第50話 【卒業】鷹村さんが最後のコーヒーを飲んで、剣を背負い直した
【現在:開業57日目】
今日は、入り口の営業札を「営業中」にしているが、配信用のカメラは電源を切ったままだ。
チリリン、とチルの静かな鈴の音が鳴り、特区療養枠の最初のお客さんである、元Sランク剣士の鷹村さんがアーチをくぐってきた。
「いらっしゃい。空いている席へどうぞ」
俺はカウンターの中から、普段と全く変わらないトーンで声をかけた。
今日が彼の「卒業」の日だと分かっていても、過剰な送別会のような真似はしない。ただ、いつも通りに美味しいコーヒーを淹れて迎えるだけだ。
鷹村さんは、いつもの人間用の丸太椅子へ腰を下ろした。
すうっ、つるんっ。
スミが『きれい!』と足元の汚れを吸い取る。
ぽわんっ。
ポッカが『あっためる!』と石の炉で薪を爆ぜさせ、店内の空気を心地よい温度へと持ち上げる。
「きゅんっ!」
そして、コハクが短い尻尾を振りながら駆け寄り、ためらうことなくピョンと鷹村さんの膝の上に飛び乗った。
──『コハク:てき、いない』
──『コハク:しってる』
鷹村さんは少し目を細め、膝の上で丸くなったコハクの金色の冬毛に、そっと手を沈めた。
初めて来た日のように、何かに怯えて縮こまるような姿勢ではない。柔らかく、自然な手つきで、コハクの温かい命の鼓動を確かめるように撫でている。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
カウンターの奥では、グレイが特大のミルを回していた。
今日は純粋なブラックの深淵珈琲ではなく、たっぷりのミルクを使ったラテのようだ。
トトトトト……と抽出されたエスプレッソに、きめ細かく泡立てられたスチームミルクが注がれていく。
グレイの巨大な前足が、器用にカップを揺らす。
ミルクの白とコーヒーの深い茶色が混ざり合い、表面にふわりと浮かび上がったのは。
……一振りの、『剣』の形のラテアートだった。
「どうぞ」
俺がそのカップを鷹村さんの前に置くと、彼はラテアートを見て、ハッと息を呑んだ。
「……店長、分かってるんですね」
鷹村さんが、カウンターの奥でそっぽを向いている巨大な銀狼に向かって、小さく笑いかけた。
──『グレイ:別に』
脳内リンクに落ちてきた短い字幕。
目は合わせないが、それが不器用な店長なりの、最高の「はなむけ」であることは誰の目にも明らかだった。
鷹村さんは、両手でカップを包み込み、ゆっくりとラテを口に運んだ。
温かいミルクの甘みと、深淵珈琲の深いコク。
それを味わいながら、彼は膝の上のコハクを撫で続け、静かに口を開いた。
「……ここに来るまで、俺は、自分が完全に壊れてしまったんだと思っていました」
ポツリとこぼれた声は、薪が爆ぜる音に溶けるように穏やかだった。
「仲間を失って、剣の柄に触れることすら恐ろしくなって。……でも、違ったんです。壊れたんじゃなくて、ただ、心の芯まで冷え切っていただけだったみたいです」
鷹村さんは、カップから立ち上る湯気を見つめ、深く息を吐き出した。
「ここのコーヒーと、魔獣たちの温かさが、俺の凍っていた時間を溶かしてくれました」
彼の言葉に、俺は使い終わったカップを布巾で拭きながら、小さく笑って返した。
「うちのコーヒーは、冷めないうちに飲むのが一番ですからね。……また体が冷えそうになったら、いつでも飲みに来てください」
鷹村さんは、俺の言葉に深く、力強く頷いた。
◇
滞在時間が終わり、帰還の準備を整える時間。
鷹村さんは立ち上がり、入り口のラックに預けていた自分の剣の前に立った。
ゆっくりと、右手を伸ばす。
柄に触れるその手は、まだ、微かに震えていた。
完全にトラウマが消え去ったわけではない。恐怖は、確実に彼の奥底に残っている。
だが。
彼はその震える手で、しっかりと剣の柄を握りしめた。
そして、力強く引き抜き、自分の背中へと背負い直した。
もう、彼は逃げない。
冷え切っていた心に、再び歩き出すだけの「熱」が宿っているからだ。
「……お世話になりました」
鷹村さんは、俺と魔獣たちに向かって深く、長く頭を下げた。
そして、迷いのない足取りで、護衛と共に地上へと帰っていった。
◇
静寂が戻った店内。
俺は一人になったカウンターで、鷹村さんが使っていた人間用の丸太椅子を見つめていた。
座面に敷かれたクッションには、彼を癒やし続けたコハクの抜け毛が詰まっている。
「……また、次のお客さんが座るんだろうな」
ダンジョンの最下層にぽつんと灯る、小さなカフェ。
癒やしを求める迷子がいる限り、俺たちの居場所は、これからも静かに店を開け続ける。




