第65話 【痕跡】スミが壁の奥の空洞を見つけた
【現在:開業77日目】
温泉エリアの湯気は、今日も天井の発光結晶を柔らかくぼかして、幻想的な星空のような光景を演出していた。
今日は通常のカフェ営業日。俺はカウンター越しに配信用のカメラを向け、温泉エリアでせっせと「お仕事」に励んでいるスタッフの姿を映していた。
──────【LIVE】同接:21,800──────
※探索者協会認定・第50階層特別安全区(特区)
: 今日はスミちゃんの密着配信か
: ぷるぷる動いてるの、見てるだけで癒やされる
: 壁がピカピカになっていくw
: お掃除スライム、一家に一台欲しい
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「いらっしゃい。今日は温泉の定期メンテナンス日なんです。スミが壁面の清掃を担当してくれてますよ」
スミは温泉の岩肌にべったりと張り付き、小さな体を器用に揺らしながら、岩の表面に付着した僅かな汚れや苔を分解・吸収していた。
スミが通った後の岩肌は、濡れた黒曜石のように美しく光り輝く。その完璧な仕事ぶりに、コメント欄も感心の嵐だ。
──『スミ:ここ、ぴかぴか!』
──『スミ:もっと、きれいに、する!』
ご機嫌な字幕を出しながら、スミはさらに壁の奥――温泉を掘削した際に削った、一番分厚い岩盤のあたりへと移動していく。
だが、その時だった。
つるんっ、パキン。
聞き慣れない、乾いた音が響いた。
スミが張り付いていた岩肌の一部が、スミの強力な溶解力によって極限まで薄くなり、不自然に剥がれ落ちたのだ。
──『スミ:!?』
──『スミ:あかり! ここ、むこう、ある!』
驚いて「ぽよんっ」と跳ねたスミの声に、俺はカメラを手に取って駆け寄った。
スミが示しているのは、削られた岩盤のわずかな隙間だ。そこからは、こちら側の温泉の熱気とは違う、ひんやりとした、けれどどこか懐かしい「外」の風が漏れてきていた。
「……空洞か?」
俺は一度、配信のカメラをオフにした。
ここから先は、まだ視聴者に見せていい段階ではない。
慎重に岩の隙間を覗き込み、ピッケルで周囲の岩を軽く叩いてみる。
音の反響からして、この先にはかなり広い空間――それも、かつては通路として機能していたような、なだらかな構造が存在していることが分かった。
おそらく、古竜さんが深淵の奥からこの最下層まで移動してきた経路の一つなのだろう。
温泉を掘ったことで、偶然にもその「埋もれていた入り口」のすぐそばまで到達してしまったらしい。
俺はすぐに端末を取り出し、倉橋さんへ現場の写真を送った。
返信は、一分と経たずに戻ってきた。
『壁越しの観測のみを許可する。物理的な開通、および通路への進入は厳禁だ。万が一、深淵から未知の個体が流入した場合、現在の特区の戦力では安全を保障できない。釘を刺しておくぞ。以上』
「分かってますって。無茶はしませんよ」
俺は倉橋さんの事務的だが的確な忠告に苦笑しつつ、石の壁にそっと手を触れた。
そして、スキル『万獣統括』のチャンネルを、壁の向こう側に向けて薄く、慎重に開いてみる。
「…………」
意識が壁を透過し、暗闇の奥へと吸い込まれていく。
すると。
微かではあるが、複数の、確かな『生命の気配』が俺の感覚に触れた。
それは古竜さんのような圧倒的で巨大なものではない。
もっと小さくて、けれど、たくさん。
温かい光に憧れるような。
こちらから漏れ出すコーヒーの匂いに、不思議そうに鼻をひくつかせているような。
植物のようでもあり、動物のようでもある、ひどく曖昧で……けれど温かい、不思議な生命の波動。
「……いるんだな」
俺はそれだけを確認すると、それ以上は追及せず、スキルの接続を静かに閉じた。
深入りはしない。それが、この店を守るための俺なりのルールだ。
◇
カウンターに戻ると、グレイがいつの間にか淹れていたコーヒーを、黙って俺の前に差し出した。
──『グレイ:……冷める』
短く落ちた字幕。
だが、その黄金の瞳が俺をじっと見つめる視線には、「戻ってきたか」という安堵の色が微かに混じっている。
グレイもまた、俺が壁の向こうの気配に触れたことを察していたのだろう。
「ありがとう、店長。……いい香りだ」
俺はコーヒーを一口飲み、その温もりが体に染み渡るのを感じながら、さっきの石の壁を振り返った。
壁の向こう側に何がいるのか。彼らがどんな姿をしているのか。今はまだ分からない。
けれど。
「もし、向こうからこちらに来たいと思ったら。いつでも、扉を叩けばいい」
俺は誰に宛てるでもなく、暗闇の奥に向かって呟いた。
「俺たちはいつも通り、ここで美味しいコーヒーを用意して待ってるから」
グレイがフンと鼻を鳴らし、再びミルのハンドルを回し始める。
コハクは俺の足元で、新しいおもちゃ――削り落とされた岩の欠片――を追いかけて、無邪気に走り回っていた。
最下層カフェの日常は、今日も変わらず温かい。
たとえ壁一枚隔てた向こう側に、未知の隣人たちが潜んでいたとしても。




