第66話 【訪問】閉店後に聞こえた、規則的なノック
【現在:開業79日目・深夜】
営業終了後の最下層カフェは、一日のうちで最も穏やかな静寂に包まれる時間だ。
防犯用の重厚なアーチを完全に下ろし、表の看板を「準備中」へと返す。配信用カメラの電源も落とし、俺たちは一日の疲れを癒やすために、スタッフ総出で温泉に浸かっていた。
天井の発光結晶が、立ち上る白い湯気に反射して、淡い虹色の光を店内に投げかけている。
聞こえるのは、ポッカが石の炉で薪を爆ぜさせるパチ、パチという乾いた音と、岩肌を伝うお湯の柔らかな水音だけだ。
「ふぅ……。今日も一日、お疲れ様」
俺が肩までお湯に浸かりながら呟くと、足元でぷかぷかと浮かんでいたスミが、同意するように小さく体を震わせた。
グレイの巨体は、特大サイズの浴槽に収まり、目を閉じて静かに休息をとっている。
コハクは俺のすぐ隣の浅瀬で、丸くなってウトウトと舟を漕いでいた。
まさに、これ以上ないほど穏やかで、満たされた夜。
――コン、コン、コン。
不意に、その音が響いた。
岩盤を伝って響いてきたのは、規則的で、控えめな三回の打撃音。
崩落の予兆のような地響きではない。あるいは、何かが偶然ぶつかったような不自然な音でもない。
それは、明確な「誰か」の意志を感じさせる、丁寧な『ノック』の音だった。
音の主は、温泉エリアの奥の壁――先日スミが空洞を見つけた、あの岩盤の向こう側だ。
「っ……」
俺が反射的に体を起こすと同時に、スタッフたちが一斉に反応した。
コハクが寝ぼけ眼をカッと見開き、三角形の耳をピンと壁の方へ向ける。
スミは驚いて「ぷるぷる」と震えながら、俺の足の間に潜り込んできた。
ポッカの炎が一瞬だけ大きく揺れ、警戒の火の粉を散らしたが、すぐに状況を見守るように安定する。
天井のツタの上では、チルが小首を傾げて、不思議そうに壁の奥を見つめていた。
唯一、グレイだけが、微動だにせずに目を閉じたままだった。
彼がこれほどまでに落ち着いているということは、壁の向こう側にいる存在が、俺たちにとって「害を成すものではない」という証左でもあった。
俺は意識を集中させ、スキル『万獣統括』のチャンネルを壁の向こう側へと向けてみた。
分厚い岩を透過して流れ込んできたのは、驚くほど純粋な感情の波長だった。
「…………」
そこに混ざっていたのは、未知の場所に対する「好奇心」と、そして切実なまでの「温かさへの渇望」だ。
ポッカが放つ熱や、ここから漏れ出しているコーヒーの芳醇な香り。
暗闘の深淵で孤立していた彼らが、その『温もり』に惹きつけられて、壁のすぐ裏側までやってきたのだ。
「いらっしゃい」
俺は、壁の向こう側に向かって、声に出して語りかけた。
自分の声が、温泉の湿った空気の中で柔らかく反響するのが分かる。
「……でもごめんな。今日はもう、閉店なんだ。みんな寝るところなんだよ」
俺の言葉が、岩盤の隙間を通じて向こう側に届いたのだろうか。
壁の向こう側で、くすくす、と小さな子供が笑うような、不思議な気配がした。
そして、それきりノックの音は止まった。
気配は去ったわけではない。彼らは壁のすぐ向こう側に身を寄せ合い、そこから漏れ出してくる僅かな温もりを楽しんでいるようだった。
俺が壁に語りかけたその時、カウンターの奥から、グレイが初めて俺の方を見た。
黄金の瞳が、静かに俺を射抜く。
その瞳の中に、かつて石板を見た時のような硬い拒絶の色はなかった。
グレイは、壁の向こう側の存在を、「敵」ではなく、かつての隣人としての「知っている相手」として認識しているのだと、俺は確信した。
──『グレイ:……優しいな』
脳内リンクに落ちてきたのは、そんな一言だけだった。
相変わらずの短文。けれど、その響きには俺の判断を肯定する、不器用な温かさが混ざっていた。
「ははっ、店長に言われると照れるな」
俺はそれ以上何もせず、再び温泉に体を預け、肩まで深く浸かった。
コハクが安心したように俺の膝の上によじ登ってきて、ゴロゴロゴロ……と喉を鳴らして再び眠りに落ちる。
「明日も、俺たちはここにいるから。……おやすみ」
壁に向かって小さく呟き、俺はゆっくりと目を閉じた。
かつては絶望と孤独の場所だったダンジョン最下層。
けれど今、この場所は壁一枚を隔てて、誰かと温もりを分け合える場所に変わり始めている。
穏やかな夜が、静かに過ぎていく。
壁の向こう側にも、俺たちのカフェの温もりが、コーヒーの香りと共に届いていますように。




