第64話 【手がかり】古竜が石板を見つめて動かない
【現在:開業76日目・定休日】
定休日の朝。
配信用のカメラを切り、アーチの「準備中」の札を確認してから、俺はカウンターの裏棚にしまっていた『それ』を取り出した。
数日前にスミが排水路の掃除中に掘り出した、未知の石板。
五十階層の湧き水で洗い流した後の表面には、精緻な幾何学模様と、見たこともない文字列が刻まれている。
俺は、今朝届いた倉橋さんからのメッセージを思い出しながら、指先で石板の冷たい感触をなぞった。
『学術部門の解読チームに回したが、既知のどの古代文字体系にも該当しないという結論が出た。人間側の研究データでは完全にお手上げだ。現物は引き続き、お前の方で安全に保管しておけ』
探索者協会の精鋭たちが揃う学術部門ですら、手も足も出ない謎。
地上の英知を結集しても読めない文字が、今、俺の目の前にある。
「やっぱり、ただの忘れ物じゃないんだな……」
俺が石板をカウンターの上に置き、腕を組んで考え込んでいた、その時だった。
ズゥゥゥゥン……。
入り口のアーチの外から、地響きのような重低音が響いた。
いつもなら、降り注ぐ温泉の熱を浴びてスースーと寝息を立てているはずの古竜さんが、不意にその大きな目をカッと開けたのだ。
山のような巨体が揺れ、ぬっと巨大な鼻先が、アーチを通り越して店内へと突き出される。
このカフェを開いてからずっと、古竜さんは一度だって中に入ろうとしたことはなかった。自分の巨体が店を壊してしまうのを、彼なりに恐れていたからだ。
だが、今の彼は違う。
その巨大な、琥珀色の瞳が、カウンターの上に置かれた小さな石板をじっと射抜くように見つめていた。
「……古竜さん?」
俺が声をかけたが、返事はない。
ただ、彼の瞳が、吸い寄せられるように石板へと固定されている。
俺は意識を集中させ、スキル『万獣統括』のチャンネルを慎重に合わせてみた。
すると、いつもの『ねむい』や『あったかい』といった幼い感情とは全く違う、ひどく深く、そして重い『記憶』の波動が、濁流のように脳内に流れ込んできた。
「っ……!」
頭が割れるような衝撃と共に、断片的な「映像」が視界をよぎる。
そこは、今の五十階層よりもさらに暗い、完全な暗闘の世界。
だが、その闇の中に、かつては微かな光があった。
そして、石板に刻まれた模様と全く同じ紋様を、その体に纏った「何か」の輪郭。
人型なのか、獣型なのかは分からない。ただ、それは確かに知性を持ち、この深淵の底で生きていた。
――古竜さんは、知っている。
この石板を刻んだ「誰か」を。あるいは、今も深淵の奥底に潜んでいる、かつての隣人たちを。
──『古竜:……さみしい、のは、おれだけじゃない』
脳内リンクを通じて落ちてきた字幕。
それは、いつもの甘えん坊な彼からは想像もできないほど、不思議な厳かさと哀しみを帯びていた。
ふと視線を感じて振り返ると、カウンターの奥でグレイがゆっくりと黄金の瞳を開けていた。
彼はコーヒーミルを回す手を止め、動かぬ彫像のように、古竜さんと石板を見つめている。
以前、石板を見せた時と同じ、感情を完全に閉ざした表情。
俺のスキルが拾うのは、相変わらず「読めない」氷のような壁だ。
だが、今回はその壁の向こう側に、わずかな綻びを感じた。
それは、全てを諦め、隠し通そうとする拒絶ではない。
大切な何かを伝えるべきか、あるいは、このまま平和な「家」を守るために黙秘すべきか。
そんな、不器用で真っ直ぐな大狼なりの『逡巡』が、微かな温もりとなって俺の指先に伝わってきた気がした。
グレイもまた、深淵の奥に何があるかを知っている。
そして、それが今の俺たちにとって、どんな意味を持つのかも。
「……きゅきゅんっ!」
張り詰めた空気を切り裂いたのは、一陣の金色の風だった。
コハクが、店内に突き出された古竜さんの巨大な鼻先に、全力で飛びついたのだ。
──『コハク:おはな! おっきい!』
──『コハク:あそぶ! ぎゅーする!』
コハクは、古竜さんの熱い鼻先に顔をぐりぐりと押し付け、短い前足で必死にしがみついている。
空気の重さなんて一ミリも読んでいない、その無邪気すぎる行動。
古竜さんは不意を突かれたように一度だけ瞬きをすると、ふしゅー、と優しく鼻息を吐いて目を細めた。
張り詰めていた緊張が、コハクのもふもふとした体温によって、ゆっくりと霧散していく。
「ははっ、よしよし。古竜さん、ありがとな。……ちょっと、お前の故郷のことが分かった気がするよ」
俺は古竜さんの鼻筋をそっと撫でてから、石板を丁寧に布で包み、再び棚の奥へと戻した。
この店の裏側に、まだ誰かがいる。
それは、かつてこの最下層を支配していた古代種たちの生き残りなのかもしれない。
だが、俺はそれを暴きに行くつもりはなかった。
俺はもう探索者じゃない。カフェの店主だ。
無理やり扉をこじ開けるより、美味しいコーヒーの香りを届けて、向こうから「お邪魔します」とやってくるのを待つ方が、俺たちらしい。
ふと、温泉エリアの奥の壁に目を向ける。
スミが温泉を掘り当てた、あの岩盤。
その向こう側には、まだ見ぬ深淵が続いている。
「……明日は、多めに豆を挽いておこうか、店長」
俺がそう言うと、グレイは何も言わず、再びゴリ、ゴリと静かにミルを回し始めた。
その音は、まるで「準備はできている」と答えているかのように、力強く、心地よく響いていた。




