第63話 【日常】ここはもうカフェじゃない。「家」だ
【現在:開業74日目】
──────【LIVE】同接:18,500──────
※探索者協会認定・第50階層特別安全区(特区)
: おはよう!
: 朝早くから配信!? どうしたの?
: 主さん、寝癖ついてるぞw
──────────────────────
「おはようございます。今日はちょっと、いつもと違うことをやってみようと思いまして」
特区の朝は早い。
俺はまだ薄暗い店内をカメラで映しながら、小声で語りかけた。
「温泉ができてから約二週間。うちのカフェの一日の流れが、完全に定着してきたんです。なので今日は、『最下層カフェの一日密着配信』をお届けしようと思います」
コメント欄が一気に沸き立つ。
普段の営業時間は昼から夕方までだが、その前後の時間帯をどう過ごしているのか、視聴者たちも気になっていたらしい。
「まずは朝の日課、『温泉の管理』です」
俺はカメラを温泉エリアへ向けた。
仕切りの向こうでは、ポッカが石の炉の中でパチパチと心地よい音を立てていた。
「ポッカ、おはよう。夜通しありがとうな」
──『ポッカ:おはよう! ぽかぽか、かんぺき!』
ポッカが元気よく炎を揺らす。彼のおかげで、温泉は毎朝、人間にも魔獣にも完璧な温度に保たれている。
湯船の底では、スミが昨晩のうちに沈殿した湯の花結晶をせっせと集めていた。
──『スミ:きれい! ひかるいし、あつめた!』
俺はスミから乳白色の結晶を受け取り、布で軽く拭いてから、カウンターの隅や壁の棚に並べていく。これが今日のカフェを彩る大切な間接照明になる。
俺が照明をセットし終える頃。
カウンターの奥から、低く、重厚な音が響き始めた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
グレイがいつもの定位置に座り、特大のミルでコーヒー豆を挽き始めたのだ。
SSランクの大狼が静かに豆を挽く音と共に、極上の深淵珈琲の香りが店内に満ちていく。
「ふぁぁ……きゅぅ」
その香りに誘われるように、丸太の椅子の上で丸くなっていたコハクが、大きな欠伸をしながら起き上がってきた。
俺はコハクを膝に乗せ、ブラシを取り出して「おはよう」と声をかける。
──『コハク:おはよう……あかり……』
寝ぼけ眼のコハクを丁寧にブラッシングし、金色の毛並みを整えながら、俺は今日の仕込みと段取りを確認していく。
これが、俺たちの朝のルーティンだ。
◇
【昼・開店】
チリロ、チリリン。
天井のツタの上から、チルが開店を告げる鈴の音を響かせた。
同時に入り口のアーチをくぐってきたのは、常連の角鹿親子だ。
子鹿は店に入るなり、いつもの席ではなく温泉エリアに向かって猛ダッシュしようとした。
しかし、すぐさま親の角鹿に首根っこを咥えられ、ズリズリと引き戻される。
──『子鹿:おふろ! ぷかぷかする!』
──『角鹿:……(ため息)』
「ははっ、先にはちみつラテを飲まないとダメだってさ」
そんな親子のやり取りを見ながら、俺は手際よく二杯のラテを淹れた。
【昼・療養枠】
しばらくして、療養枠の楠木さんが来店した。
手には、以前よりさらに洗練されたパッケージの「入浴剤・改良サンプル」が握られている。
楠木さんは温泉でじっくりと効果をテストした後、湯上がりの上気した顔でカウンターに座った。
「店長さん、香りの持続時間をさらに延ばすことに成功しました! これなら地上の浴槽でも、完璧に深淵の森を再現できます」
「すごいですね。倉橋さんも、認可まであと少しだって言ってましたよ」
俺がコーヒーを差し出すと、楠木さんは本当に幸せそうに目を細めて、カップに口をつけた。
【午後・通常営業】
午後になると、五十階層の魔獣たちが次々と顔を出し始めた。
綿毛の小魔獣、苔亀、そして角鹿の群れの仲間たち。
魔獣たちは「温泉組」と「カフェ組」に分かれ、それぞれのお気に入りの場所で羽を伸ばしている。
俺は店内を行き来しながら、コーヒー、ラテ、そして冷やしプリンを配って回った。
その間、グレイはカウンターの奥から一歩も動かず、黙々とドリップを続けている。
一切のブレがない、完璧な所作。
彼がそこに鎮座しているという事実が、この空間に絶対的な安心感をもたらしていた。
◇
【夕方・閉店】
「さて、皆さん。そろそろ閉店の時間です。一日密着にお付き合いいただき、ありがとうございました」
俺がカメラに向かって語りかける裏で、スミがぽよんぽよんと床を滑って最終清掃を行い、ポッカが石の炉の炎を「夜間保温モード」へと切り替えている。
チリロ、チロロ。
チルが『おやすみ』を告げる優しい鈴の音を響かせたところで、俺は配信の録画ボタンを停止した。
◇
【夜・スタッフ温泉】
カメラの電源を切り、入り口の防犯用アーチを下ろした後は、俺たちだけの時間だ。
「……ふぅぅ」
俺は肩までお湯に浸かり、今日一日の疲れを最下層のミネラル湯に溶かしていった。
隣には、特大サイズの浴槽に巨体を沈めたグレイが鎮座している。彼の毛のボリュームが凄まじく、お湯が半分くらいはみ出しているが、本人は気持ちよさそうに目を閉じている。
コハクは湯船の縁の温かい岩の上で、完全にお腹を見せてへそ天の状態で寛いでいる。
湯船の底では、スミが飽きもせずに『ひかるいし、あるかな?』と湯の花を探して回り、天井のツタからはチルの静かな鳴き声が降ってくる。
ふと外に耳を澄ませば、古竜さんのスースーという規則正しい寝息が聞こえた。
天井の発光結晶と、棚に並べた湯の花の照明が、立ち上る湯気の中でまるで星空のように淡く、柔らかく揺れている。
「…………なあ、グレイ」
俺は、お湯の中でゆらゆらと揺れる銀色の冬毛を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ここはもう、『カフェ』じゃないな」
グレイが、ゆっくりと片目を開けた。
黄金の瞳が、静かに俺を映し出す。
「『家』だよ。……俺たちの」
グレイの字幕は、何も出なかった。
けれど代わりに、湯船の底に沈んでいた巨大な尻尾が、バフッと一度だけ、ゆっくりと揺れた。
それは間違いなく、不器用な大狼からの肯定のサインだった。
◇
『通知:本日の最高同時接続数 26,000人。クリップ動画複数作成。「最下層の一日」が各SNSでトレンド入り』
脱衣所に置かれた俺の端末には、そんな通知が絶え間なく届いていた。
今日の配信が、地上の人々にどれほどの癒やしと反響をもたらしたかを示すデータだ。
だが、俺はそれを見ることなく。
温かいお湯と、魔獣たちの穏やかな気配に包まれて、すっかりうたた寝をしてしまっていた。
こつん。
湯船の縁から身を乗り出したコハクの小さな前足が、俺の頬にぺたりと乗せられる。
──『コハク:あかり、おやすみ』
脳内に落ちてきたその温かい声を子守唄に、俺は深い、深い眠りへと落ちていった。




