表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/100

第56話 【開放】最下層の温泉に、初めての人間が浸かった

【現在:開業61日目】



温泉の整備が完了し、倉橋くらはしさんからの厳しい追加安全審査も無事にクリアした翌日。

俺は朝から、完成したばかりの温泉エリアの入り口に、木材を組んで目隠し用の「仕切り」を設置していた。



脱衣所には、角鹿つのじか五十階層ごじゅっかいそうの奥から運んできてくれた、巨大で繊維質の葉を乾燥させたものを重ねて置いてある。吸水性が抜群で、肌触りも柔らかい極上の天然タオルだ。



源泉の温度を微調整しているポッカの横で、グレイが長い鼻先を湯気に近づけた。



──『グレイ:……ちょうど』



「よし。これで人間のお客さんを迎える準備は完璧だな」



チリロ、チリリン。

開店時間になり、入り口のアーチからチルの澄んだ鈴の音が響く。

今日、特区療養枠とっくりょうようわくで予約を入れていたのは、元調合師の楠木くすのきさんだった。



「いらっしゃい、楠木くすのきさん。……実は今日から、新しい設備が使えるようになったんですよ」



俺が温泉の存在を告げると、楠木くすのきさんは驚きに目を丸くした。だが、すぐに少しだけ不安そうな顔になる。



「温泉、ですか……。あの、匂いは大丈夫でしょうか……?」



極度の嗅覚過敏である彼女にとって、地上の人工的な入浴剤や、硫黄臭の強い温泉は、リラックスするどころか暴力的な刺激になってしまうのだ。

俺は安心させるように微笑んで首を振った。



「心配いりません。ここはスミが空気ごと完全に浄化していますし、お湯も不純物ゼロの極上ミネラル泉です。……無臭ですよ」



俺の言葉に背中を押され、楠木くすのきさんは仕切りの奥へと足を踏み入れた。





──────【LIVE】同接:24,100──────

※探索者協会認定・第50階層特別安全区(特区)

: 温泉!? マジで完成したの!?

: いいなあ……俺も入りたい(切実)

: 療養枠ずるい! せめて画面越しに湯気だけでも……!

: 主さん、お風呂配信はよ!

──────────────────────



「いや、さすがに人間のお客さんが入浴中のカメラはNGですよ。……でも、入り口の湯気と、音だけなら」



俺はコメント欄の熱い要望に応えて、配信用カメラの向きを、温泉エリアの入り口の仕切り方向に少しだけずらした。



もちろん中は見えないが、仕切りの上部から、もわもわとした白い湯気がカフェの方へと柔らかく溢れ出してきているのが映る。



そして、マイクが拾うのは純粋な「環境音」だけ。



――ちょろちょろちょろ……。

岩肌を伝って湯船に注ぎ込まれる、心地よい水音。

――パチッ、パチパチ。

ポッカの炎が、遠くで乾いた薪を爆ぜさせる音。

――チリロ、チロロ……。

天井のツタの上からチルが奏でる、静かな子守唄のようなさえずり。



──────【LIVE】同接:26,500──────

: …………

: なんだこれ、最高すぎる……

: 映像ないのにめっちゃ癒やされる

: ASMR神配信

: あかん、仕事中なのに寝落ちしそう……

: 毎日やってくれ

──────────────────────



「ははっ、これは予想外に好評ですね。音だけ配信、うちの定番にしてもいいかもな」



俺が小声で呟いていると、足元で丸くなっていたコハクの様子がおかしいことに気がついた。

仕切りから漏れてくる温泉の温かい湯気を全身に浴びて、コハクの目が完全にとろんとしている。



──『コハク:ねむい……あったかい……ねむ……』



脳内リンクに落ちてくる字幕が、だんだんと短くなっていく。

やがて、コハクのまぶたがゆっくりと閉じられ。



──『コハク:…………すぅ』



コハクは前足に顔を埋めたまま、幸せそうに寝落ちしてしまった。



その頃、仕切りの向こう側の温泉では。

肩までお湯に浸かった楠木くすのきさんから、声にならないような深い、深い吐息が漏れていた。



「……匂いが、ない。痛くない。何も、刺さらない。ただ……温かいだけ……」



それは、嗅覚過敏の彼女が、世界で初めて「安心して全身を預けられるお湯」に出会えた瞬間の、心からの安堵の声だった。





「……ふぅぅ」



しばらくして、湯上がりの楠木くすのきさんがカウンターに戻ってきた。

肌はほんのりと桜色に上気し、憑き物が落ちたように表情が明るくなっている。

俺はタイミングを見計らって、淹れたての深淵珈琲アビス・コーヒーを彼女の前に置いた。



楠木くすのきさんはカップを両手で包み込み、ゆっくりと香りを吸い込んでから、一口飲んだ。



「…………っ」



数秒の完全な沈黙。

温泉で全身の細胞が開ききった状態で飲む、グレイの淹れた極上のコーヒー。それがどれほどの破壊力を持っているか。



「店長さん……これは、反則です」



楠木くすのきさんは、笑いながら、ポロポロと涙をこぼした。



「こんなの、地上に帰りたくなくなっちゃいますよ……」



俺は布巾でカウンターを拭きながら、「またいつでも入りに来てください」と静かに笑って返した。



帰り際。

すっかり調合師としての情熱を取り戻した楠木くすのきさんが、目をキラキラさせて俺に迫ってきた。



「店長さん! 私に、あの温泉の成分を研究させてください! 絶対にすごい効能が隠されているはずです!」



「あはは、分かりました。でも、ダンジョンの資源なので、一応倉橋くらはしさんに手続きを通してからにしてくださいね」



足取りも軽く帰っていく楠木くすのきさんを見送った後。

俺は片付けをしながら、端末で倉橋くらはしさんに短い報告メッセージを打った。



『温泉、大成功でした。あと、音だけの配信がすごく人気みたいです』



数分後、俺の端末がブルッと震え、倉橋くらはしさんからたった一行の返信が届いた。



『次の監査で俺も入る。以上』



「……監査を理由にしてるけど、絶対ただ入りたいだけだろ、あの人」



俺は一人で苦笑いしながら、温泉の入り口で寝こけているコハクの柔らかな背中を、そっと撫でた。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ