第47話 【来店】澪が、今度は療養枠の正規ルートでやってきた
【現在:開業51日目】
今日は配信のカメラをオフにしている。
特区療養枠を利用して、すでに鷹村さんと楠木さんが来店しており、それぞれ思い思いの時間を過ごしている静かな昼下がりだった。
チリリン。
チルの鈴の音が鳴り、Aランクの護衛職員に付き添われて、三人目のお客さんがアーチをくぐってきた。
銀色の髪を後ろで一つにまとめ、清潔なヒーラーのローブを身に纏った少女。
かつて俺と同じパーティーに所属し、ギルド崩壊の煽りを受けて心身をすり減らしていた元ヒーラーの澪だ。
以前、彼女が非正規のルートで五十階層まで辿り着いた時は、装備もボロボロで不法侵入同然だった。
だが今日は、協会の厳格な審査を通過し、正式な手続きを踏んでここに立っている。
「……店長さん」
澪は俺の前に立つと、深く頭を下げた。
「前回は、勝手に来てしまって本当に申し訳ありませんでした。……今回は、ちゃんと手続きを踏みました」
「ああ、倉橋さんから聞いてるよ」
俺はカウンターの中から、普段と何一つ変わらないトーンで返した。
かつてのギルドメンバーとしての過去は、もう完全に清算されている。今の俺にとって、彼女はただの「協会が身元を保証したお客さん」だ。
「厳しい審査を通ってきたんだろ。手続きを通したなら、お前はただの客だ。空いている席に座れ」
俺が顎で丸太の椅子を指し示すと、カウンターの奥で豆を挽く準備をしていたグレイも、静かに鼻を鳴らした。
──『グレイ:座れ』
その言葉に、澪はホッとしたように肩の力を抜き、鷹村さんと楠木さんから少し離れた席へと腰を下ろした。
すうっ、つるんっ。
スミが彼女の足元の汚れを音もなく吸い取る。
ポッカが石の炉でパチパチと薪を爆ぜさせ、冷えた空気をじんわりと温める。
そこへ、トコトコとコハクが駆け寄ってきた。
前回彼女が不法侵入してきた時は、全身の毛を逆立てて警戒していたコハクだが、今日は彼女の足元の匂いをふんふんと嗅ぎ、首を傾げた。
──『コハク:てき、いない』
──『コハク:しってる』
コハクはそう判定すると、短い尻尾をふりふりと揺らし、澪の足元に柔らかな冬毛をすりすりと押し付けた。
澪は少し驚きながらも、そっとコハクの背中を撫でる。手のひらに伝わる温かい命の鼓動に、彼女の強張っていた表情が優しく解けていく。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
グレイが特大のミルを回し、極上の湧き水でコーヒーをドリップしていく。
トトトトト……という水音と共に、深淵珈琲の芳醇な香りが店内に満ちた。
「どうぞ」
俺がカップを置くと、澪は両手でそれを包み込み、一口飲んだ。
かつて彼女が「世界で一番美味しい」と泣いた、あのコーヒーだ。
「……やっぱり、すごく美味しいです」
澪が静かに息を吐き出すと、隣の席に座っていた楠木さんが、優しく声をかけた。
「ここのコーヒーは、本当に痛んだ神経に効きますよね」
「……はい。なんだか、全部洗い流されるみたいで」
澪が答えると、鷹村さんもプリンのスプーンを置き、静かに頷いた。
「ええ。ここにいると、ただ息をしているだけで救われる気がします」
肩書きも、過去の傷も関係ない。
ただこの温かい空間に身を委ね、美味しいものを味わう客同士の、静かで穏やかな会話。
俺は何も口を挟まず、ただポッカの炎越しにその光景を見守っていた。
◇
滞在時間が終わりに近づき、鷹村さんと楠木さんが先に帰っていった後のこと。
一人残った澪は、空になったカップを見つめながら、意を決したように顔を上げた。
「……灯さん。私、ここで働けませんか?」
それは、過去への贖罪か、それともこの完璧な居場所への憧れか。
彼女の目は、すがるように真っ直ぐだった。
だが、俺の答えは決まっている。
「悪いな。うちに、人間のスタッフは要らないんだ」
俺がはっきりと告げると、澪は悲しそうに目を伏せた。
だが、これは彼女を突き放すための言葉じゃない。
「ただ――」
俺はカウンター越しに、彼女の目をしっかりと見据えた。
「さっきの楠木さん、地上で探索者向けの『回復用アロマ』を開発してるんだ。……お前が地上で、ヒーラーの知識を活かしてその調合を手伝うっていうなら、倉橋さんに推薦状を書いてやってもいい」
「え……?」
澪が、ハッと顔を上げた。
ダンジョンの最下層という閉じたシェルターは、傷ついた羽を休める場所であって、若い彼女が一生を過ごす場所じゃない。
お前の居場所は、ここじゃなくて、もっと広くて明るい外の世界にある。
それが、俺とこの店が提示できる、彼女への一番の処方箋だった。
「……楠木さんの、お手伝い」
「ああ。ヒーラーの視点があれば、絶対に良いものができるはずだ。……どうする?」
澪の目から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなく、自分がまだ誰かの役に立てるという、希望の涙だった。
「……はいっ。やらせてください!」
彼女は深く頭を下げ、今度は晴れやかな表情で、護衛と共に地上へと帰っていった。
特区療養枠。それは、迷子を囲い込む場所ではなく、再び歩き出すための力と温もりを与える場所なのだ。




