っ白な湯気が、天井の発光結晶の光を浴びて、淡い虹色の靄となって店内に満ちている。
俺は、昨夜ノックの音が聞こえてきた例の岩盤の前に立ち、思わず息を呑んだ。
「……穴、か?」
そこには、昨夜までは確実になかった小さな変化が起きていた。
ゴツゴツとした岩肌の表面に、指先が入るか入らないかという程度の、小さな穴がポッカリと開いていたのだ。
岩が崩れたわけじゃない。
穴の周りには細かな岩の粉が落ちており、内側から慎重に、けれど必死に掘り進めてきたような生々しい痕跡があった。
「スミ、ちょっと待っててくれ」
俺は、掃除を始めようとしていたスミを制し、膝をついてその小さな穴を覗き込んだ。
すると、その瞬間。
穴の向こう側の闇が、不意に動いた。
「っ……」
俺が身構えるよりも早く、その穴から『何か』がにゅっ、と突き出された。
それは、人間の子供の手よりもさらに一回り以上小さい、三本指の「手」だった。
全体がしっとりとした深緑色の苔に覆われており、指先は細く、頼りない。
俺は反射的にスキル『万獣統括』の感覚をその小さな手に集中させた。
流れ込んできたのは、震えるような葛藤の波長だった。
「…………」
――怖い。恐ろしい。
でも、ここから流れてくる匂いの場所に行きたい。
どうしたらいいか分からない。でも、どうしても。
そんな、切実なまでの想いが俺の胸に直接響いてくる。
その小さな手は、ガタガタと目に見えて震えながら、何かを俺の前に差し出そうとしていた。
その指先に挟まれていたのは、一輪の花だった。
花びらは透明に近い白で、深淵の暗闇の中で自ら淡い光を放っている。五十階層の奥深く、光の届かない場所でひっそりと咲く、名もなき深淵の花。
それを、俺の目の前の岩の上にそっと置くと。
小さな手は、まるで弾かれたように穴の奥へと引っ込んでしまった。
「…………」
贈り物をしたら、中に入れてもらえるかもしれない。
あるいは、どうか自分たちに危害を加えないでほしい。
そんな、小さな存在なりの精一杯の、命がけの「交渉」だった。
俺は岩の上に残された、冷たくて美しい花をそっと拾い上げた。
指先から伝わってくるのは、ひんやりとした深淵の温度。けれど、そこに込められた意志は、今の俺たちと同じように温かかった。
「ありがとう。……綺麗な花だ」
俺は穴に向かって、届くように優しく声をかけた。
返事はない。けれど、穴の向こう側で、いくつもの小さな気配が息を潜めて、こちらの出方を伺っているのが分かる。
「お返しに、これをどうぞ。……美味しいですよ」
俺はカウンターから小さな木の器を持ってくると、そこに甘実のシロップを少しだけ垂らした。
そして、その器を穴のすぐ目の前に、そっと置いた。
俺がそこから少し離れて、様子を伺っていると。
数分後。
再び穴から、苔に覆われた指先がおずおずと伸びてきた。
それはシロップの入った器に触れると、驚くほど慎重な動作で、そのまま穴の向こう側へと引き込んでいった。
ズリ、ズリ……という、器が岩を擦る小さな音。
やがて向こう側で、くちゅくちゅ、という小さな咀嚼音と、驚いたような、嬉しそうな、鳥のさえずりに似た微かな声が響いた。
「きゅうっ?」
いつの間にか起きてきたコハクが、俺の足元で首を傾げている。
コハクは、昨夜のノックの時とは違い、今は警戒を解いているようだった。
それどころか、穴の前にトコトコと歩み寄り、鼻先を突っ込もうとしている。
「こら、コハク。穴が小さすぎてお前の鼻は入らないぞ」
──『コハク:だれ? いるの?』
──『コハク:もふもふ、する?』
コハクは穴の前でパタパタと尻尾を振り、楽しそうに中を覗き込んでいる。
拾い狐としての本能だろうか。自分よりも弱く、怯えている存在に対し、保護欲に近い好奇心が発動しているらしい。
◇
数時間後。
俺は温泉の清掃を終え、開店の準備をしながら端末で倉橋さんに報告を入れた。
『壁を開通させるつもりはありませんが、向こう側から穴を掘ってきている存在がいます。敵意はゼロ。贈り物までもらいました。しばらく、このまま様子を見てみます』
返信はすぐに来た。
『贈り物の件は了解した。安全が確認できるまでは現状維持を徹底しろ。ただし、万が一の場合の撤退準備だけは常に怠るな。以上』
いつも通り、事務的で、けれど俺の判断を尊重してくれる言葉。
俺は画面を閉じ、もう一度温泉エリアの穴を見た。
今日から、この「穴越しのやり取り」がしばらく続くことになりそうだ。
俺はふと思いつき、湯の花の結晶で作った小さな照明を一つ、その穴のそばに置いた。
岩の上に置かれた淡い光は、小さな穴を通じて、壁の向こう側の冷たい暗闇へと、ほんの少しだけ差し込んだ。
深淵の暗闇に、俺たちのカフェの光を、ほんの少しだけお裾分けする。
それだけで、あっちにいる誰かが、ほんの少しだけ温かい気持ちになれたらいい。
「……よし、開店だ」
俺は、手の中にある白い花を、一番目立つカウンターの棚に飾った。
チリリン、とチルの開店の鈴が響く。
いつもの、けれど少しだけ「家族」が増えたような。
そんな、新しい一日の始まりだった。




