第59話 【完成】地上でも使える「最下層の温もり」が生まれた
【現在:開業67日目】
チリロ、チリリン。
天井のツタから響くチルの鈴の音と共に、入り口のアーチをくぐってきたのは、療養枠の常連である楠木さんだった。
今日の彼女は、いつものようにカウンターへ直行するのではなく、大事そうに両手で小さな木箱を抱えていた。
そして、俺の顔を見るなり、満面の笑みでそれを突き出してきた。
「店長さん、ついにできました……!」
「いらっしゃい。できたって、もしかして」
楠木さんが静かに木箱の蓋を開ける。
中には、丁寧に折られた和紙のような紙包みがいくつも並んでおり、その隙間から、淡く光る微細な粉末がこぼれていた。
「最下層の温泉を再現した、特製の『入浴剤』です」
楠木さんは誇らしげに胸を張った。
以前、スミが温泉の底から見つけた「湯の花」の結晶。それをアロマの保香剤として使えないかとサンプルを持ち帰っていたが、どうやらとんでもないものを完成させたらしい。
「温泉水のミネラル成分をベースに、五十階層のハーブを濃縮して、湯の花結晶の微粉末を配合しました。……地上の普通のお湯に溶かすだけで、この最下層に近いリラックス効果が得られるはずです」
「それはすごいな。……ちょっと、試してみてもいいですか?」
俺が木桶に温泉の源泉(ポッカが温める前のただの水に近い状態)を汲んでくると、楠木さんは紙包みを一つ開け、中の粉末をさらさらと桶の中に落とした。
しゅわっ、と微かな音がして粉末が溶けていく。
立ち上ってきた蒸気には、これまでの無臭の温泉とは違う、ほんのりと甘い、深い森の奥で深呼吸をした時のような清涼な匂いが帯びていた。
桶の水に手を入れてみる。
ただの水だったはずの感触が、とろりとした滑らかなものに変わり、浸した肌がすうっと柔らかくほぐれていくのが分かった。
「……すごい。本当に、あの温泉に入った時の感覚に近いです。これを地上の探索者たちに届けられるなら、とんでもないことですよ」
俺が感嘆の声を漏らすと、楠木さんは嬉しそうに頷き、そして少しだけ真剣な表情になった。
「今まで、ダンジョンで傷ついた探索者の『体』を治すポーションはありました。でも、張り詰めた『心』を休ませる手段は、ほとんどなかったんです」
深く傷つき、嗅覚過敏となって一度は引退を余儀なくされた彼女の言葉には、確かな重みがあった。
「でも、これがあれば。ダンジョンから帰った後の自宅のお風呂で、少しでも心を休ませてあげられるはずです」
「……ええ、間違いなく救われる人がたくさんいますよ」
この入浴剤の効能については、同じく療養枠の常連である元ヒーラーの澪が専門的なレポートを書き上げ、倉橋さん経由で探索者協会本部に提出する段取りになっているらしい。
うちのカフェから持ち帰った温もりが、地上の誰かを救う第一歩になるのだ。
──────【LIVE】同接:23,500──────
※探索者協会認定・第50階層特別安全区(特区)
: ちょ、今とんでもない発表してない!?
: 最下層の温泉成分入りの入浴剤!?
: 売ってくれ!!! いくらでも出す!!!
: 通販まだ!? カートの準備できてるぞ!!
: ギルドの経費で箱買いしたい(切実)
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俺たちが話している間、配信のコメント欄は完全に沸騰していた。
画面の向こう側の探索者たちが、どれほど「癒やし」に飢えているかがよく分かる。
「皆さん、落ち着いてください。これはまだ研究段階の試作品です。協会の正式な認可が下りるまでは、販売も譲渡もできませんからね」
俺がカメラに向かって冷静に釘を刺すが、コメント欄の熱気は一向に収まる気配がない。
すると。
カウンターの奥で静かに豆を挽いていたグレイが、ゆっくりと顔を上げ、カメラのレンズを黄金の瞳で真っ直ぐに射抜いた。
──『グレイ:……騒がしい』
──────【LIVE】同接:26,100──────
: すみません店長!!
: 申し訳ありませんでした!!
: 静かにします(正座)
: 店長の一喝たすかる
──────────────────────
SSランクの威圧感……いや、絶対的な店長のオーラの前に、コメント欄は一瞬にして謝罪の嵐へと変わり、ピタリと統制が取れた。
さすがグレイだ。
「きゅんっ」
そんな騒ぎの中、俺の膝の上に、トコトコとコハクがよじ登ってきた。
楠木さんとの話に夢中になっていた俺に対し、コハクは前足を俺のエプロンに乗せ、じっと顔を見上げてくる。
──『コハク:あかり、きいてる?』
──『コハク:なでて。もっとなでて』
甘え全開の字幕を連発しながら、コハクは俺の手に自分の頭をぐりぐりと押し付けてきた。
俺が苦笑いしながらその柔らかな冬毛を撫でてやると、喉の奥からゴロゴロと満足げな音を鳴らす。
「ふふっ。コハクちゃん、もしかして私に嫉妬してます?」
楠木さんがクスッと笑いながら指摘すると、コハクはビクッと肩を揺らし、ピンと立っていた耳をぺたんと伏せた。
──『コハク:……してない』
分かりやすすぎる強がりに、俺も楠木さんも、そして大人しくなったコメント欄の視聴者たちも、すっかり頬を緩ませてしまった。
◇
営業終了後。
楠木さんが置いていってくれた入浴剤の紙包みを一つ、俺はカウンターの奥の壁棚にそっと飾った。
すぐ隣に置かれた湯の花結晶の照明が、和紙のような包みを淡く、柔らかく照らし出している。
「温泉を掘り当てたら、綺麗な結晶ができて。その結晶を研究したら、地上の人を癒やす入浴剤ができて」
俺は、並べられた品々を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「この店、本当に勝手に良くなっていくな。俺はただ、コーヒーを淹れてるだけなのに」
すると、棚の下で休んでいたグレイが、フンと短く鼻を鳴らした。
──『グレイ:……俺のコーヒーが、本体だ』
画面端に落ちてきたその字幕に、俺は思わず吹き出してしまった。
どんなに温泉が立派になろうと、新しいアイテムが増えようと、この店の主役は自分(の淹れるコーヒー)だという、揺るぎない自信。
「はいはい、分かってますよ、店長」
俺は苦笑いしながら、世界一腕の立つバリスタの銀色のもふもふな背中に、そっと寄りかかった。




